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はまつゝ羅抄 安倍紀行 10 内牧、結成寺

(内牧、結成寺山門)

「安倍紀行」の前回までの分は文化十年の旅で取材したもので、今回からは文化十一年(1814)の旅となる。記録の方式が「大井河源紀行」に似てきた。旅らしい記述が加わり、紀行文らしくなる。ちなみに「大井河源紀行」は藤泰さんが文化九年に旅した記録である。

9月27日、自分も、靜岡市葵区の慈悲尾、内牧、足久保を車で回ってきた。往時から200年経過して、当然、現在も存在しているものもあれば、探したけれども、見出せなかったものもある。合わせて報告していきたい。

〇 文化十一戌、こゝに卯月の中の六日、新間時連子(島田人、新間平太夫、俳号壷月)を誘い、安倍の谷におもむきける。この谷は安倍川の川上に入るなれば、川瀬を幾瀬となく渉り、殊に嶮岨の避(へき)地なれば、案内なくして叶うまじくと、かつて期したることなれば、一人に荷負わせ、導道者と共に、四人して未明に蝸廬を立ち出でける。
※ 僕(ぼく)- 下僕。男の召使い。下男。

・安倍口の里、自在庵とて無本寺の小庵あり。ある人伝に云わんべし。当国の守、今川範政朝臣、嘉吉年終焉(?)。この里に葬送して、今林寺といえる菩提寺を建立ありしが、後世川成して、その後庵地となりぬ。今の自在庵の地はかの寺の跡といえり。
※ 今川範政(いまがわのりまさ)- 駿河今川氏第4代当主。死没は永享5年(1433)。
※ 今林寺 - 廃寺。今川範政は臨済寺に墓所を移されている。
※ 川成(かわなり)- 洪水のために土砂が流出し田畑が川原になることをいうが、こゝではお寺が洪水で流されて河原になったことを示す。大きな川は平野部では、治水がなるまでは、洪水の度に川筋を変えていた。



(内牧、結成寺閻王堂)

・内牧の里、亀谷山結成寺、済家法幢地なり。朱符寺田五石。府の臨濟寺の末なり。むかしは鎌倉派なり。本尊地蔵、運慶作。開山、南寂豊公元始と云う。慶長元年遷化の僧なり。当寺鎮守八幡宮、山門の前にあり。神体唐金円鏡の如し。左右に鐶あり。正中に阿弥陀の像を鋳揚げたり。裏に正応五年二月十九日と記し、片仮名にて書彫り付けあれど、文字詳らかに読みがたし。こゝに寺僧の伝に云う。当寺はむかし開基、天徳寺法輪大禅定門にて、工藤左衛門尉祐経なり。既に寺後の山に祐経が五輪の塔ありと云う。閻王堂、鐘楼、山門あり。また、一徳寺、観法院とて、当寺の末院あり。
※ 済家(ざいけ)- 禅宗の臨済宗のこと。また、臨済宗の寺。

結成寺は雰囲気のあるお寺で、閻王堂、鐘楼、山門など揃っていたが、山門の前にあるという鎮守八幡宮は見つからなかった。
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )
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コメント
 
 
 
結成寺は父祖の菩提寺です。 (秋山白兎)
2017-08-10 12:56:43
大変参考になりました。ありがとうございました。
 
 
 
お役に立てて何よりです (きのさん)
2017-08-18 10:19:24
お役に立てて何よりです。

今後ともよろしくお願いします。
 
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