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静岡浅間神社へ初詣

(さすが家康お膝元の静岡浅間神社)

二つの低気圧が抜けて、北海道の東沖で猛烈に発達し、日本列島に等圧線が10数本立った。日本列島大荒れの朝、みぞれ混じりの雪がしきりに降っていたが、11時頃女房と初詣に出かけた。とりあえずは静岡浅間神社に初詣である。

女房は傘を持たずに出たことを悔やんだが、雪はいずれ上がるとの予感があった。静岡浅間神社の駐車場待ちで15分ほどかかった。雪は雨になりほとんど止んでいた。福矢を買うと大拝殿前の舞殿で巫女さんがその福矢を持って神楽を奉納してくれると再三放送されていた。風が強くて吹き飛ばされそうで、巫女さんが舞いにくそうであった。初詣ではお参りだけでお札も何も買わないことにしている。御札を一年粗末にせずに管理して、一年経ったら納めにまた来る煩わしさが、縁起かつぎに勝っているためである。休憩所で風を避けて甘酒を頂いた。一杯200円、生姜入り。


(福矢を持って神楽を奉納)

浅間神社にお参りする間に空が明るくなり、どんどん晴れてきた。静岡の街を南へ突っ切って久能街道に出る頃には、雲がすっかり吹き払われた。久能海岸に高波が打ち寄せ、テトラポットにぶつかって波しぶきが10m以上上がる。風に乗ってフロントガラスまで白い斑点が残った。

久能を目指したのは、新しく出来たと聞いた「徳川温泉城下町 すんぷ夢ひろば」がどんな所か、見に行こうと考えたからだ。駐車場が満車で、係員は2時間待ちだと言った。小高いところにある施設のそばまで車を進め、屋根だけを見て引返してきた。

夜、「すんぷ夢ひろば」の案内を見たところ、日帰り温泉の「天下泰平の湯」、話芸・笑芸・伝統芸の常設園芸場の「すんぷ園芸場」、徳川家康の生涯を体験できる「徳川家康ミュージアム」、さらにレストランや土産物屋が江戸の町並みを再現した中にあって楽しめると言う。それぞれの使用料がかなり高いから、観光客用の施設なのだろうと思った。(後半へ続く)
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亥年の今年

(大代のイノシシ像)

ことしは亥年、猪突猛進などというけれど、本当はかなり小心な動物で、突っ走ってくる猪に直前で傘をぱっと開くと、驚いて急ブレーキをかけまっしぐらに逃げていくという実験を、テレビで見た記憶がある。

亥に木編をつけると「核」になると、これもテレビの話。核保有国になったと威張っている北の国も、一見猪突猛進のように見えるけれど、意外と小心でかしこい国で、諸国の反応を耳をすませて聞いているように思う。

周辺の諸国の思惑の中に、北の国は今のまま、貧困の中で飢えていることを望む気持がありはしないか。北の国が瓦解して難民がどっとなだれ込んで来たり、解放されて安い労働力がどっと出てきたら、周辺の国々も今の繁栄のままではすまない。かつて経済大国として伸しあがった日本が、周辺の国々が成長し始めてからたどった道を、彼らは見てきたから、それは避けたい事態である。ならば、北の国の体制は今のままで維持しておきたいと考えて、何の不思議があろうか。人道的支援などとは言うけれど、現体制維持のための支援に他ならない。

そんな思惑がある以上、北の国の猪突は止まらない。かつて東側諸国がそうであったように、かの国民が目覚めるまでは、打つ手無しという状態が続くであろう。

亥年の話であった。うちの近所の大代で、村興しのひとつとして、毎年暮れに稲わらで新年の干支を作っている。はじめてもう11年になる。ことしのイノシシを昨日見に行って来た。3、4組の見学者がいて、なかなかの出来であった。稲わらの上に茶色のラッカーがかかっている。足の爪には石が並べてある。裏側からイノシシの背に乗れるようになっていた。年々上手くなっているようにみえる。

テレビニュースで、交通事故に遭って死んだイノシシにバイクが引っ掛かり、ひっくり返って怪我をしたと放映していた。亥年の年頭でなければニュースにならない事件であった。イノシシも猪突猛進ではなく、左右をよく見て道を渡らなければ、事故が絶えない時代である。

かくの如く亥年がゆっくりと始まった。
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初詣と年賀状

(大井神社の初詣の列)

何事もなく新年が明けた。今年の年越しは女房と二人だけ、暮にはリフォームの片付けも重なって女房の疲れもピークに達しているようだ。

紅白のあと年越しそばを食べ、どうするかと女房に聞くと行くと言うので二人で大井神社に初詣に出かけた。去年より30分ほど遅く、もう年が明けて30分経っている。大井神社もピークを過ぎたらしくて、駐車も出来、行列も参拝後に見ると行列がずいぶん短くなっていた。

新聞報道にもあったが、境内には銅像が二つ増えていた。一つは鹿島踊りの銅像、もう一つは天下の奇祭、帯祭りの奴道中の銅像である。どちらも両手を左右に水平に挙げて、片足を前へ上げた同じポーズを取っている。そばのおじさん同志が「奴道中の銅像のモデルがいるんだろうか」と話している。「それはいるさ‥‥」その後の言葉が聞こえなかった。口振りでは個人のモデルがいたらしい。

この銅像が出来て、狭い境内がさらに狭くなってしまった。境内の狭い神社は品において落ちる。出来れば銅像はどこか別の街角に建てて欲しかった。我々夫婦も二人の娘もここで結婚式を挙げている。神社が狭苦しくなってしまうのは何とも残念である。

売店に巫女さん姿のアルバイトが何人も出ている。今日は風もなく去年に比べてそんなに寒くはないが、女房は巫女姿が寒そうだという。その分下履きは重装備に決めているのだろう。

寝たのは4時を回り、目が覚めたのはお昼であった。年賀状もすでに来ていた。


(2007年の年賀状)

今年のうちの年賀状は巨木シリーズの第9弾で、四国讃岐の善通寺の楠を取り上げた。善通寺は四国霊場第七十五番札所で、弘法大師の御誕生所とされている。境内には2本のクスノキの巨木があり、「善通寺の大楠」「五社明神大楠」と呼ばれている。いずれも弘法大師が子供の頃に親しんだクスノキである。見栄えの点で「五社明神大楠」を選んだ。昨年の8月の肌を焦がすような日中に見てきた。お遍路ではこのお寺まで来れば残すはわずかである。
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ブログとともに還暦の一年

(プリントした「かさぶた日録」半年分)

還暦の年も終わろうとしている。今年はブログ「かさぶた日録」と共に始まった。話題は幾らでもあるなどと豪語してはじめたのだが、途中何度か中断の危機もあった。書き込み回数346回、何とかここまで続けられたのは、ブログが公開されていて、読んでくれている人がいるという張りがあったからだと思う。今までパソコンで日記を書こうとしたことも何度かあり、何度も挫折しているのがその証明である。現在、毎日平均50人の人が「かさぶた日録」に訪れてくれている。

書き込み回数、345回に及び、個人的には色々なことがあった一年であった。ここに「かさぶた日録」的、我が家の5大ニュースを上げてみよう。

   1.還暦と「かさぶた日録」
   2.帰郷と「バルトの楽園」の旅
   3.マイリーフカップの商品化
   4.地震対策のため自宅リフォーム
   5.女房と日帰り温泉16湯、入湯

どんなことに興味を持って書込みしたかをみると、カテゴリーでは、ベスト4を挙げると、街道漫歩32回、お茶談義31回、山行記録25回、故郷礼讃23回である。

「街道漫歩」ではNHKの東海道、中山道のてくてく旅の放送もあり、中山道歩きにも一度行った。現在、気持は四国遍路へと飛んでいる。「お茶談義」ではマイリーフカップの話が大半であるが、ベニフウキやレンジ茶の話題もあった。「山行記録」では春から低山の山歩きを再開した。夏には夏山の思い出を何日か書いた。「故郷礼讃」では話題に困ると故郷の思い出話を数多く入れた。

その他にも、ネタが尽きると愛犬ムサシを何度も話題にした。このブログで唯一実名で出ているキャラである。意外な人から「ムサシ君は元気ですか」と声を掛けられる。「友人来信」が5回と最低であった。故郷から遠く離れて、仕事以外の友人との交流が少ないのは気になることである。新しい年にはこれを何とか増やしたい。

2年目に突入するが、あと3年を目標にブログを続けようと思う。その間に、我々の後に続いてリタイアを迎える団塊の世代に対して、定年後の生き方の一つの見本になればなどと、大それた事を考えている。
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故郷からお餅が届いた

(今年も届いた故郷のお餅-すでに目減り!)

二日ほど前、故郷(くに)からお餅が届いた。親が丈夫な時代から毎年暮れに故郷から届くお餅は年末年始の楽しみであり、年中行事のようになっていた。次兄の時代になっても引継がれて、毎年送られてくる。

故郷でお餅といえば、切り餅のことをいう。丸餅は神仏へのお供え用につくるだけである。搗いたばかりのお餅を餅とり粉をたっぷり振りかけた枠付ののし板(故郷では何と言ったか、木製のしっかりしたものがあった)に載せる。枠一杯にお餅を伸し、5cm位の厚みにする。2日ほどおき、菜切り包丁で、幅8cm前後のなまこ状に切る。それを厚み1.5cmほどに切っていけば切り餅の出来上がりである。寸法は今現物を測った数字で、その辺はアバウトでよい。

静岡では最初に薄く1.5cmほどに伸ばしてしまい、あとはそれを方形に切って切り餅にする。最初見たときは広い面が凸凹で餅とり粉がいっぱい付いていて、変なお餅だと思った。

故郷のお餅は臼に杵で搗いた本物のお餅である。女房が故郷にお礼の電話をしたところ、今年は近くに所帯を持った娘婿たちが来てくれて、23日に餅つきをしたという。子供5人のうち4人が所帯を持ち、送らねばならないところも増えて大変なのに、送ってくれる次兄夫婦に感謝である。

写真で黒い粒々のあるものは黒豆で搗き上がったお餅に軽く混ぜるように搗きこんでつくる。焼いて醤油を付けて海苔を巻いて食べると最高にうまい。

故郷からのお餅はうちの子供たちにもお裾分けされて、黴の生える暇もなく、食されてしまうに違いない。正月前だというのにすでにかなり目減りしている。何とかお正月まではもたせねばと思っている。

うちの子供たちも、聞けばお餅は買わなければ食べられないという。来年からは餅つき機を買って餅を搗き、変り餅も作り、子供たちに分けるのも名案かもしれないと女房と話した。
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年賀状を出してきた

(今年の年賀状-来年のものではありません)

夕方、K園の忘年会に出かける途中に、島田の郵便局に寄って年賀状を出してきた。昔から年賀状のデザインには苦労して、年末が来ると憂鬱になっていた。10年位前から巨木を見て回ることを始めたのを機会に、観て回った巨木の中から一本を選び、年賀状の図柄にすることにした。1999年から始めて今日出してきた来年の分で9年、9回目になる。今はルンルンで、パソコンで「筆まめ」を使い、二、三日で100枚ほどの年賀状を仕上げてしまう。おかげで年末の憂いも無くなった。

これまでに扱った巨木を書き記してみると、
  1999年 静岡県 伊豆      「シラヌタの大杉」
  2000年 岐阜県 加子母     「加子母の杉」
  2001年 長野県 根羽村     「月瀬の大杉」
  2002年 岐阜県 白鳥町     「石徹白の浄安杉」
  2003年 徳島県 三加茂町    「加茂の大クス」
  2004年 岡山県 湯原町     「佐波良大杉」
  2005年 岐阜県 中山道 大湫宿 「神明神社の大杉」
  2006年 徳島県 つるぎ町一宇  「赤羽根大師のえのき」
  2007年 来年の分は1月1日に書き込む予定

巨木は樹齢が数百年から千年を越すものもある。長寿にも繋がり、縁起のいい題材だと思う。だから年賀状の題材としては悪くない。巨木は身の回りにたくさん存在するのに、気付く人が少ない。その画像を見せると雄大さに驚く人が多い。巨木の大きさを皆さんに実感してもらうために、必ず人を入れて撮ることにしている。そのほとんどは女房だが、物の大きさを示すために置くタバコの箱と同じで、人物が判別できる大きさには写していない。

写真は今年の年賀状である。ちょっとややこしいが、今日出してきた来年のものではなく、今年の1月に皆さんに送ったものである。
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職場の忘年会


今年、会社の最終日、午後大掃除のあと、職場の忘年会を掛川グランドホテルの「さびすけ」で行った。無国籍料理、バイキング、飲み放題、時間制限1時間半、今風のシステムで、やや難は椅子席で狭く、10人の参加者のうち、お話できたのは隣と向いの3人ほどで少し残念であった。

向いのK君、隣のK嬢いずれも健啖家で脱帽であった。K嬢は両手に白ワインと赤ワインを持って、交互に飲み比べている。二人とも散々飲み食いした後、デザートをいくつも食べる。これはまた別腹だという。帰りの車で「ケンタンカとは何か」と質問があった。言葉の意味は「たくさん食べる人、大食らい」といってしまえば身も蓋もない。「健啖家」という言葉にはそんなに悪い意味は無い。むしろ気持良く物を食べ、見る人に爽快感を与えるような食べっぷりの人をいう(たぶん)。食べ放題、飲み放題の場には最も有利な人たちに囲まれて、ただただ唖然と眺めているばかりのぼくだった。

話がブログ「かさぶた日録」の話になった。K君、「もうじき一年になりますね。毎日続けるだけでも大変なのに、あれだけの量を書いて、しかも内容がまとまっている。」「そう、大変だよ、読むのさえ毎日続けるのは難しいのに、書くんだからね。」本当は他人の文を読むより、自分のことを書くほうが楽なんだがね。お褒めの言葉に調子に乗って「毎日800字を目標に書いてきたから、300日で400字詰原稿用紙600枚、長編小説一編の量ぐらいありそうだ。」「今日のことを書くんでしょうね。」「だれも傷つけないように書くと決めてきたから、イニシャルでね」「大晦日には一年の総まとめを書くことになるんでしょう。」言い当てられて、答えなかったが、実は大晦日の分は書きかけてある。

9時前には帰って来て、帰宅後に100枚余の年賀状を仕上げた。
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クリスマス電飾


今夜はクリスマスイブ、うちの家族には関係ないようなものだが、夕方、女房がクリスマス電飾を見に行こうという。気が進まないけれど、ブログの材料にはなりそうなので車で出かけた。女房はこのところ毎夕のように、ムサシの散歩のたびに見物していて、どこが見どころなのか心得ている。自宅を満艦飾にしているお宅が何軒かあり、順々に見て回る。年々買い足して行くので年を追ってにぎやかになるようだ。


クリスマス電飾も星空と一緒で、あたりに灯りが無いほど映える。住宅地で子供のいる家に多いようだ。車で電飾を見て回っている「クリスマス電飾ツアー」の車にも会う。車の窓に子供たちの顔があった。近くの老人ホームからお年寄が数人、付き添いが付いて電飾見物に来ていた。

こんな電飾が始まったのは、発光ダイオードが安く出回るようになってからである。発光ダイオードは豆電球より桁違いに省電力で明るい光を出す。しかも半永久的に電球が切れることが無い。クリスマス電飾に使われるようになり、一般家庭にも入ってきた。発光ダイオードでは出来ないとされた青色発光ダイオードが発明されて、電飾が一層にぎやかになった。この青色発光ダイオードは特に値段が高いのだという。

省電力だとはいっても、これだけ満艦飾にすると、電気使用量も馬鹿にならない。だから家の人は雨戸を閉めて暖房も切り、テレビも電気も消してひっそりしていると、まことしやかな噂が聞こえる。

先日、山芋会で豆電球製造会社を退職したAさん、車には40個ぐらいの電球が使われているが、発光ダイオードに変わってしまわないのは、豆電球のほうが桁違いに安いからで、日本製の豆電球は車が潰れるまで切れることが無いほど性能がいいから、海外との競争にも勝てると話す。また発光ダイオードの開発時期に、海外に出ていて、技術的に抜けてしまったのが今でも残念だと話していた。Aさんはこのようなクリスマス電飾をどんな思いで見ているのであろうか。
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大石りく女と討ち入りそば

(大石陸女生誕之地碑)

今日は12月14日、300年前の今日、赤穂浪士が吉良邸に討ち入りした日である。この討ち入りに、わが故郷も少し関係している。赤穂藩の家老大石良雄の夫人、「りく」はわが故郷の豊岡藩家老石束家から嫁いでいる。実家から300mほどのところに、子供の頃に「大正湯」という銭湯があった。今はマーケットになっているが、その向かいに、大石陸女生誕之地碑がある。古地図によると石束家の屋敷はこの辺りにあった。

今年の夏に大石陸女生誕之地碑へ行ってみた。その案内板による「りく」の略歴は、

‥‥りく女は、寛文九年(1669)豊岡京極家の家老石束源五兵衛毎公の長女に生れた。‥‥りく女は天性賢明にして貞淑年十九才で赤穂、浅野家家老大石家に嫁いだ。赤穂藩の大難後、夫良雄に仇討の謀成るや、長男主税を残して山科より一男二女を連れて豊岡に帰り、夫に後顧の憂なからしめ、父と共に日撫正福寺に住んだ。義士が本懐を遂げた後は、剃髪して香林院と称し、ひたすら夫や長男や義士たちの冥福を祈った。やがて、帰豊後生れた代三郎が長じて広島、浅野侯に仕えるに及んで彼の地に移り住み二十有余年仏恩報謝に生き、元文元年(1736)十一月、六十八歳を以て死去。その地国泰寺に葬られ、ここ豊岡の正福寺には遺髪を埋葬した。

この義挙は忠臣蔵の芝居と共に、全国の隅々まで伝わり、我が故郷の人々は大石良雄の夫人を出した藩として、さぞかし名誉に思って自慢もしたことであろう。

12月14日、故郷の町の人々は「討ち入り蕎麦」を食べて、赤穂義士をしのんだ。討ち入りの夜、義士たちは三々五々そば屋に集り、蕎麦を食べて討ち入りに出陣した。「討ち入り蕎麦」はその話にちなむ。


(さつま揚げ入り「討ち入り蕎麦」)

今夜は蕎麦だと訳の判らない女房に言い置いて出勤した。当家にそんな習慣はないから、帰って来ると見事に忘れていた。それで、頂きもののさつま揚げが入った変り蕎麦となった。赤穂義士をしのぶという気分にはならなかったが、これからは当家の行事の一つにしようと思う。
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龍ヶ浜の忘年会

(写真がボケているが、撮影が下手なわけではない)

今年の忘年会のトップバッターとして、Kソフト会社の忘年会が昨日の夜あった。幹事のSY君が見つけてきた、場所は浜松の「龍ヶ浜」というちゃんこ料理の店である。

龍ヶ浜は元力士でちゃんこ料理店をしているのだと聞き、ネットで調べてみた。龍ヶ浜は浜松出身、高校時代はサッカー部でゴールキーパーとして活躍した。時津風部屋に入門、龍ヶ浜のしこ名は高校の校長先生が「天龍川の龍が浜松の砂浜より舞い上がる」との願いを込めて命名してくれたという。「砂浜から舞い上がる龍」というと、勇壮な浜松の凧揚げを連想する。立派なしこ名である。最高位は西十両7枚目、十両通算5場所32勝43敗、平成3年5月場所を最後に28歳の若さで廃業した。そして郷里の浜松で相撲料理店「相撲茶屋ちゃんこ龍ヶ浜」を始めた。実家は鮎料理店というから、縁のない仕事ではなかった。

東名高速道路を浜松西インターで降り、南へ下った佐鳴湖の近くに「龍ヶ浜」はあった。ちゃんこ鍋は醤油だしと味噌だしの中に野菜と肉を放り込み、煮だったら食べるだけ。材料に高いものは無いし、料理といっても刻むだけだし、こんな料理なら自分達でも出来そうである。などと言ったら失礼になるかも、何しろこの店、TVチャンピオンちゃんこ選手権で優勝した実績があるというから。客が次々に入ってくるから人気のある店なのだろう。

話題に深刻なものはなく、1月に結婚を控えているK嬢を構ったり、「マイリーフカップ」を来年の流行語大賞にノミネートさせるのが目標だなどと大言壮語したり。東京に展示会に行って遅れたY部長も加わり、大声を出すことも無く料理が無くなり、お腹もくちくなり、お開きとなった。終りに次回はとの声、来年1月9日にマイリーフカップの表彰を県知事から受ける。その祝賀パーティをパートさんも含めて、新年会を兼ねて行おうと話す。

帰りは風邪気味で飲まなかったSH君の車に乗り、一人一人落としながら帰った。最後に遠回りになるのに自宅まで足を伸ばしてもらい、SH君どうもありがとう、ご苦労様でした。
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