はがき随筆・鹿児島

はがき随筆ブログにようこそ!毎日新聞西部本社の各地方版に毎朝掲載される
「はがき随筆」は252文字のミニエッセイです。

タイタニック

2015-08-31 00:11:14 | はがき随筆
 一人娘が高校生か大学生のとき、当時話題の映画「タイタニック」を2人で見にいった。私たちの前方席のヤンキーふうの若者たちの様子がどうもおかしい。こちらを振り向き下卑た笑いを繰り返す。「何だろうね」。2人ともキツネにつままれた思いであった。主題歌の「マイ・ハート・ウィル・ゴー・オン」を歌ったのは、かのセリーヌ・ディオン。名曲である。さて、映画館での謎は後日判明する。彼らは私たちを「援交(援助交際)」と勘違いしたらしい。それにしても……。多分「父親と映画」など経験のなかろう彼らが哀れに思えた。
  霧島市 久野茂樹 2015/8/24 毎日新聞鹿児島版掲載

伝統の踊り 復活喜ぶ

2015-08-30 23:50:15 | 岩国エッセイサロンより


2015年8月30日 (日)

   岩国市   会 員   片山清勝

 岩国市の錦帯橋近くで、江戸時代から伝わるとされる「小糠踊」で城下町情緒が残る路地を練り歩く「こぬかの盆」が、約60年ぶりに復活した。
 太鼓と笛の音に台わせた甚句調の音頭で「そーら、てっとーてん」の掛け声に合わせて踊る。ゆったりとした曲調と上品な振り付けは、やぐらを囲む現代風の盆踊りとは趣が違う。
 この踊りは保存会が守ってきた。盆の練り歩きを復活して地域を活気づけようと応援隊が結成され、本番に向けて練習を積んだ。
 日暮れとともに、通りにあんどんがともされ、100人を超える踊りの列が続いた。そろいの浴衣を着た保存会員の顔は、復活の喜びに満ちていた。応援隊の踊りの列には、児童や若い女性の姿が多く見られ、先々に明るさを感じた。
 この踊りはかつて城下の町家や農家の子女の間で親しまれ、盛んに踊られていたという。復活を喜んで飛び入り参加する人もあり、大いににぎわった。
  「来年もやります」。最後に実行委員が力強く宣言し、拍手が起きた。
        
    (2015.08.30 中国新聞「広場」掲載)岩国エッセイサロンより転載

それぞれの証言

2015-08-30 23:47:38 | はがき随筆
 NHKスペシャル「女たちの太平洋戦争」で、前線に配置された従軍看護婦の証言を聞いた。彼女たちは、野戦病院での傷病兵の手当の状況や不十分な看護の無念さなどを語った。命を助ける役目を負いながら命を見捨てるように敗走した自分もさらけ出していた。今も戦争のトラウマで苦しむ人もいた。戦争を体験した人の悲しみやつらさ、悔恨、怒りの深さを思う。
 内地の軍隊に入っていた亡き父は「あんときゃ、ないも言いがならんかった」と口にしたことがある。気弱で優しい性分の父は、どんなことを伝えたかったのだろう。
  姶良市 中馬和美 2015/8/30 毎日新聞鹿児島版掲載

平和の重み

2015-08-29 09:03:05 | はがき随筆
 広島・長崎の原爆の日、そして終戦記念の日と、毎年8月は戦争の悪夢が回想され悲傷耐えざるものがある。
 思えば、第二次世界大戦に参戦した兵士は、父母妻子をおき、愛別離苦の悲しみに耐え、祖国に繁栄と平和を願いつつ勇んで死地に赴いていった。しかし、戦い利あらずして破れ、多くの若い命を失った。
 あれから年移りて70年。貧困のどん底からはい上がり、未曾有の発展を遂げ、平和な日々を当然の如く謳歌している。我々は戦争犠牲者や遺族の悲劇を忘れていいのか。再び戦争への道を進んではならない。
  志布志市 一木法明 2015/8/29 毎日新聞鹿児島版掲載

いわゆる天文館

2015-08-29 09:02:27 | はがき随筆
 あるけだるい夏の夕方、私は50年前のドドンパはなやかなりし頃の自分を思い出して、天文館のスナックを訪ねて見た。というのも、そのスナックは同級生が営業していたからだ。屋号は「トワ」。探したが見つからない。それらしい所の二階の窓が開いていて、一人の老人が座っていた。同級生の久永だった。
 もうスナックは畳んでいた。2人の話は昔の事ばかりだ。
 例えば2次会で盛り上がる喧噪の中、客の若い医師がボックスの片隅でただ一人、「トウィンクル、トウィンクル、リトルスター」とつぶやくように歌っていたとかいないとか。
  鹿児島市 高野幸祐 2015/8/28

新聞チェック

2015-08-29 08:43:14 | はがき随筆
 毎朝5紙に目を通し、がん関連の記事を中心にチェックすることから1日が始まる。気になる記事をコピーし、上司の判断で各課へ配布するのが今年移動になった部署での業務の一つ。
 月曜は3日分、3連休だと休み明けに4日分を見ることになる。普段でも15分から20分かかるので、結構大変な作業。7時半ころから始め、始業までには終わらせるのだが、最近は日曜のうちに土日分のチェックを済ませ、毎日新聞は家で全ページ目を通してから出勤する。
 楽しみもある。知人の短歌や俳句を目にしたり、演劇関係の記事を多く収集したりとかだ。
  鹿児島市 本山るみ子 2015/8/27





迷い

2015-08-29 08:42:29 | はがき随筆
 ヨーロッパ旅行をして驚くのは雑草がほとんどないこと。気候のせいとはいえ羨ましい。
 日本は高温多湿、降り続く雨に猛然と茂る夏草。屋敷内、農道、畑と夏草との戦いの日々。もちろんシルバーさんも頼む。
 夫亡き後、小さな畑ながら人に褒められるくらい、きれいにしてきた。ところが最近、なんだか疲れやすい。頑張り屋の私よどうした? 年齢のせい?
 いっそ畑を手放そうかと考え出した。無農薬の野菜を育てる喜び、収穫の楽しみを手放せるか。「夏野菜なら屋敷内に植えられるよ、もういいよ」と夫の声。お好きにと子供達。
  霧島市 秋峯いくよ 2015/8/26 毎日新聞鹿児島版掲載



パンプキンサラダ

2015-08-25 21:44:59 | 岩国エッセイサロンより
2015年8月22日 (土)

岩国市  会 員  山下 治子

ウチの八百屋さんが帰って来た。本日の収穫は大小十数個のかぼちゃ。取り立てのかぼちゃは包丁がすんなり入る。これはうれしい。調子にのって切りすぎたかぼちゃは、種を取り皮をむき、蒸して潰して、水にさらした薄切り玉ねきと多めにレーズンを入れ、マヨネーズであえて出来上がり。

我が家の分をのけてあとはご近所へ大鍋抱えて出前に。容器に入れて持って行くと「お返し」なんて面倒があるから「好きなだけどうぞ」とお玉を渡す。「珍しいね」「もうちょっといいかネ」などと完売。 

今夜の八百屋さん、気持ちよくお酒が進んでいる。

  (2015.08.22 毎日新聞「はがき随筆」掲載)岩国エッセイサロンより転載

平和発信の海に

2015-08-25 21:42:42 | 岩国エッセイサロンより
2015年8月21日 (金)

   岩国市  会 員   片山 清勝

 「新高山登れ」の暗号電文が旗艦長門から発せられたのは岩国市沖合にある柱島近海だったという。開戦の起点になったことを知った時は複雑な気持ちになった。戦時中、周辺は多くの艦船が停泊や出撃する重要海域で柱島泊地と呼ばれた。そんなことで小さな島も空襲に見舞われ尊い人命を失った。
 この海域近くの米海兵隊航空基地は、近々極東最大級の基地に変わる。「父の最後の言葉が戦闘機の音で聞き取れなかった」と聞いた。残念だっただろう。   
 元泊地は被爆都市広島市にも近い。戦闘機の轟音でなく、平和発信の海域にしてほしい。

 (2015.08.21 毎日新聞「はがき随筆」戦後70年特集掲載)岩国エッセイサロンより転載

懐かしい学級

2015-08-25 21:40:09 | 岩国エッセイサロンより
2015年8月21日 (金)

 岩国市  会 員   林 治子

 「おーい。臭いぞ」。A君が後ろを向いて大声で叫ぶ。B君はごめんと言いながら隣の席に寝かしている弟のおしめを替える。手際よく済ませて席へ。先生も何事もなかったように授業を進める。ぐずり始め泣いたりするとB君に外であやしておいでと言う。静かになった弟を連れて授業に戻る。B君の家はお父さんが出征し、お母さんとおばあちゃんで田んぼを作っている。田植えの時は猫の手も借りたい忙しさ。その時、勉強好きなB君は弟を連れて学校に来る。 働き手の男は国のため出征してゆく。こんな家庭が珍しくない時代。今では考えられない。

  (2015.08.21 毎日新聞「はがき随筆」戦後70年特集掲載)岩国エッセイサロンより転載

戦闘帽の父帰る

2015-08-25 21:37:08 | 岩国エッセイサロンより
2015年8月20日 (木)

岩国市  会 員   山本 一


大阪で生まれたが、父の出征のため、2ヵ月後には島根の山村に疎開した。森林鉄道のトロッコが走り、家が数軒しかない。時々トロッコに乗せてもらって母の実家へ行った。レールにくぎを置いて遊んでいて、運転士にひどく叱られた。3歳を過ぎた頃のかすかな記憶の中で、ある日突然戦地から父が帰って来た。戦闘帽をかぶって目のぎょろりとしたその時の父が、いまだまぶたの中によみがえる。今考えてみると、私と父との、この世で初めての出会いであった。その後折に触れ父の体験話から学んだことは「戦争は絶対にしてはいけない」ということだった。
  (2015.08.20 毎日新聞「はがき随筆」掲載)岩国エッセイサロンより転載

8月のオリオン

2015-08-25 21:14:13 | はがき随筆
 8月の末 未明 まだ暗い。シルクロードの小さな駅に降り立った。
 広場にでる。まさに天球。満天の星。星たちのさざめきにつつまれていると飛天の薄衣がひるがえる幻覚におそわれる。
 我に返る。これは冬の星たちではないか。
 東天に目をやる。心なしか丸味を帯びた砂漠の地平線にオリオンが半身を現している。辺りを威圧しながらせり上がってくる。まさしくあの巨人オリオンの勇姿である。手を合わせたい気持ちさえ起こってくる。
 見とれているうちに星たちは碧天の光に溶け込んでいった。
  鹿児島市 野崎正昭 2015/8/25 毎日新聞鹿児島版掲載

交流40周年

2015-08-25 21:13:39 | はがき随筆
 体調を整えて鶴岡の40周年盟約交流会に行くことを決めた。市内唯一の交流校へ子どもが通学していたおかげにあずかれたのである。20周年で言ったときは校舎も古かった。しかし西郷を慕った管臥牛との得の交わりを礎とする質実な環境であった。そして20年の交流の月日が流れた。
 今回の私の目的は真相なった校、管邸の見学、南洲神社の参詣だったが、いずれもすばらしく目をみはり心うつものばかりだった。
 あの日会った生徒は社会中堅の50代。なぜか祈る気持ちがみちわたる3日間だった。
  鹿児島市 東郷久子 2015/8/23 毎日新聞鹿児島版掲載

1986年

2015-08-25 21:12:01 | はがき随筆


 私事だが、29年ぶりに鹿児島支局に赴任したのが今年5月。最初のこのコラムで桜島の思い出を紹介させていただいた。その後、懐かしさもあって休日に自転車で島を一周してみたりした。それから3ヶ月半。今回の噴火警戒レベル引き上げを聞いて、桜島は今も生きた火山だったことを改めて思い知らされた。
 前回赴任した1986年、桜島で一番のニュースは11月に一抱えもある岩がふもとのホテルに落下したことだろう。死傷者は出なかったが、6人が重軽傷を負った。デスクの指示を受けて1年生記者だった私もフェリーと車で現場へ向かった。
 当時も桜島の噴火活動は盛んで、例えば噴石が当たって車のウインドーガラスにひびが入ったと聞いてもそう驚かなかった。飛行機の操縦席のガラスに傷がついたと聞いて、鹿児島空港まで取材に行ったりもした。大きな噴火があると、灰というよりまるでアラレが降るような印象だった。「ホテルに噴石」と聞いても、最初は屋根が壊れたぐらいに思っていた。
 現場に到着。なんと屋根を突き破って、地下室が火事になっていた。火事はすぐ収まったようだが、地下室から見上げると、1階の床にぽっかり大きなアナが開いていた。ストロボを忘れてテレビのライトの助けで写真を撮って、タクシーで鹿児島支局までフィルムを運んでもらった。携帯電話などない時代。ホテル脇の公衆電話で現場の様子を支局に伝えた。
 よく犠牲者が出なかったと今も思う。ただ、驚いたのは翌朝。近くの海岸に落ちた別の大きな岩を見つけて、試しに表面に水をかけたら、一晩たっているというのに一瞬で蒸発した。
 火山と共に生きるとはどういうことなのか。桜島は恐ろしいけど美しい。防災の大切さはいうまでもないが、そのうえで魅力を発信できるよう今回も願ってやまない。
  鹿児島支局長 西貴晴 2015/8/23 毎日新聞鹿児島版掲載



奥様の誕生日

2015-08-25 21:05:28 | はがき随筆
 カミさんの誕生日に、内緒で花束を注文しておきました。素知らぬ顔をしている私の態度にしびれを切らしたカミさん、ついに声をかけてきました。「今日は何の日だか知ってる?」「知りませんよ」「私の誕生日よ」「気がつきませんで」「ダメだこりゃ」。それでも気を取り直して「ショートケーキでも買ってきて乾杯しようか」。
 帰りの車の中で実は……と花束のことを打ち明けました。「えーっ、そうだったの」。生花店で受け取って手渡しました。「トボケたりして、やるではないか。よし、よし」。奥様気どりのご機嫌のカミさんでした。
  西之表市 武田静瞭 2015/8/22 毎日新聞鹿児島版掲載