はがき随筆・鹿児島

はがき随筆ブログにようこそ!毎日新聞西部本社の各地方版に毎朝掲載される
「はがき随筆」は252文字のミニエッセイです。

「中年はダメよ」

2010-04-30 13:39:35 | 女の気持ち/男の気持ち
 5月にニューヨークで開かれる核拡散防止条約再検討会議に向けて、クラスメートが毎週土曜日に繁華街に30分立ち、「核兵器なき世界」を訴える署名を集めているという。幸い私のいるケアハウスから近いので「手伝うよ」と簡単に言ってしまった。当日、大急ぎで昼ご飯を済ませ、車いすで出かけた。
 署名運動は初体験だ。声を張り上げるくらいはできるだろうと高をくくって、故井上ひさしさんら著名人の写真入りポスターを手に車いすに腰掛けていると、友人が「中年はダメよ、若い人の方が署名してくれるから」と助言してくれる。
 なるほど「カクヘイキナキィー」と言いかけるとほとんどの中年は目を伏せて歩調が速くなり、「セカイヲー」と言うとすっと避けていく。かえって腰パンの青年や高校生が署名に応じてくれる。声をかけなくとも署名や励ましをくれるのは、戦中派とおぼしき人たちである。
 思うように体が動かず焦ってしまった。私が集めたのはわずかに7人。「要領が悪く……」とわびたが、無力感に襲われた。
 ケアハウスに帰ってから1世代違う職員にその話をしたら「私もどっちかと言うと逃げますね。戦争は知りませんものね」と言われた。
 核廃絶は日本人共通の願いと思っていた私は甘かったのか。それとも希望は若い世代なのか。すっかり考え込んでしまった。
  熊本市 増永 陽・79歳 2010/4/30 毎日新聞の気持ち欄掲載

繋がったよ~

2010-04-30 13:19:52 | はがき随筆
 下校時「おばちゃん、外の電話が繋がらないので、ここの電話を使わせて、お願い、お願い」と小さな手を合わせる。
 店頭の公衆電話で自宅に電話するけど繋がらない。別の電話からなら繋がると思い、店内の固定電話を使わせてという訳。低学年の彼には話し中が理解できてないのだ。
 たしかに、私が電話してみても話し中。
 時刻は4時15分。「長い針が4になったら、もう一回電話してごらん」と店内の時計を指した。しばらくすると「おばちゃん繋がったよ~」と元気な声…が。
垂水市 竹之内政子(60)2010/4/30  毎日新聞鹿児島版掲載




椎葉の大自然

2010-04-30 12:06:12 | はがき随筆
 「椎葉」という地名は、つい「平家伝説」を思わせ、どこか悲しい。
 3月21日、桜見をかねて妻と椎葉へ向かう。市房ダム越えの、九州中央山地の高い山々を縫う七曲がりの細道は、車の運転に気をつかい、冷や汗が出た。
 今も続く猪猟や昼食の「椎葉そば」は、深い山地の狩猟や農業の厳しさを考えさせる。
 平家の末裔の鶴富姫と源氏の大八郎が結ばれた館「鶴富屋敷」では、敵味方を忘れさせた包むような広大な自然を思った。
 帰路、私は、ふと考え直す。
 人間の原点は、椎葉の大自然の中にあるのでは、と。
  出水市 小村忍(67) 2010/4/29 毎日新聞鹿児島版掲載







流れゆく時間

2010-04-28 17:08:40 | はがき随筆
 新聞の余録に「時間を感じる長さは加齢により反比例する」と書いてあった。年を取ると次第に時間を短く感じる「ジャネーの法則」だ。周りの方も異口同音の答えが多い。私の余命も実際より短い計算になり、少し寂りょう感が心に残るが、こんな格言もある。「時間の濃度を高める」「時間を丁寧に使う」「時間という妙薬」「時間の使い方は、いのちの使い方」。厳しい響きの言葉。人には時計、歳月を示す時間と、もう一つは「心の時間」がある。これが何よりも大切に思う。流れゆく時間は早い。これからは心の各駅停車の時間濃度を高めたい。
  鹿屋市 小幡晋一郎(78) 2010/4/28 毎日新聞鹿児島版掲載





気づいたこと

2010-04-28 17:03:58 | 女の気持ち/男の気持ち
 最近の私の行動は元気だったころと違う。
 神奈川に住む小学生時代の男子同級生に便りを出した。突然のことに奥様を困惑させたが、懐かしいと返事があった。
 37年間動めた仕事を3月末に辞めた2人の知人には花を贈った。やはり突然の私からの贈り物に驚いたと電話があった。  
 長い入院生活で私の神経は研ぎ澄まされるようになった。個室のベッドの上で、真夜中の静寂の中で。物事の本質とでもいうのだろうか、自分にとって大切な「こと」や「ひと」、周りの人の心模様を深く見つめるようになった。私はすっかり変わった自分に満足してい
る。行動がスローになり、一つ一つを丁寧に成し遂げるようになった。
 新しい趣味は折り紙。退屈な時間のすき間に手を動かす。完成させ、作り上げた喜びを味わう。他人様に差し上げて喜ばれている。
 子供のころから作文などほとんど書いたことなかったのに、随筆も書くようになり、新聞や雑誌に投稿している。その折り紙と随筆を通して友人ができた。長崎県の83歳の婦人からは、同じ体の痛みを持つ者同士、明るく前向きに生きましょうと、美しい水仙の折り紙が送ってきた。福岡県の私と同年の女性は彼女の過去の投稿作品をまとめた本を送ってくださった。
 こんな生活を支えてくれている主人。それが最も大切な人である。私は本当に豊かなのだと気づいた。
  鹿児島県鹿屋市 田中 京子・59歳 2010/4/28 毎日新聞 の気持ち欄掲載 






後ろ盾

2010-04-27 20:55:40 | はがき随筆
 同い年のいとこと仲良く遊んだが、けんかもした。□では負けなかったが、彼女は敗色とみるや手にかみついてきたので、いつも私が泣いていた。
 小3の夏、浜風が通るガジュマルの木陰で、お店やさんごっこをしていた。ところが、売り物の上等さ比べが始まった。
 決着がつかない時は、後ろ盾に強い者を言った方が勝ちと決まっていた。双方とも兄姉から言い始め、親、校長、警官、村長などと言い合い、総理大臣までエスカレート。最後は□をそろえて「マッカーサー!」
 互いにあり得ないことに気づいて、大笑いしたものだった。
  薩摩川内市  森孝子(68) 2010/4/27 毎日新聞鹿児島版掲載

美しい小瓶

2010-04-26 17:09:03 | アカショウビンのつぶやき
 I市にすむ随友から電話がありました。

 「今日はねぇ釣りに行ったのよー、なんも釣れん日もあるんだけど、今日はねぇワッゼー大漁じゃったー」
   あらぁ、その魚を送ってくれるって話かなあ…。  

 彼はずっと前ですが、美味しい干物を作って送ってくださったことがあり、欲張りの私はついつい期待してしまいました。

 ところが話はどんどん別な方向に展開していきます。

「海岸に、きれいな小さい瓶が落ちて居てねぇ、気になって拾ったのよ」
   うんうん、それで中身は何だったの?
 
 中には小さな紙切れがあり、亡くなられたお母様をしのぶ娘さんのお手紙だったそうです。

 お母様と海を見に行ったときの思い出を書かれた文章の最後には、
「この瓶を拾ってくださった方は、母がいつまでも海を見られるようにどこかにそっと置いてください」と。

 ロマンチストの彼はいたく感動し、波にさらわれないようなところに、そっと置いてきた…というお話でした。

 お手紙の主は熊本市に住む女性だそうですが、どうやってI市の海岸に流れ着いたのでしょう。興奮さめやらぬ彼に
「それを、是非、男の気持ちに投稿して!」とお勧めしました。

「はがき随筆」常連の彼は、いつもユーモアあふれる楽しいエッセーを書くのですが、
「じゃっどん、僕はねぇ、250字になれっせえねぇ、長い文章はかかならん」とおっしゃいます。

 彼は、97歳で寝たきりの奥様のお父様を介護しながら、居酒屋を経営し、お店はいつも予約でいっぱいという腕のいい調理師なのです。
 思い出のいっぱい詰まった小瓶が彼に拾われて良かった。
 心がほわーっと暖かくなる電話でした。




命も要らず

2010-04-26 15:34:44 | ペン&ぺん
 「命も要らず」と鳩山由紀夫が演説したのは1996年秋、鹿児島市の天文館に近い街頭だった。
 「命も要らず名も要らず官位も金も望まざる者は御しがたき者なり。しかれども、この御しがたき人にあらざれば艱難(かんなん)を共にし国家の大業を計るべからず」と続く。ご存じ「西郷南洲翁遺訓」からの引用だ。
 当時、鳩山は新党さきがけを脱して民主党を立ち上げた直後。私は鹿児支局で選挙を担当していた。
 古い取材メモを取り出してみた。我ながらの悪筆。自分でも一部判読不能の走り書きだが、自社さ政権では十分な行政改革ができなかったことなどを演説していたことが分かる。締めくくりは薬害エイズ問題を打開に導き、脚光を浴びていた菅直人に触れ「第2、第3の菅直人を民主党から生み出したい」と述べていた。
 ちなみに、その時は自民党に対抗する最大野党として小沢一郎が率いる新進党があり、鳩山・菅の民主党は第3極という位置づけ。のちに新進党が分裂し、小沢の自由党や公明党を除く部分が民主党に合流。それが現在の民主党につながる。政党史では通常、合流前を旧民主党、合流後を新民主党と区別することが多い。
 さて、その旧民主党発足から14年ほどが経過した。「官位も要らぬ」と語った人が首相になり、「金も望まぬ」はずが、政治とカネの問題で政権は揺れる。対する自民党。今一つ支持率は上がらず離党者が出て「たちあがれ日本」という新党も発足した。舛添新党も動き出した。今の政権与党も、かつては新党だったことを思い出す。
 参院選が近づき、鹿児島にも各政党の幹部らがやってくる。昨年の政権交代役初の有権者の審判だ。できる限り判断材料として有意義な記事をお届けしていきたいと考えている。(文中敬称略)
 鹿児島支局長・馬原浩

スズメの大欠伸

2010-04-26 07:36:10 | はがき随筆
 日は差しているがすっきり晴れあがってはいない。スズメが一羽、玄関の瓦屋根の上に来て首を傾げたり、羽づくろいをしたり、後ろを振り向いたり。
 ガラス戸越しだがカメラを構えた。ひょいと首を伸ばしてこちらに目を向けたと思ったら、なんと大欠伸をしたのである。
 カミさんにその写真を見せたら「仲間を呼んでいるのよ」と一言。私としては旧式のシャッターの切れが遅いデジカメで、スズメが□を開けた一瞬を撮ったことも自慢したかったのだが
 「偶然撮れたのでしょう?」とそっけない。それでも「可愛いい写真ね」に納得。
  西之表市 武田静瞭(73) 2010/4/26
写真は武田さん提供




門出・旅立ち

2010-04-24 11:31:10 | はがき随筆
 南国から北国札幌就職への旅路は今も心に残る良き思い出である。昭和43年春、当時飛行機は庶民にとって高嶺の花。西駅発寝台列車で一夜を明かす。
 寝台は上中下段あり、中下段は料金割高。体の大きい私は、上段でくノ字我慢の寝姿で東京着。上野駅から青森そして乗船4時間余りの青函連絡船で函館へ。さらに一面雪絵巻の原野を列車は走り抜け、大望を抱く札幌に到着した。
 門出の長旅は、かたい決意で任地へ赴く私の貴重な時間となり、連絡船十和田丸で食べた呉汁と鮭弁当は、旅立ちにふさわしい格別な味となった。
  鹿児島市 鵜家育男(64) 2010/4/24 毎日新聞鹿児島版掲載

私は知っている

2010-04-24 11:29:05 | はがき随筆
 2割引の赤いシールが張ってある鮮魚コーナーのタイムサービスで、衝動買いしてきた奥様である。早速、冷凍室へ入れようとして娘に言われた。「長く置くと冷凍やけして味が変わるよ」と。ならばと幾つか娘の持ち帰りとなったのだが、期限の確認をしているようだ。以前、奥様は孫たちに肉まんを「チン」しようとして「待った」がかかった。残念ながら期限切れで、孫たちはジュースとおにぎりにかぶり付いていたことがあった。
 備えあればと、置いていたのを忘れるようでは「年だね」と、奥様はぼやいていたのを知っている。
  鹿児島市 竹之内美知子(76) 2010/4/23 毎日新聞鹿児島版掲載


「母の選択」

2010-04-24 10:54:29 | 岩国エッセイサロンより
岩国市  会 員   貝 良枝

娘が起きてきて「あー、久しぶりに夢を見た。幸せ気分」と言う。どんな夢を見たのだろう。すごく気になった。「どんな夢だったん?」「あのね、家から学校に通っているんよ」とうれしそうに話す。

寮生活をして1年。春休みで帰省した娘は煮魚や煮しめをほおばり、その日のうちに洗濯ができることを喜ぶ。揚げ物の多い食事と、共同の洗濯機は苦痛なのか。

安さと頼りになる寮母さんのいる寮を選んだ。1人部屋。バス、トイレ付き。テレビもパソコンもある。30年以上前の寮生活とは比べ物にならない環境なのだが……。
(2010.04.20 毎日新聞「はがき随筆」掲載)
岩国エッセイサロンより転載

早起きは三文の得

2010-04-22 16:24:11 | はがき随筆
 昨日は聞き逃したのですが、今朝、お話の半分をしっかり聞きました。ラジオ深夜便、「心塾」あしなが育英会の会長のお話。今日のキツイ日本へ再興の必要を教育を通して語る50分。まるで私は学生の時のようにメモしながら、うなずきながら聞きました。
 1日17時間勉強する幹部養成大学。海外へ全部の大学生を生活と勉強のため1年出す必要を解く。
 片手I杯の食、1日泥水1杯の国が地球上に存在すること。そんな国から心塾に来た子の根性、覚えが早いと。興味津々の得でした。
  鹿児島市 東郷久子(75) 2010/4/22 毎日新聞鹿児島版掲載


小児病棟で

2010-04-22 16:13:21 | はがき随筆
 大阪時代、次女が小児病棟に3週間入院したことがあった。
 面会の時に記帳するようになっていたが、祖母らしい人で記帳に長く時間のかかる人とよく一緒になった。代筆しましょうかと声をかけるのも失礼だと思ったりしつつ結局、私は帰りに記入するようになった。
 しばらくしてその人を見かけなくなり、やがて重症者室に入っていた少女が亡くなったと伝え聞いた。
 いとしい孫を自分より先に見送らねばならなかった人の悲しみが、祖母となった身に切なく思い出される。あの病棟とともに思い出される。
  霧島市 秋峯いくよ(69) 2010/4/21 毎日新聞鹿児島版掲載

身代わりの木

2010-04-22 15:56:56 | 女の気持ち/男の気持ち
 毎年この時期、底のトサミズキが薄緑色の花を咲かせていた。が、今年は見ることができなかった。
 昨年3月、夫が他界した。同じ日に私も重篤な状態になり、息子たちを青ざめさせたが、主治医や看護師の手厚い治療のおかけで、4ヵ月の入院ののち帰宅できた。
 帰ってみると玄関わきが妙に明るいし見通しがいい。「あれっ」と我が目を疑った。毎年のように根元から出てくる枝を情け容赦なく切り落としていたにもかかわらず、たくさんの花をつけていたこの木が枯れていたのだ。
 私は20歳代のころ重い肝臓病を患ったが一命をとりとめた。その時、見舞いにいただいたのがこの花だっち。何ともとも優しい色合いと、提灯のようにぶら下がるこの花に魅せられ、いつかわが家の底にもと思っていた。
 この地に居を構えて間もなく偶然苗木を見つけ、念願を果たしてから二十数年。この木はわが家の悲喜こもごもをずっと見ていたに違いない。特に虚弱な私は何度となく家族を心配させてきた。
 介護の疲れとはいえ、昨年の病気は今までで最悪のものだった。もしかしたらトサミズキは私の身代わりになってくれたのかもしれない。切り株になった姿を見るたびに、熱いものがこみ上げてくる。
 いつかまたこの苗木に出合えたら、もう一度植えようと思っている。
  福岡県宗像市 渡辺 美実・67歳 2010/4/20 毎日新聞 の気持ち欄掲載
写真はネロさん