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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

弁蓮社袋中著 原田禹雄訳注 『琉球神道記』

2013年06月09日 | 地域研究
 琉球の仏教・神道事情につき、17世紀初頭に琉球で滞在・布教した浄土宗の倭人僧が、時代柄、当然ながら神仏習合の観点に基づいて著した書。原文は漢字カナ交じり文。内容は、当時の琉球習俗についての言及もあって面白い。筆者の名と行跡及びこの書の名は、『中山世譜』『球陽』など琉球の正史に載っている。私などそちらの方で先ず知った。

(榕樹書林 2001年7月)

長田幸康 『仏教的生き方入門 チベット人に学ぶ「がんばらずに暮らす知恵」』

2012年12月31日 | 地域研究
 チベットは夢の土(くに)で、チベット人はみないい人ばかりのよう。西川一三や木村肥佐生、またリンチェン・ドルマ・タリンが伝えるチベットとチベット人とはずいぶん違う。生きて行くだけでも苛烈な自然と人文の場所である筈だ。

(ソフトバンククリエイティブ 2007年5月)。

漢語における「理由」と「原因」という語についての考察(3)

2012年11月15日 | 思考の断片
 それにしても『辞海』(1979年度版)に「原因」が収録されておらず、この語を含んだ「原因和結果」、すなわち causality (因果関係)という西洋伝来の哲学用語の項しか立てられていないのは何故だろうか。
 やはり因果律というのは漢語では外来の観念なのであろうか。既出『辞海』の「原因和結果」項にも、「また因果関係とも言う」と書いてある。ところが今度はこの「因果」という語が単独では同じ『辞海』に収録されていない。因果とはこれも元来仏教用語であるが(『諸橋大漢和』)、同じ仏教用語で意味も同様の「因縁」という語が漢語にはあるが、こちらは入っている。
 但し、両方を収録する『諸橋大漢和』によれば、「因果」の例は『華厳経』(東晋・唐)『涅槃経』(東晋~劉宋)、また史書で『北史』『南史』(唐)と、4-5世紀が上限なのに対し、「因縁」は『史記』と紀元前2世紀に遡る。もっとも本来の意味はやや異なり、「きっかけ」「つて」「よりどころ」等である。
 仏教には詳しくないのでここで博雅の士の教えを乞いたいのだが、「因果」は、仏教の中国伝来後に仏典翻訳に当たってあらたに造語された言葉なのだろうか? また「因明」(仏教論理学、サンスクリット:हेतुविद्या hetu-vidyaa の訳語)の成立と関係はあるのだろうか? (続)

漢語における「理由」と「原因」という語についての考察(2)

2012年11月15日 | 思考の断片
 「原因」という中国語も、もしかしたら日本語起源なのであろうか。
 ウィキペディア中国語版に項なし、『百度百科』に項がある。動詞・名詞双方の意味があり、前者は、「もとをたずねれば~のせいである」、後者は「ある結果や事態を引き起こす条件」の意味とある。
 前者は出典として、明・施耐庵ほか『水滸伝』、清・魏源『聖武記』、清・李伯元『文明小史』、民国・蔡元培「対于学生的希望」、後者には明・朱有炖『仗義疎財』、清・作者不明『霓裳続譜』、民国・魯迅『南腔北調集』、民国/共和国・洪深『電影戯劇表演術』からの例が挙げられている(注)。 
 つまり「原因」は漢語で、日本語からの借入語ではないという事だ。ちなみに『水滸伝』『文明小史』『仗義疎財』『霓裳続譜』「対于学生的希望」は、各時代の口語或いは口語的な文章語(書面語)であり、『南腔北調集』は魯迅独特の欧文脈を交えた口語文(白話文)、『電影戯劇表演術』に至っては完全な現代北京話である
 もともとは「元因」と書いたらしい。『諸橋大漢和』に、「物事のおこり。元因に同じ)とある。そこで「元因」を見ると「もと。おこり。後世は原因の字を用ひる」とあり、「仏本行論」という書籍から「因縁生相、是為元因」という文章が引かれている。冒頭に仏教用語であることを示す印がある。
 ただ、「仏本行論」という書物がわからない。もし『仏本行経』のことであるとすれば、これは劉宋(5世紀)の宝雲が訳した経典だから、『百度百科』の「原因」(名詞)で示されている例より古い。つまり古くは「元因」と書いたという『諸橋大漢和』の説が正しいことの一証拠となるわけである。
 ちなみに『佩文韻府』には、「原因」「元因」ともに載っていない。これは、この語が中国古典の語彙から外れた特殊な言葉であったことを示す。おそらくは仏教用語であることがその理由であろう。 (続)

 。『漢語大詞典』の「原因」項に引かれている例文も『百度百科』と同じである由。御教示くださった大磐利男氏に心より感謝申し上げます。

慧皎著 吉川忠夫/船山徹訳 『高僧伝』 2

2012年05月01日 | 伝記
 慧遠(334―416)がどうして廬山(現江西省九江市に在り)に居を定めたかについて調べるために見る(巻第六、「義解篇三」「晋の廬山の釈慧遠」)。ついでに全巻もなんとなく流し読み。『大正新脩大蔵経』の「史伝部」は卒論の時に一応通読しているからあまり時間はかからない。
 さてその理由だが、「なんとなく」らしい。「なんとなく」で悪ければ「偶然」である。慧遠はもともと華北(山西地方)の出身だが、当時の華北地方は五胡十六国時代のただ中で、戦乱に明け暮れていた。それで彼は比較的平穏な華南へと避難することにしたのだが、まず落ち着いた荊州(湖北省)ではまだ不安だったらしく、さらに南の羅浮山(広東省)へ向かうことにした。その路次に偶然、廬山があったのである。
 
 潯陽〔現江西省九江市に属する地〕に到着するに及んで、廬山が清浄で心を憩わすのにもってこいであるのを目にすると、まず始め龍泉精舎に住することにした。 (本書201頁)

 そのご多少の曲折のすえ、地元の刺史の協力を得て有名な東林寺を建立し、そこで本格的に仏教の布教に乗り出すわけであるが、要は彼は廬山の雰囲気が「なんとなく」気に入ったのであった。少なくともこの半公式伝記にはそう書いてある。

(岩波書店 2009年11月)

梁啓超 『墨経校釈』

2012年02月10日 | 東洋史
 民国十二(1923)年排印本。
 「自序」に曰く、「我が国の古典籍のなかで今日の科学精神に合致するものは『墨経(墨子)』のみ」。
 そして、墨子の論理学はアリストテレスに100年早いと顕彰。すこし目論見が見えてきたような。
 総じて、少々我田引水の印象が強い。例えば、「経上」の冒頭、「故所得而後成也・・・」の一節、これは因果律を説いたものだという断定に。ただし、墨子の論理学とアリストテレスのそれが、内容的に全く同じものかについては、微妙に言及するのを避けている。
  しかしながら、『墨子』全編について、孫詒譲の業績によりつつ、また胡適の言説を踏まえつつ、そのうえで自らの解釈を(やはり根拠付きで)出そうとしているところに、著者の努力と知的誠実さとを感じる。

 なお、巻末、「読墨経余記」という付録あり。西洋論理学(形式論理)演繹が『墨子』のなかに存在するという主張がくり広げられている。またインド仏教論理学(因明)の三支作法との類似についても言及がある。(→それでは胡適より先ではないのか?)

(『墨子大全』第貳拾陸冊、北京図書館出版社 2003年11月 収録)


韓愈「論仏骨表」からチベット僧侶の焼身自殺へと及ぶ

2012年02月01日 | 東洋史
 清水茂氏の訳注で読んでいるのだが(朝日新聞社『唐宋八家文』1)、中唐における仏教がらみの風俗で面白い言及があることに気がついた。「焚頂燃指」(頭の上で香を焚き、手で灯明を燃やす苦行)の流行である。
 唐末五代の史料(正史および筆記小説)を読んでいると、この「焚頂燃指」に関わる記述によく出会う。この時代のことは卒論でテーマにしたのだが、「燃指」がとりわけ多かったと記憶する。混乱した当時の世相のもと、明日に希望を見いだせない人々がヒステリー状態に陥っていた故かなどと考えていたが(実際史料からうかがえる時代の雰囲気は暗澹としている)、晩唐ならず中唐からすでに盛行していたとなると、この見方は考え直さなければならなくなる。
 ところでこの風俗について、清水氏は、「法華経」薬王菩薩本事品第二十三にある一切衆生喜見菩薩が「身を燃やし」「臂を焼いて」供養したことが見えると指摘したうえで、韓愈がこの表を奏上した元和14年(819年)にはこのとおり実際に焼身した人間がいたらしいことを注記されておられる。
 つまり、清水氏は、中国の中唐の(私に言わせれば唐末五代までの)「焚頂燃指」の風は、「法華経」に淵源するものと考えておられるわけだ。卒論で調べているときは、不才にしてそのことに思い至らなかった。
 また、さらに氏は、一歩進んで、ベトナム戦争下の南ベトナムで見られた仏僧の焼身自殺も、おそらく同経に見える供養の意味を籠めて行われたものであろうとされている。
 これは、思いもつかなかった指摘である。
 「法華経」は大乗仏教の経典である。そしてベトナムの仏教は中国から伝わった大乗仏教である(経典は言うまでもなく漢訳仏典)。だからこれは、推測として荒唐であるとはいえない。
 では、チベットの僧侶の焼身自殺は? 彼らの焼身は、どういった思想的背景に基づくものなのだろう? チベットの仏教はインドから直接入った。中国仏教とは系統が全く異なる。だから中国仏教からの影響は、まず考えられない。ただし「法華経」自体はチベット仏教にもある(サンスクリット語からの直訳)。

なぜ楓樹ウイグル族回族郷に清真寺があるのか

2011年12月13日 | 東洋史
 (承前

▲「百度百科」「枫树乡(楓樹郷)」項
 〈http://baike.baidu.com/view/1841720.htm

 ここには、同郷には清真寺(イスラム寺院)があるとなっている。それも洪武帝の勅願にかかるものだそうだ。きわどいところだが、ここへやってきた頃の彼らは、まだ仏教徒ではなかったろうか。
 もともとマニ教・仏教を信仰していた西ウイグル王国のウイグルがいまはイスラム教徒になっているということだろうか。
 関連部分の原文。

清真寺
  走进枫树乡清真寺院门,菊花盛开,使整座古寺沐浴在浓郁的清香之中。“大明镇南定国将军哈勒·八士合葬之墓”耸峙在院内右方,给人一种肃穆、安详的气氛。墓体由青石砌筑而成,长2.32米、宽1.25米、高2米的方形石台,红漆“塔埠”顶立玉碑;墓体右侧为墓主生平介绍,镶于墓身之中,左侧刻有“桃源县人民政府重点文物保护单位”等字样。手抚墓前朱元璋御笔钦赐的“威震南方”石碑,凭吊之情油然而生。
  清真寺旁是明太祖敕建的“荐楼”、“镇南堂”、“忠勇坊”等。荐楼,取颂扬祖之意。雕梁画栋、刻桷丹楹,中置一位龙凤幡绕之武将,并供奉诏敕,珍藏赐品,陈列甲胃,韬藏弓矢。睹物兴怀,令人想到翦氏先祖镇南平蛮、剿寇灭巫之伟绩。镇南堂是湖南维吾尔族唯一的宗祠,洪武二十二年秋,朱元璋御笔钦赐“威震南方”的金匾悬挂在镇南堂上,以示纪念。
  清真寺的前身是最早修筑的“镇南经殿”。据《湖南通志》、《翦氏族谱》载,洪武二十六年,凉国公蓝玉被诛杀前重涉翦旗营,是时讲经殿已筑,距枫树口(哈勒始祖当年在此遍植枫树,由此得名)正西550步处;明成祖十年改为镇南经殿,康熙二十年重修改为清真西寺,民国五年(1915年)翦山胜重修时又更名为清真寺,1966年被拆除。1988年经国务院宗教局、湖南省宗教局批准、赞助,占地3800平方米的清真寺经5年苦心修建,于1993年落成。是年6月,经常市政府批准,由桃源县政府组织实施,将哈勒·八士墓与碑迁往枫树乡清真寺内。
  仰望清真寺气势雄伟,造型古朴,寺顶呈圆弧形,上塑一轮弯月,具有浓郁的新疆和阿拉伯清真寺建筑风格。走过花径的尽头,即为教长室、殡仪馆、沐浴室和大殿等建筑,殿顶勾画着精美别致的花卉图案,殿内宽敞明亮,每天可同时容纳200多人礼拜。湖南维族穆斯林信奉伊斯兰教,至今仍然保持着浓郁的宗教色彩和民族特点。宰牲时,必请阿訇或大师父操刀,否则决不食用。每年在清真寺过古尔邦节和开斋节。


 原文では、この郷のウイグル族はイスラム教を信仰すると書いてあるのみである。
 この文面を注意深く読んでみると、だんだんそのおかしさに気が付いてくる。
 洪武帝が建てたという建物は“荐徳楼”“忠勇坊”“鎮南堂”などという名で、どうもイスラム教に関係するものではなさそうである。それらの名称はかえって儒教的・伝統中国的でさえある。もしかしてこれらは単なる平定の記念碑的な建造物ではなかったか。“鎮南堂”など、まさにそのにおいが濃い。さらにいえば、鎮南堂に洪武帝がたまわったという扁額も、「威震南方(威は南方を震わす)」という字面で、ますますその疑いを強くする。そもそもこれら一連の建物は、もともとは「鎮南経殿」という名称で、ここがイスラム寺院に改築されて清真寺(清真西寺)と呼ばれるようになったのはさらに時代を下った清朝時代、康煕帝の時代(17世紀末)だという。つまり彼ら西ウイグル王国の末裔たちは、当初はイスラム教徒ではなかったのであろう。なかにはいたかもしれないが。
 この宗教の変化は、彼らがここへ移り住んできてからも先祖の土地たる新疆東部(ウイグリスタン)との交流が続いていたことによるものか。それともこれはこの地で近接して住む回族の影響であったのか。また彼らの元来の言語は(まだ生きているというが)、現在の新疆ウイグル自治区において使われるウイグル語と比べてどれくらいの差異があるのか。
 博雅の士の教えを請う。

藪内清訳注 『墨子』

2011年11月24日 | 東洋史
 中央公論社『世界の名著』10「諸子百家」の墨子編(抄訳および金谷治氏の解説)をざっと復習したあと、論理学関連の部分を読む。「経篇」上下、「経説篇」上下、および「大取篇」「小取篇」、とくに「経篇」と「経説篇」。
 正直にいって、ほぼまったく解らない。原文が、簡略すぎて、何を言っているのかまるで掴めないのである。
 解釈が、原文から飛躍しすぎていないか。
 これはつまり、藪内氏や金谷氏はもとよりこんにちの墨子研究のほとんど全ての基礎となっている孫詒譲『墨子間詁』の、これら部分についての注釈が、どれだけ信用に足るものであるのかということだ。
 原文の意味がはっきりしないのに、西洋の形式論理学や仏教論理学の三支作法に類似しているだのと言われても・・・・・・。まして、「ここには古代ギリシアに劣らぬ、いや近代ヨーロッパの科学技術のもととなった古代中国の力学・幾何学、代数学、光学など諸科学の輝かしい達成がある」云々と言われても、だ。(断っておくがこれらはどちらもは藪内氏や金谷氏の意見ではない。どちらも、『墨子』についての、とりわけ中国における一般的な評判である。後者はすくなくとも清末ではそうだった。前者は現代中国で唱えられている説である。これは藪内氏の「解説」によって知った。)
 以上を要するに、今のところ私は、『墨子』のこれらの「達成」や評価については、「本当にそうなのか」と疑問を存するほかはないのである。

(平凡社 1996年4月)

安田二郎/近藤光男 『中国文明選』 8 「戴震集」

2011年11月19日 | 東洋史
 『孟子字義疏証』および『続天文略』の訳注と解説。

 「聖人の道は、天下の情のすべてを実現させ、その欲を遂げさせようとするものであって、このようにして天下ははじめて治まる」という言葉は、戴震の哲学を端的に表す。理というのは情から生まれるものなので、それを役人の法のようなもの、抑圧の道具として理解したのは後世の儒学者たちの誤解である。程朱の哲学が「理」を物体のように存在し天から受けて心に具わるものとしたことは、人々が自分の臆断を「理」として固執するという禍を引き起こした。戴震は無欲を至上とする仏教の倫理を儒学に持ちこむことや、普通の人間の「欲」を否定して聖人のみが達することができる「理」を押しつけることによる弊害を除こうとした。梁啓超はこのような戴震の立脚点を、ヨーロッパのルネサンスに比較できる倫理上の一大革命と評価している。 (「ウィキペディア」「戴震」項)

 太字は引用者。戴震の哲学は、ここに尽きる。しかしこの結論は、儒教経典の厳密な読解からは直接には導き出せない。せいぜい「理というのは情から生まれるもの」までである。
 彼は、六経孔孟の書さえなければ、もっとうまくやれただろう。
 
(朝日新聞社 1971年11月第1刷 1977年1月第2刷)