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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

胡適 「荷澤大師神會傳」

2014年06月08日 | 伝記
 『胡適作品集』16「神會和尚傳」(遠流出版公司 1986年7月)。もと『胡適文存』第四集第二巻http://enlight.lib.ntu.edu.tw/FULLTEXT/JR-AN/an16103.htm。「南遊雑憶」附。

 胡適はこのなかで、神会の思想を解説する体裁で「道教の『自然』と仏教の『因縁』は同じである(道家所謂自然和佛家所謂因緣同是一理)」と言っているのだが(136頁)、この解釈は正しいのか。

ダライ・ラマ14世著 ラジーヴ・メロートラ編 瀧川郁久訳 『ダライ・ラマ 誰もが聞きたい216の質問』

2014年04月17日 | 人文科学
 仏教徒としては、あるいは仏教論理学と仏教哲学の勉強を続けている仏教徒としては、あるものが存在しないと科学的に証明されたら、その場合、論理的にいって、それを認めなければなりません。たとえば、生まれ変わりが科学的な方法で徹底的に探究され、一〇〇パーセント存在しないということが証明されたとしたら、論理的にいって、仏教徒はそれを認めることになります。 (「第8章 生まれ変わり」本書89頁)

 まず自分の方で存在することを科学的に証明することが論理的では? それに或るものやことが100%ないことを証明するのは科学的ではないし、そもそも不可能だ。

(春秋社 2013年11月)

北川秀則 「中期大乗仏教の論理学」

2014年01月22日 | 人文科学
 『講座仏教思想』2「認識論・論理学」(理想社 1974年6月)、189-241頁。

 北川氏によれば、ディグナーガ以後の新因明の三支作法と形式論理学の三段論法は、三部分からなるという外見が似ているだけで、内実は全く違う論証式であるという。前者はものを直接あつかい、後者は名辞という概念の上に立ちその外延を扱うという根本的な構想の差。つかり、前者が「AにはBが存する」と言うのに対し、後者は「AはBである」と述べるのである。

 とすればであるが、中国にも『墨子』のような、三段論法や三支作法のようなアリストテレスの形式論理思考の伝統があったと唱えた清末民初の梁啓超胡適の主張は、まったく意味をなさないことになる。もっとも彼らの『墨子』の論理学部分の理解が孫詒譲の学説の受け売りであり、その孫の『墨子』のテキスト解釈に疑問がある時点で、すでにこの言説は成立しないのであるが。(呉毓江の『墨子校注』でも問題はそのままに残っており結局解決されていない)

 ところで中国に因明をもたらした玄奘三蔵の弟子で漢語で『因明入正理論疏』を著した慈恩大師窺規は、三支作法を基本的なところで理解できていなかった。彼は、「原因(質料因)は結果の中にあることもあり、ないこともある、そもそもそれは原因ではないかもしれない、結果ではないかもしれない」などと、無意味な調子だけの美文を、「同品定有性(媒概念不周延のルール)」の“注釈”としてかきしるしている。それどころか彼は、三支作法の三が、この論法が宗・因・喩の三命題から成るからであることすら理解できておらず、因と喩の下部分類であるところの同喩と異喩で三と思っていた。これはなぜだろう。窺規の個人的な資質の問題であるのか、あるいはそれ以上の理由があるのか。

 それに関連して事実して在るのは、中国仏教においては、知識の根拠やその妥当性について追究したインド論理学における認識論関連の書籍がまったく翻訳されていない事である。
 インド論理学を大成させたダルマキールティ(玄奘のすぐ後の人)は、人間の知識の成立する根拠を感覚と思惟(推理)のみとした。ところが中国の仏教僧は、ダルマキールティの論理学関連の著作をまったく翻訳・研究しなかった。

 この点に関し、インドの因明学者と中国の因明学者の決定的な違いは、中国の因明学者は、経典も経典たるだけの理由で根拠として数えた点である。中村元氏は、この違いの由ってきたるところを、経典に書いてあることはそれが経典にかいてあるかゆえに権威でありそれだけで真であり正であるという中国人の尚古主義のゆえであるとする(『中村元選集』2「シナ人の思惟方法」春秋社、1961年12月)。

高崎直道 「Ⅰ 東アジア仏教思想史――漢訳仏教圏の形成」

2014年01月19日 | 東洋史
 『岩波講座東洋思想』12「東アジアの仏教」(岩波書店 1988年6月)、3-31頁。
 百丈懐海(西暦814年卒)が中国で初めての禅院規則『百丈清規』を定め、唐朝での仏教のあまりの流行に憤った韓愈が「論仏骨表」を時の皇帝憲宗に奉った(819年)時代の唐は、西方に目を転ずれば、764年以来、敦煌をはじめとする河西回廊が848年まで吐蕃の支配下にあった時期でもあった。
 755年の安史の乱に乗じて763年に都長安を一時的にはあるが占領した吐蕃は、その後唐の領土を東から西へと侵食し、764年以降、河西回廊を併呑してゆく。最後に敦煌が降服して回廊全域が吐蕃領土となるのが786年である。そこでも仏教が栄えていた。「佛者夷狄之一法耳(仏は夷狄の一法のみ)」という激烈極まる表現で始められる韓愈の上書の背景に、当時のこの"大状況”は関わりはないか。
 そして845年の会昌の廃仏もまた。
 高崎氏の指摘によれば、会昌の廃仏の後、中国の仏教各派が軒並み壊滅的打撃を受けるなか禅宗が教勢を維持できたのは、インド本来の仏教の戒律に反して清規で僧の生産活動を奨励し自給自足の体制を取っていたからだという(本書23頁)。
 懐海はなぜ、そのような内容を含む清規を、その時に定めたのか。
 韓愈の「論仏骨表」が出ている時期とほぼ重なるといういわば"小状況”を考えると、先を見越しての保険かという気もする。

上山大峻 「3 敦煌――中国文化との接点」

2014年01月19日 | 地域研究
 『岩波講座東洋思想』11「チベット仏教」(岩波書店 1989年5月)、「Ⅲ チベット仏教思想の特質」同書376-394頁。

 西暦786年から848年に至る吐蕃領有中の敦煌では、暦は干支(十二支のみ)で示された。月は春夏秋冬それぞれを初中末に分けて十二か月を表した(チベット式)。国号は「大蕃」(注)となり、漢文文書では吐蕃王を皇帝として扱った(「聖顔」「聖情」等の語の使用。例えば曇曠『大乗二十二問』786年?)
 60年を超える長い吐蕃支配の間に、敦煌の漢人には漢語・チベット語のバイリンガルが育っていった(漢語仏典のチベット語への翻訳者、またチベット語仏典の写経者の署名に漢名が見える)。そして唐との交通が途絶したこともあり、その筆記道具も筆ではなく、チベット文字を書く木筆となった(中国から輸入できなくなった為)。

 。「大蕃」は「大吐蕃」の略か。国号を二字ではなく一字にするために?

森安孝夫 「《シルクロード》のウイグル商人 ソグド商人とオルトク商人のあいだ」

2014年01月18日 | 東洋史
 『岩波講座世界歴史』11「中央ユーラシアの統合」(岩波書店 1997年11月所収、同書93-119頁)

 モンゴル時代のウイグル商人について。もしくは西ウイグル人・仏教徒時にキリスト教徒ウイグル人について、じつに興味深く、勉強になった。西ウイグル(天山ウイグル)人がウイグル人ならカルルク人はウイグル人ではなく、カルルク人(カラハン朝でもよいが)がウイグル人なら西ウイグル人はウイグル人ではないということが著者の意図とは関わりなくよくわかった。「新ウイグル(いまのウイグル人)は偽ウイグル」とは、こういうことか。

青地林宗 『気海観瀾』(1825・文政八年)

2013年10月27日 | 自然科学
 (古典籍データベース 早稲田大学)

 『気海観瀾広義』他および『理学提要』より続き。

 既に「理科」という言葉が見える(「序」や「凡例」)。「凡例」冒頭に、これは若年層の初心者(童蒙)向けだとはっきり断ってある。これも『理学提要』同様、蘭書を訳したものだそうが(ちなみに両者は体裁内容が類似している)、漢文としてはこちらのほうがはるかにこなれている。
 医学を含む西洋科学の徒を「藝術家(技術者)」と訳す所など、明末清初の用例に沿った正統的な文言文である。明らかに最初から漢文で発想している。訳者の青地林宗は漢方から蘭学に転じた人だから、根っからの蘭学者である広瀬元恭よりも漢籍の素養が深かったのだろう。
 「理」が「物理」の理であること、此方のほうが出版年代的には前だが、『理学提要』と同じい。ただ「空気」或いは「大気」とあるべきところを「雰囲気」としてある。調べてみたところ、これがこの語の第一義の由である。また、「極微」という仏教語を「分子」(あるいは「原子」)の意味に使っている。
 読んでみて、広瀬元恭が『気海観瀾』を批判する理由がわかった。項目が『理学提要』に比べるとやや雑駁で、物理学の全般的な入門書としては体系だっていない(脱けている項目がある)。さらに叙述が簡潔にすぎて、論理的に飛躍がある。
 後者については、ある程度説明がつく。
 『気海観瀾』は『理学提要』とは違い正統的な文言文で書かれているから、その為の語彙と表現がなく、近代科学の実体と論理を叙述しきれなかったのかもしれない。正確具体的に書こうとすると文体が乱れてただの漢文訓読体になってしまうであろう。実際そうなりかかっている部分がある。漢文の造詣の深い(少なくとも広瀬よりも)青地には、それができなかったのではないか。

竹内弘行 『康有為と近代大同思想の研究』

2013年10月16日 | 東洋史
 『礼運注』(『礼記』「礼運篇」の注釈)で、康はやたらに「公理」という言葉を使っているらしい。たとえば「天下為公、選賢与能」を「君臣の公理」、「講信修睦」は「朋友信ありの公理」、「故人不獨親其親,不獨子其子,使老有所終,壯有所用,幼有所長,矜寡孤獨廢疾者,皆有所養」は「父子の公理」、「男有分,女有歸」を「夫婦の公理」と。そのことを教えられた。

 原文:
 昔者仲尼與於蠟賓,事畢,出游於觀之上,喟然而嘆。仲尼之嘆,蓋嘆魯也。言偃在側曰:「君子何嘆?」孔子曰:「大道之行也,與三代之英,丘未之逮也,而有志焉。」大道之行也,天下為公。選賢與能,講信修睦,故人不獨親其親,不獨子其子,使老有所終,壯有所用,幼有所長,矜寡孤獨廢疾者,皆有所養。男有分,女有歸。貨惡其棄於地也,不必藏於己;力惡其不出於身也,不必為己。是故謀閉而不興,盜竊亂賊而不作,故外戶而不閉,是謂大同。 (『中國哲學書電子化計劃』『禮記』《禮運》より)

 ちなみに、「礼運篇」のこの箇所は「大同」の語の出典である。価値判断に基づく道徳原則を公理axiomと呼ぶのは一見奇妙だが、ここから発展した『大同書』において彼が「理」を「論理」と「倫理(とくに儒教的な)」を混在させた意味で使っていることを考えれば、不思議と言うのは当たらない。

 そもそも大地の文明というものは、実に人類が自分で開いたおかげだ。もし人類がすこしでも減れば、その聡明さも同時に減少して、ふたたび野蛮になるだろう。まして、男女の交わりを禁じて人類の種を絶つということなら、なおのことだ。もし、仏教の道に従うなら、大地十五億の繁栄せる人類は、五十年足らずで完全に絶滅しよう。百年後には、大地の繁盛していた都会、壮麗な宮殿、鉄道・電線の交通手段、精奇な器具はみな廃棄壊滅し、草木がぼうぼうと繁茂するようになる。そして全地はまったく、灌木や森林が茂り、鳥獣や昆虫が縦横にとびかうだけになる。こういうことは、行ってはならない事であるだけでなく、そのようにする道理はぜったいにないのである〔是れ独り行ふべからざる事のみならず、亦た必ずこれが理なし〕。 (坂出祥伸『大同書』明徳出版社、1976年11月、「己部 家界を去って天民となる」同書155頁より。下線は引用者、〔〕内は引用者による補足)

(汲古書院 2008年1月)

湯志鈞 『康有為伝』

2013年10月10日 | 伝記
 著者によれば、『実理公法全書』の頃の康有為が言う「公理」が指していたものは、「仏教・西洋科学・陸王の学」のそれであり、当時はまだ今文学の意味が入ってきていない(「第一章 學習西方」本書11頁)。ただし康は、西洋の社会科学のことを、自然科学の成果を取り込んでその上に成り立つ、自然科学以上の科学だと思っていた(同、14頁)。
 著者は、康は最後まで立憲君主制を唱えていたのは確かだが、後年には君主制への執着からそれを唱えるようになっていたから思想的に首尾一貫していたとはいえない、しかし反動というのもあたらない、ただ彼は革命と共和制を志向する時代に乗り越えられてしまっただけだとする。

(台灣商務印書館 1997年12月初版 1998年10月初版第2次印刷)

勉維霖主編 『中国回族伊斯蘭宗教制度概論』

2013年09月01日 | 東洋史
 『中国阿拉伯語教育史綱』と同じく、やはり紀元前1世紀の『史記』にある条支うんぬんから話が始まる。イスラム教は紀元後7世紀にならないと出現しないというのに。そのうえ唐代のまだイスラム化前のアラブ人やペルシア人商人(蕃客)のことまで持ち出す。彼らと回族と何の関係があるのか。馬鹿さ加減も極まれりというべし。
 ただ、経堂語が、元明時代の古い漢語を文法・語彙において基本としつつ、同時にアラビア語・ペルシア語の語彙(その他仏教および道教の術語の訳を含む――二語であればなぜか前後の語順が転倒している例がままある――)を大量に交えた、一般の漢語とは異なる独特の言語であることを詳しく具体的に説明してあることには、おおいに学んだことも認める。
 
(中国 寧夏人民出版社 1994年4月)