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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

幾度目かの『梅園哲学入門』

2017年12月11日 | 日本史
 『三枝博音著作集』5(中央公論社 1972年10月)収録、同書139-225頁。
 三枝博音氏の『梅園哲学入門』(1943年6月出版)によれば、三浦梅園の独創性と後世への意義は、一つに、それまでの日本に希薄だった「物質」という概念を“錬成”し、「物」の計量の対象たることを可能にしたこと、二つに、人間と切り離された「自然」概念を“発見”したことであるという。
 梅園の著作何度読んでもよく解らないので(原文はさらなり)、元に戻って双六やり直し


三枝博音編 『三浦梅園集』

2017年12月10日 | 日本史
 国立国会図書館サーチによる書誌詳細
 序文で、編者の三枝氏はこう書いている。

 ある国またはある民族のなかで、産業や技術が発達しないと、自然科学的な知識が発展してこないということが、つねにいわれている。自然科学的知識が発展してこないと、自然についての哲学およびその他の哲学が起るということがない。このことは世界の諸民族の歴史が明示している。 (「編者の序文」本書5頁、原文旧漢字)

 本当にそうだろうか。自然科学的知識が発展してこないと、自然についての哲学およびその他の哲学が起るということがないのはそのとおりだろう。しかし、産業や技術が発達しないと、自然科学的な知識は発展してこないのだろうか。自然科学的な知識がその基礎となってこそ、産業や技術は発達してゆくという面はないか。

 日本は、そうした意味の哲学の起らなかった国の一つであった。けれども、過去の日本人たちも産業や技術なしではなかった。だから、自然についての学問や思索がないわけではなかった。 (同上)

 この自然科学的な知識を、自然に対する科学的な(と後世からみて判定できる)ものの見方とそこから得られた知見(いかにささやかなものであっても)と、捉え直せば、私の問題提起は理解されやすいかもしれない。言い換えれば、産業や技術の基礎となる科学的なものの見方は、いつ発生するのかということだ。

 殊にヨーロッパの産業の仕方や学問が日本の学問に刺戟を与えはじめるや、日本にも自然科学らしい学問、哲学らしい思索が生まれはじめたのである。三浦梅園(一七二三―一七八九)はそうした時期の哲学者である。
(同上)

 ヨーロッパの産業の仕方や学問(つまりその原理と構造をなす知見とその思考様式の体系、その結果としての実際の例)がはいってきて初めて日本に「(ヨーロッパの)自然科学らしい学問、哲学らしい思索」が起こったというのであれば、それ以前の日本に存在した「産業や技術」は、ヨーロッパにおけるそれと、原理としての知識や哲学において異なるものであったということになる。それに対して考えられる回答は、①それ以前の日本にも「(ヨーロッパの)自然科学らしい学問、哲学らしい思索」、最初の引用部分に戻れば「自然科学的な知識」が、存在した。②それ以前の日本にはそのようなものは存在しなかった、の二つが考えられる。
 後者の場合、「産業」や「技術」としてヨーロッパのそれとは別種のものが存在したことになる。


大野晋 『日本語をさかのぼる』

2015年06月24日 | 人文科学
 著者は、日本語の歴史において、具体的な事物や動作を指す語から、抽象的な意味を表す語がつくりだされるという経過をたどると主張される。たとえば「もの」という言葉は、最初は個別具体的な「存在物」を指し、次に「存在一般」という種または類(後述)概念を意味するようになったと。ここで例として平安時代の「もの」、あるいは動詞化した「ものす」が挙げられる(「第一部第三章 語の意味は展開し変化する」、とくに28-34頁)。
 しかしながら、この「もの」=存在一般には人間は入らない。少なくとも抽象化の当初においては人間とそれ以外の存在は峻別されており、たとえば平安初期の漢文訓読体では人を示す「者」は「ヒト」と訓み、「モノ」とは読まなかった(33頁)。
 ここで想起するのは中国語である。欧米語および日本語漢字語彙の影響が大きい現代漢語(普通話)はさておき、古代漢語(文言文)においては、漢語の意味はあくまで個別・具体の意味に留まり、類概念を持たなかったというのが、私の理解するかぎりにおいて加地伸行先生の御説である。両者の歴史におけるこの差異の指摘は、非常に興味深い。漢語では唯名論が、日本語では実念論が発達したということになる。
 この主張は、三枝博音氏の三浦梅園評価と絡めると、非常に興味ある思考の材料を提供する。

(岩波書店 1974年11月)

山鹿素行 『聖教要録』『山鹿語類』

2014年10月19日 | 日本史
 井上哲次郎/蟹江義丸編『日本倫理彙編』4(金尾文淵堂 1911年3月、初版1903年8月)所収。

 性及び天を皆理と訓ずるは尤も差謬也。〔略〕凡そ天地人物の間、自然の条理あり、是れ礼也。 (『聖教要録』「理」、同書21頁)

 物と事とは皆道有り理あり。物と事とを謂わず、唯だ窮理を謂へば、則ち性命の説は分殊明かならず。 (『山鹿語類』巻33、同書154頁)

 三枝博音「『聖教要録』解説」の杖を暫く置いて一人で読んでみる。素行が朱子の「理一分殊」論をおかしいとしている事に気づく。その理由は私と同じである。理はその物事の在り方だから、この世に万物あれば理も万通りあろうと。
 そして「凡そ天地人物の間、自然の条理あり、是れ礼也」などは、のちの徂徠の主張を想わせる言である。

三枝博音『梅園哲学入門』(第一書房 1943年6月)から

2014年10月03日 | 抜き書き
 自然科学が起るには、「物質」といふ概念より前に「物」といふ概念が常識的な使用とは別に出来てくることが必要である。 (「三 日本の科学を育てた人としての梅園 二 自然科学の発達しなかつた第一の理由」 本書123-124頁。原文旧漢字、以下同じ)

 「物」とは一本の草に限られたものでもなければ、一つの意思に限られたものでもなく、一つの生き物の限られたものでもない。一切のもの〔原文傍点〕に通ずる「物」であるべきである。だから、一切の雑多な現象物のうちに想定してみられるべき物である。さうした『物』の概念は日本にはほとんど発達しなかつた。日本人は箇々の物の形、箇々の物の色合、箇々の物と箇々の物との配置、そういふものを愛したのである。つまり箇々の物の好さを愛した。〔中略〕だから、それらの箇々の物の感受〔原点傍点〕から一般的な物という思想〔原点傍点〕は出て来ないのである。 (同上 本書124頁)

 物又は物質の考への稀薄であるといふ思考の弱さ〔原文傍点〕を取除くこと、いひ換へれば日本の学者たちの思考法の中に「物質」といふ一般概念を導き込み、科学的思惟の中の最重要の一つを錬成したことは、実に三浦梅園のなし遂げた科学的業績なのである。 (「「三 日本の科学を育てた人としての梅園 四 科学的思惟の創成」 本書127頁)

 引用者注。ちなみに自然科学の発達しなかった理由の第二は、「日本人には外物を精密に測定してみるといふ興味が稀薄であつたといふこと」であり、「この缺点は、空間敵なものを計ることや時間を計ることすべてに現はれたゐた」ことだとされている(「三 日本の科学を育てた人としての梅園 三 自然科学の発達しなかつた第二の理由」 本書127頁)。

三枝博音 『梅園哲学入門』

2014年09月23日 | 日本史
 前エントリーを承けて。

 そんななか、近代科学の基礎的な概念としての物質としての「物」の概念を明瞭にし、以後の日本人のために自然科学受容の際に必要な抽象的思考法を準備したのが三浦梅園であったと、筆者はその思想と著作の意義を評価する。 「三 日本の科学を育てた人としての梅園」、とくに「二 自然科学の発達しなかつた第一の理由」と「四 科学的思惟の創成」。

(第一書房 1943年6月)

三枝博音 「物理の概念の歴史的彷徨について」

2014年04月14日 | 自然科学
 『日本科学古典全書』第六巻(1942年)付録。

 このなかで三枝氏は、方以智『物理小識』(1643年初稿完成)の「物理」の語とその概念は、当時の西洋からもたらされた物理学(ヒシカ)からきたものかどうか自分にはわからぬと仰っている。
 帆足万里の『窮理通』は1836年刊である。物理学を「窮理」と言って「物理」とは言っていない。
 三枝氏によれば、貝原益軒が『大和本草』(1709年)で「開物」の意味で「物理」の語を用いている由である。調べてみると確かにあった。「物理之学其関係不可為小也」(「自序」)。
 「物理」の語そのものは古くからある(張華の『博物志』にすでに見える)が、意味には変遷もしくは揺れがあったということである。だがそれは「窮理」の語もまた同様である。ではなぜ、「窮理」ではなく「物理」の語が、“物理学”として定着したのか。

下原重仲 『鉄山必要記事』

2014年01月30日 | 日本史
 三枝博音編『復刻 日本科学古典全書』8 「冶金・農業・製造業」(朝日新聞社 1978年8月)所収。

 冒頭、「金屋子神祭文」が載っている。司馬遼太郎氏が確か、『街道をゆく』の「砂鉄のみち」で、「鬼気迫る悪文」と評していたが、成程ものすごい。金屋子神が最初に天下ったとされる場所が私の祖先の地に近いことを知った。

小野蘭山 『重訂本草綱目啓蒙』

2014年01月30日 | 料理
『復刻 日本科学古典全書』第9・10巻(朝日新聞社 1978年9月・10月)所収。

解題部分で三枝博音氏が、明・李自珍『本草綱目』の、小野蘭山による独自の注解釈付き翻訳もしくは訳者自身の学問構想による大がかりな翻案であるこの書を著すにあたり、小野が方以智物理小識』を屡々引用していることに注意している。私は、この選択が著者の見識の一端を示していると思う。
 もう一端は、本書各項目の体裁に現れている。『本草綱目』のような、産地の他は薬用効果のみに偏する実利重視ではなく、「形状・性質を純客観的に、且つ細密に記述するという態度を取っている」(三枝博音「解説」)。