goo blog サービス終了のお知らせ 

書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

中川照将 『「源氏物語」という幻想』

2014年12月18日 | 文学
 出版社による紹介

 著者の整理に従えば、これまでの源氏物語研究は「紫式部が著者である」「著者の手になる最終稿が存在する」「その全文の一言一句に著者の意図が籠められており、伝写過程での誤字脱字は別として、著者の錯誤による書き間違い、あるいは知的な手抜かりによる構成上の逸脱や破綻などありえない」という前提の上に行われていたそうな。『源氏物語入門』(社会思想社1957/8)のような思考停止の『源氏』・式部讃歌を平気で公にした池田亀鑑の手法が、まだそのなかではその学問手法の科学的近代性を評価されていることが意外だった。

(勉誠出版 2014年10月)

『四庫全書総目提要』の応劭『風俗通義』項を読んで

2014年12月17日 | 東洋史
 http://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/db-machine/ShikoTeiyo/0251201.html

 分量はわりあいあるにも関わらず、書名の由来の詮索のほか、本そのもの内容についてはたいしたことを書いていない。これでは提要にならない。あまり出来がよくない。
 それはさておき、この『風俗通義』という書籍を実際に読んで、例えば私などが驚嘆するのは、著者が人間の自律的な思考や判断の能力をほぼ認めていないことである。「理」とは儒教の教え、「義」とは礼(法)の定め、そして「義」と「理」(=義理、道理)イコール「天常」(天理)なのである。ここに人間理性の存在する余地はない。
 怪力乱神を斥けるという一見合理的思考なその態度も、その理由と言えば孔子がそう仰ったからというものである。要は権威に訴える論証にすぎない。
 ただ、その権威として孔子と『論語』とを引く点は、注意すべきかもしれない。

伊谷純一郎 『伊谷純一郎著作集』 3 「霊長類の社会構造と進化」 から

2014年12月17日 | 抜き書き
 ルソーは、原初的平等と社会における不平等を対照して論ずるのであるが、私は原初的平等から先験的不平等へ、そして先験的不平等から条件的平等へという段階を踏みたいと思うのである。 (「人間平等起源論」、もと1986年発表、本書338頁)

 要はルソーの自然状態論は、その後の霊長類学の研究の進展によって明らかにされてきた諸事実に照らして根拠に乏しいと。

(平凡社 2008年7月)

劉月華 『実用現代漢語語法(増訂本)』

2014年12月17日 | 人文科学
 原書題名:刘月华《实用现代汉语语法(订本)》。

 英語の高梨健吉『総解英文法』(美誠社 1970年3月)、ロシア語の和久利誓一『テーブル式ロシア語便覧』(評論社 1961年8月)に比べ分かりづらい。なぜ分かりづらいか。筆者は漢語の文法を把握するにおいて最も根本的なところで錯誤を犯していないか(「第三编 句法(上) 句子成分 第一章 主语和谓语」)。筆者は、漢語の文をなぜ主部(主語)と述部(述語)に分ける必要があるのか、漢語そのものの歴史と実態に即して説明できるだろうか。西欧語の文法から生まれたその概念は、漢語の文法に本当に必要なのか。

(北京 商务印书馆 2001年5月)

『朝鮮日報』2014/12/15 09:08 「【社説】『新しい日本』が生んだ自民圧勝劇」

2014年12月17日 | 地域研究
 安倍首相はこの2年間、日本を「戦争のできる国」に生まれ変わらせることに注力した。憲法解釈を変えるという非正常的な方法で集団的自衛権の行使容認を決定した。来年には集団的自衛権の行使に必要な安全保障関連の法制整備を計画している。米国との同盟強化に向け「米日防衛協力のための指針(ガイドライン)」も18年ぶりに改定することを決めた。武器輸出禁止3原則も撤廃し、すでにオーストラリアなどとは潜水艦の輸出契約も結んだ。安倍首相は今回の選挙の勝利によって再武装路線が国民に承認されたと考え、これまでの流れをいっそう加速させる可能性が高い。戦争する国に突き進むための最終突破ラインともいえる「憲法9条」を破棄するために改憲を進める可能性もある。
 日本は第2次世界大戦に敗れた後「米国の安全保障の傘」の下で経済を成長させることに集中してきた。だが安倍首相はこの2年で日本の戦争犯罪自体を否定するような発言を繰り返している。旧日本軍の慰安婦動員の強制性を認めた「河野談話」を再検証し、談話の内容を毀損(きそん)した。A級戦犯が合祀(ごうし)されている靖国神社にも参拝した。日本国民は今回の選挙で、このような安倍首相を支持する意向を明確に示した。日本全体がこれまでとは違う国に変わったという事実を確認させてくれたわけだ。一部の政治指導者と過激論者の後ろ向きな言動が、実は広範囲な支持の上に成り立っていたという点も確認された。


 アベノミクスの可否をめぐる問題の核心がまったく欠落しているのはもちろん、よしんばこの見方が正しいとして、日本政府と日本国民はこれからなんのために戦争をするのかという肝心の点について、合理的かつ日本国の国益に適う説明がまったくなされない。ただ戦争がしたいのか、自分の財産と人生と生命をかけて。あまりの酷さに、私などは炎上商法だろうと思っていた。
 だが、そうではない、あれは本気で本当にああなのだという専門家の見立てがある。
 この見方が正しいとすれば、同論説の筆者(とこの文章を裁可して自紙の社説として掲げた『朝鮮日報』紙面の責任者)は17世紀李朝知識人と、思惟と心性において共通項を見いだすことができるかもしれない。→河宇鳳『朝鮮実学者の見た近世日本』(井上厚史訳・解説、ぺりかん社 2001年8月)

宮崎市定 『中国史』 上 から

2014年12月17日 | 抜き書き
 始皇帝は偉大なる専制君主であった。私がこれを独裁と呼ばないのは、宋代以後の独裁君主制と区別するためである。私の考えによれば宋代以後は制度として、法的な独裁君主が出現した。もちろん開国の君主はその個人の才能によって、個性のある独裁を発揮したのであるが、そのやり方がそのまま制度となって子孫の代に踏襲された。この場合、独裁君主は制度上、最後的な決裁を与えるだけの機関になっており、凡ての政策は夫々の下部機関によって膳立てされ、最後に宰相がこれを審査する。若し天子として二つ以上の決裁の方法があると宰相が考えれば、その案を併記して原案を作成し、君主に最終的な裁断を求めるのである。然るに古代、及び中世にあってはまだそのような政治様式が制度として成立していない。君主は個人の力量によって専制を行うが、その死と共に全く新しい局面を生み出す。後嗣が暗弱なれば大臣がそれを助けるが、それは人的な信頼を頼みとするだけである。もしこの信頼が揺るげば、とんでもない結果を招くことになる。 (「第一篇 古代史」「四 秦」 同書154-155頁)

(岩波書店 1977年6月第1刷 1986年4月第9刷)