書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

礼、proprieties(manners)、etiquette

2014年02月17日 | 思考の断片
  滋賀秀三『中国法制史論叢 法典と刑罰』に、「ヨーロッパの言葉のうちに、礼のもつ重みと豊かさを一語で再現するに足る適当な訳語を見出すことは困難であるとされている」とあって(「序章」同書8頁)、付言して英語ではpropriety, the rules of proper conductと訳されるとある。後者は翻訳というより説明だから別として、前者propriety(あるいはproprieties)は、the conventional standards of proper behaviorということだから、適訳ではないか。さらにいえばproprietiesはmannersと同義語である。つまりmannersでもよろしいということである。
 だがetiquetteならさらに適訳であろう。"The Amy Vanderbilt Complete Book of Etiquette"の目次をみれば、その包含する範囲の広さに驚くとともに、その範囲が礼のそれに極めて類似していることに気がつく。私の所持しているのは著者の死後、時代と社会の趨勢にあわせて改編編集された1978年度版だが、著者生前に出た1957年度版がこちらにある。'contents'項を参照されたい。
 礼と後二者の違いは、後者が時代によって変わることが(抵抗はあるものの)当然とされているのに対し、前者は古代に聖人によって「天地の秩序にのっとって先王が定めたもの」であり、万古不変の存在と看做されている点である。

  Etiquette (/ˈɛtɨkɛt/ or /ˈɛtɨkɪt/, French: [e.ti.kɛt]) is a code of behavior that delineates expectations for social behavior according to contemporary conventional norms within a society, social class, or group. (Wikipedia, "Etiquette" 太字は引用者)

滋賀秀三 『中国法制史論叢 法典と刑罰』

2014年02月17日 | 東洋史
 「序章 中国法の基本的性格」に、“礼”についての定義とその本質についての説明、“法”との関係がなされてある。

 中国でいう法なるものが、究極において専制君主の意志的命令にほかならず、したがって法をめぐる知識もまた、法実証主義の域を出ることが困難であった〔略〕。ヨーロッパの伝統のなかで、常になんらかの形で脈打ち続け、法を品位あるものとするうえに不可缺の作用をもっていた自然法思想なるものは、中国では、法を手掛りとしては生ずる余地がなかった。ヨーロッパの自然法思想に対応するものを中国に求めるならば、狭い意味の法を離れて、むしろ文化一般に目を転じなければならない。 (7頁)

 「礼」は行動の自己規律であり、社会生活の多種多様な場面において、自己と相手の相対関係の異なるのに対応して、それぞれに最もふさわしいものとして定まった行動の型を、具体的、可見的に履行する能力を意味する。 (8頁)
 
 社会の秩序という見地からすれば、法がその症局面を担当したのに対し、礼はまさしくその積極面を構成していた。 (7-8頁)

 国家の制度や行事から冠婚葬祭などの儀式や日常家庭生活のはしばしにいたるまで、人間の公私にわたる営みについてそれぞれ事宜にかなった作法があるはずであり、それがすべて礼という概念のもとにとらえられる。一言でいえば、礼とは文化的な生活の節度である。
 (8頁)

 ヨーロッパの言葉のうちに、礼のもつ重みと豊かさを一語で再現するに足る適当な訳語を見出すことは困難であるとされている。 (8頁)

 礼は天地の秩序にのっとって先王が定めたものであるとされる(原注5)。先王とは文化的伝統の創始者たる役割を事実果たしたか、もしくは後世から仮託された人物である。先王の権威とは文化的伝統の権威にほかならない。すなわち、礼は事物の自然と文化的伝統のうえに存立するものであって、権力者の意思から生ずるものではない。権力者は礼の細目について時勢に適した改正をすることはありえても、礼の大本を変えることはできない。礼の擁護、興隆をもってみずからの任とすることこそが権力者の存在理由でもある。ヨーロッパの自然法思想に対応するものがまさしくここに存するのであり、ヨーロッパにおいては法に対して与えられていた価値が、中国においては礼に対して与えられていたとみることができるかもしれない。 (8頁)

 原注5。『礼記』礼運「夫れ礼は、先王以て天の道を承け、以て人の情を治む」。『左伝』昭公二十六年、晏子の言葉にも、「〔礼とは〕先王天地に稟(う)け以て其の民を為(おさ)むる所なり」という。 (13頁。下線は原文傍点)

 しかし、礼は権利の観念とは相いれない。礼の中核に存したのは、権利では無くて「名分」の観念であった。〔略〕夫といい子といい、夫といい妻というのは、それぞれみな名である。いわゆる五倫〔引用者注〕とは最も重要な名の列挙にほかならない。相対する二者の相互の名が定まるならば、その帰結として両者の間に相互にその名にふさわしく行動すべき社会的要請が生まれる。これが「分」である。 (8頁)

 引用者注。父子の親,君臣の義,夫婦の別,長幼の序,朋友の信。

 礼はまた、ヨーロッパの法と異なって、違反に対する制裁の技術を内在せず、人間の向上心への訴えかけによって維持される(原注6)。ただ、礼の基本をくつがえすような違反に対しては、中国でいう法すなわち刑罰が働く。 (9頁)

 原注6。そして礼を弁えない行動は、社会の側にマイナスの反応を呼び起こし、これがじわじわと作用して、やがてはその人間の社会生活を行き詰まらせることが第一次的な制裁として作用した。刑罰の出番はその先の問題となる。下述の“民衆の知恵”も同様であり、無理な行動によって社会生活を行き詰まらせた者は生存競争によって淘汰され、淘汰を経て生き残った者たちの間に知恵が保たれたのである。 (13頁)

 礼の具体的な規範は、儀式や作法の方面に詳しく、ヨーロッパの法が取扱う領域をおおい尽していない。親族法・相続法に関連するような規範は、ある程度は礼のうちにも含まれているが、取引法の分野はまったく埒外におかれる。そこに、礼によっても法によっても実定的には十分に規制されること無く放置された広い分野があった。民間の紛争を裁く官憲は、主としては良識と平衡感覚をよりどころにするのが常であった。しかも近代資本主義の衝撃を受けるまでは支障を生ずることもなく、開明的な取引・経済活動が営まれていたのは、ひとえに民衆の知恵によるといわねばならない。この中国の民衆の知恵の根強さは、教化をもって国の要務とする伝統的な文化構造と深層において関連しているものであり、現代中国を観察するうえにおいても見逃してはならない要素である。 (9-10頁)
 
 始皇帝の死後、秦帝国は混乱のうちに崩壊した。これまた法家的施政がその内在する缺陥を露呈したものにほかならない。秦は法家によって興り法家によって滅びたといわれる。続く漢代においてこの点に対する反省が起り、儒学が次第に復興し、ついに唯一の正統教学体系たる地位を確立した。ただし、法家思想の所産である秦の実定法体系は、ほとんどそのままに継承された。ただそれが唯一至高の規範であるという思想は否定された。漢の初期にはなお存していた実務官僚と儒家との間のある程度の対抗は、「文法吏事に習い、縁飾するに儒術を以てす」(『漢書』公孫弘伝)というタイプの官僚の出現と、他面、儒者もまた研究対象の一つとして現行法に目を向けたこととによって、やがて融和されていった。この趨勢のなかで礼と法とは表裏をなし、刑はもって教を弼(たす)けるのであるとする位置づけが定着した。そして漢から唐にかけて、時とともに儒教の倫理的要請が色濃く法の内容に盛込まれていった。この意味で帝政時代の法は、儒家・法家両思想の合作といえる。 (12頁)

(創文社 2003年1月)

山崎努 『俳優のノート 凄烈な役作りの記録』

2014年02月17日 | 芸術
 再読。著者がトミー・リー・ジョーンズと共演するCMを見て。
 本当に面白い本。リー・ストラスバーグやステラ・アドラー、またスタニスラフスキーの同種の著作とは違い、方法論を並べたものではない。よって、読者は「学習する」のではなく「感得する」ことを求められる。
 役者だけでなく訳者にも役立つ本である。いま名前を挙げた三人の著作がそうだったのと同様に、少なくとも私にはそうだった。ただ他の人にもそうであるかどうかはわからない。
 小笠原水軍の文献が秋山真之以外の海軍作戦家に役に立ったかどうかわからないのと同じく。丁字戦法は山屋他人も考えついた。

(文藝春秋 2003年8月。いま2013年10月の増補新装版あり)。

田中周 「民族名称『ウイグル』の出現と採用 ――『回』から『維吾爾』へ」

2014年02月15日 | 東洋史
 鈴木隆/田中周編『転換期中国の政治と社会構造』、第6章。本書181-207頁。
 全体的に軽いタッチという印象。まんべんなく言及したために、どの論点もやや詳しさが足りなくなったということかもしれない。
 最後の参考文献欄で、ムハンマド・エミン・ボグラ著『東トルキスタン史』を「東トルコ語」の資料として挙げてある。

(国際書院 2013年10月)

『シリーズ20世紀中国史』 2 「近代性の構造」

2014年02月15日 | 東洋史
 「歴史学者と国土意識」(吉開将人)は面白かったが、ほかはよくわからない。このシリーズ全体についてもそうだが、巻全体、あるいはかなりの数の論文の問題意識や論旨がよく理解できないか、できてもその重要性がいまひとつ解らない。
 述べられている事実は解る。
 むかし『中国史学入門』や『アジア歴史研究入門』は難しいが務めればわかるのに、『中国史研究入門』や旧版『岩波講座世界歴史』の中国史部分の大方が、何度読んでもよくわからなかったのを思い出す。歴史観や方法論の差といったふうな次元ではなく、学問とは何か、研究するとは何かについての考え方が異なっているのだろうと、今にして思う。考えてみれば研究者の数だけ“学問”はあり、“研究”はあるわけで、それが当たり前の常態なのだろう。

(東京大学出版会 2009年8月)

渡辺純成 「満洲語思想・科学文献からみる訓読論」

2014年02月13日 | 東洋史
 中村春作/市來津由彦/田尻祐一郎/前田勉編『続 訓読論 東アジア漢文世界の形成』(勉誠出版 2010年11月)所収、同書220-259頁。

 「雍正帝『御製朋党論』」より続き。

  雍正帝『御製朋党論』での〔満洲語版におけるtondoと漢語文言文版における対応語彙の〕用例を検討すると、漢語文言文のものでは、「公」が頻出するけれども「忠」は一回しか現れなず〔ママ〕、「公」と「忠」は厳格に区別されている。漢語『御製朋党論』の読者層に対しては、漢語の「忠」概念が無効であるか、有害であると、雍正帝は考えたのであろう。いっぽう、満洲語『御製朋党論』では、「忠」と公平さの「公」とは、何れもtondoによって訳されており、漢語文言文のものを参照しなければ両者の区別はかなり難しい。満洲語儒学・性理学文献での用法を勘案すれば、満洲語『御製朋党論』では旗人に対して、「公」であることよりもさらに強く、感情にも裏付けられた精神状態である「忠かつ公」であることを要求していたことになる。そして満洲語のtondoは、「忠」だけでなく、私的関心を離れた公平さの「公」をも意味するがゆえに、完全に集権的とは言い難い当時の旗人社会において、雍正帝への求心力を保つことを目的とした際にも、使用することができたのであろう。 (243-243頁)

 公平ばかりではなく、公正の意味もあると思うのだが。
 専門家の某氏より御教示いただいた『御製増訂清文鑑』での“tondo” の語義解釈。

  ondo 公 gung yaya baita de cisu akū be, tondo sembi. (諸々の事において私心がないのを、tondo という。) (巻十一 人部二 性情類 第二)

  tondo 忠 jung amban oho niyalma unenggi gūnin i ejen be uilere be,tondo sembi. (臣となった者が誠心で主に仕えるのを、tondoという) (巻十一 人部二 忠清類)


岸田知子 『漢学と洋学 伝統と新知識のはざまで』

2014年02月11日 | 地域研究
 とても教えられる。ただ、蘭学者が書記言語として用いた漢文を、漢文は漢文、すべて一つのものとして、語彙と表現の難易だけを考えるのはどうかという気もする。漢文にも文体の種類がある。どちらかと言えば副次的な話題だが。宇田川玄随が『蘭学階梯跋』で書いたのは深文言ではないか。厳復はハクスリーの Evolution and Ethics を漢語に訳すにあたり白話文でも浅文言でもなく、深文言を採用した。そのほうが訳しやすかったと言うのだが、先秦、しかも要は春秋戦国時代の語彙・表現・文体である深文言は、これらのほかの発想・思考様式・世界観の点からも、白話や浅文言と比べるとき、かえって近代西洋に近く、たしかに訳しやすかったということがあるかもしれない。

(大阪大学出版会 2010年10月)

藤井定義 『懐徳堂と経済思想』

2014年02月11日 | 地域研究
 「Ⅲ―三 懐徳堂の利の思想」。中井甃庵・同竹三・同履軒・山片蟠桃・草間直方5人のなかで、こんにちの経済学的見地からみて、中井履軒の経済観がいちばん保守退嬰的ということになるらしい(ちなみに一番合理進歩的なのは山片蟠桃のそれ)。履軒はそもそも経済問題についての言及も少ないと。「要するに履軒の利の思想は為政者側の、利を得る心がまえといったものを、儒教的経済論の立場から、経国済民について論じたことになる」(51頁)。

(大阪府立大学経済学部 1976年3月)