書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

懐徳堂記念会編 『懐徳堂知識人の学問と生 生きることと知ること』

2014年02月02日 | 地域研究
 麻田剛立は、『崇禎暦書』だけでなく、『暦象考成後編』をも研究してその内容を消化して取り入れていた由(久米裕子「中井履軒の天文学とその背景」、本書78頁)。ここで問題になるのは、履軒が『暦象考成後編』を読んだか、あるいはそのエッセンスを剛立(もしくは間重富)から教えられていたかということだ。
 また五井蘭洲の評価が、朱子学者ながら理の経験的な側面を重視し、それがゆえに荻生徂徠を批判した(『非物篇』)と、前回読んだ評価とほぼ正反対になっている(同上、本書102頁)
 
 蘭洲は、「真知・実見」の概念を打ち出すことによって、経験が認識の重要なポイントになることを主張し、実験・観測にもとづく西洋科学の合理性を積極的に評価している。このように経験的な「理」の追究を重要視する蘭洲の説は、当時、懐徳堂学派と対立関係にあった荻生徂徠一派が世界は不可知であり、認識不可能であるとして、朱子学の「窮理」そのものを否定したことに対する反論でもあった。 (102-103頁)

(和泉書院 2004年9月)

宮川康子 『自由学問都市大坂 懐徳堂と日本的理性の誕生』

2014年02月02日 | 日本史
 中井履軒は『七経彫題』において、理と性、つまり物理(天の道・自然)と倫理(人の道・社会)とをはっきり違うものとして分けているという指摘。
 残念ながら引用の現代語訳はあるが原文の箇所提示がない(「第七章 近代的知の濫觴――懐徳堂の洋学」本書174-175頁)。

(講談社 2002年2月)

屈大均 『広東新語』

2014年02月02日 | 地域研究
 1700年刊の筆記
 この書に、マイクロスコープ即ち顕微鏡の、その「顕微鏡」という漢字訳語の、文献で徴せられる限り最初の例が見いだされる。

 有顕微鏡,見花鬚之蛆,背負其子,子有三四。見蟣虱毛黒色、長至寸許,若可数。 (「巻二 地語 澳門」)

 「花の雄しべ雌しべの上にいる蛆が子供を三匹か四匹背負っている。虱の毛が黒々として、一寸ばかりに見える。数えることもできそうだ」。虱云々はまだいいとして、前半分は何を言っているのかわからない。花鬚とは花蕊、雄しべと雌しべの総称である。これしか指す詞がないから雄しべと雌しべの区別ができないのはまだしも、何かの幼虫をハエの「蛆」と呼ぶのも、ずいぶん粗雑な認識であるし、まして蛆と称んだ以上、それ自体が成虫に対する“子”であるのに、背中にさらにその子供を背負っていると言うのは論理的に破綻している。

池田信夫 blog 「法とは政治である」(2014年02月02日00:50)

2014年02月02日 | 社会科学
 「その正義は**で脱構築できる」といえるような**が存在しないことを証明したとき、それは絶対の正義だが、そういう正義は存在しない。

 法の正しさを慣習(コモンロー)が保証するとしても、その慣習が正しいことをどうやって証明するのか。

 つまり法とは条文の形式をとった特定の集団の信念や政治的利害の表明であり、それ自体が正しいかどうかを論じることには意味がないのだ。

 絶対の正義は存在しないので、あとはみんなで何を信じるかという問題しか残らない。


 自然法と関連づけての議論は?

吉本道雅 「春秋五等爵考」

2014年02月02日 | 東洋史
 『東方学』87、1994年1月、15-27頁。

 春秋(東周)時代は、国君はすべて爵位とは別に「公」と名乗り、また呼ばれた。だから晋の君主は、爵位は侯だが「晋公」とも言う。たとえば文公(重耳)のように。なお読んで、子(爵)がこの時代に実際に存在したのかどうか、どうもあいまいな印象を受ける。

浅野裕一編 『古代思想史と郭店楚簡』

2014年02月02日 | 東洋史
 すこぶる面白い。出土した文書の内容から、『易』と『春秋』これら二書の儒教経典への追加時期(この二つは詩書礼楽の四書より遅れるらしい)の繰り上げが必要との指摘は、後者の三伝の成立事情とも絡んで、通説を揺るがすどころか破壊する内容である。第十章「『春秋』の成立時期」(浅野裕一執筆)は、平㔟隆郎説の完膚なきまでの否定。

(汲古書院 2005年11月)

陶徳民 『懐徳堂朱子学の研究』

2014年02月02日 | 日本史
 五井蘭洲は朱子学者らしく天人合一説・理気二元論の支持者であり、その故にそこから外れた説をとく荻生徂徠や伊藤仁斎を批判した。
 彼は格物窮理というものを、まっすぐ朱子学のそれとして理解しており(倫理と物理の連続)、その彼にすれば窮理とは経書を研究することであり、それに尽きた。この点においても正統的な朱子学者だった。
 中井竹山は、蘭洲よりも自然物への関心があり、それに対する研究も認めていたが、それは“人事”の研究に資するという理由からであり、あくまでそのスタンスからするものであった。
 だが中井履軒になると、そのメンタリティが変化する。
 以上、この三人についての著者の評価を素描。

(大阪大学出版会 1994年3月)