書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

加地伸行 『「史記」再説 司馬遷の世界』

2014年02月22日 | 東洋史
 再読。なんと面白いのだろう。かたや史学、かたや哲学というジャンルと方法論の差はもちろん勘案せねばならないが、いまの私には宮崎市定氏の『史記を語る』より面白い。『史記』の構成その他から考えて、「孝武本紀」は(「封禅書」の焼き直しなどではなく)基本的に司馬遷の筆になるとする説など。
 加地氏は、『史記』執筆は司馬遷が父司馬談から引き継いだ畢生の「私史」編纂作業であるということ、加えて宮刑を受けた後の司馬遷にとっては、武帝の政治、特に自らが宮刑に処せられる原因となった匈奴戦役による国家・社会の困窮に対する批判が大きなモチーフの一つになっておるという主張を、展開される。
 たとえば、「孝武本紀」で匈奴戦役のことがまったく触れられないのは意図的、つまり暗黙の批判であり、その戦役の結果として国家と社会がどうなったかを「平準書」で、事実と数字をもって語らせているのだと。
 『史記を語る』にはやや乏しいと思える、一個の著作物として『史記』を捉え、その全体を流れる内的論理を把握して各部分の有機的な連関を見出そうという姿勢と方法論とが、きわめて刺激的だ。これらはつまりは、『史記』はあくまで「私史」であるという氏の根本的な認識からすべては出発しているのであろうけれど。

(中央公論新社 2010年1月)