チベットのソンツェン・ガンポ王にネパールから嫁いだとされるブリクティー王女(赤尊公主)について、信頼できるネパール側史料にはまったく記録がないそうだ(本書104-106頁)。記載があるのはチベット側史料の『ブトン仏教史』『王統鏡』『ラダク王統記』であるが、しかもこれらはすべて14世紀以降の成立にかかるものである由。史料としての価値は当然ながら低い。
また、同時代的史料であるところの敦煌出土のチベット語年代記や中国側の正史である『旧唐書』『新唐書』には彼女の入嫁について記載がなく、さらには前述の三史料においても、父親として見えるネパール王の名が各々違ううえに、王女自身の名前についても、前二者では「チツン」(中国側の「赤尊公主」のもととなった)、最後の『ラダク王統記』では「ブリクティー」と、異なって書かれているという。
調べてみると、「チツン」とはチベット語で「王家の貴婦人」というほどの意味らしい。彼女が実在したとして、チベットに嫁して来てからの名なのだろう。佐伯氏がこれはサンスクリット語であると注記する、「ブリクティー」が本名ということであろうか。
(明石書店 2003年9月)
また、同時代的史料であるところの敦煌出土のチベット語年代記や中国側の正史である『旧唐書』『新唐書』には彼女の入嫁について記載がなく、さらには前述の三史料においても、父親として見えるネパール王の名が各々違ううえに、王女自身の名前についても、前二者では「チツン」(中国側の「赤尊公主」のもととなった)、最後の『ラダク王統記』では「ブリクティー」と、異なって書かれているという。
調べてみると、「チツン」とはチベット語で「王家の貴婦人」というほどの意味らしい。彼女が実在したとして、チベットに嫁して来てからの名なのだろう。佐伯氏がこれはサンスクリット語であると注記する、「ブリクティー」が本名ということであろうか。
(明石書店 2003年9月)