書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

山田慶児 『混沌の海へ 中国的思考の構造』

2018年09月10日 | 地域研究
 過去の議論からの続き。

 「孟子は、分析的理性の働きが実践的有効性の限界をこえるとき、それを『穿鑿』とよんできびしく非難した」(「中国の文化と思考様式」"4 分類原理と技術的思考" 24頁)とある。これは原文は『孟子』のどこだったかしらん。出典の指示がないので。
 もっとも私も、“何か”の概念が「実践的有効性の働きをこえるとき云々」という意味の似たようなくだりを読んだ憶えはある。ただ「分析的理性」という概念が『孟子』のなかにあったことは知らない。
 そして山田先生は「ジェスイットの指摘」によればとしたうえで、「中国人は理性の自然の光にしたがってさまざまな観念を比較し、正確な結論をみちびきだす」とされるのだが(同"6 フィルターの変質と近代の変質"35頁)、彼らの中国理解は“理”を理性ratio他と理解翻訳する体の表面的なものではなかったか。
 イエズス会の宣教師は、彼らが見たいものを見た、あるいは極言すれば西洋へ報告する際の都合のよいダシに中国を使ったと、私は考えている。それを受け取った西洋の人間も、自分に都合がよいから受け入れたのだと。

(筑摩書房 1975年10月)