2017年8月4日 東京夕刊。
冒頭の岡嶋さんによると、若い世代の場合、誰も批判しない、似たような価値観の者同士だけで交流できる狭い『ネットワーク』で、いくつものキャラクターを演じるのがは普通のため、そこでひどく傷つくことは少ないという。あるいは、ネット上に解き放たれたプライバシーがどれだけ侵害されても、ひたすら慣れていく。そんなふうに、私たちは変わり始めているのだろうか。内面から離れた『自己』を遠目に見ながら。
文学的である。ジャーナリズムの文章とはとても思えない。論旨の輪郭がぼやけて理解しがたい。右顧左眄のようにすらみえる。語り口も、「という」などとおちょぼ口で、なにか躊躇いがちな印象を受ける。というより、印象しかない。田中美知太郎師がいまに生きていたらどう評するか。いったい、プライバシーは時代遅れなのか、そうでないのか、「私(自己)」はこれからの人間存在にとって不要なのか、そうでないのか。
冒頭の岡嶋さんによると、若い世代の場合、誰も批判しない、似たような価値観の者同士だけで交流できる狭い『ネットワーク』で、いくつものキャラクターを演じるのがは普通のため、そこでひどく傷つくことは少ないという。あるいは、ネット上に解き放たれたプライバシーがどれだけ侵害されても、ひたすら慣れていく。そんなふうに、私たちは変わり始めているのだろうか。内面から離れた『自己』を遠目に見ながら。
文学的である。ジャーナリズムの文章とはとても思えない。論旨の輪郭がぼやけて理解しがたい。右顧左眄のようにすらみえる。語り口も、「という」などとおちょぼ口で、なにか躊躇いがちな印象を受ける。というより、印象しかない。田中美知太郎師がいまに生きていたらどう評するか。いったい、プライバシーは時代遅れなのか、そうでないのか、「私(自己)」はこれからの人間存在にとって不要なのか、そうでないのか。