書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

杜甫 「曲江二首 其一」

2015年03月04日 | 文学
 一片花飛減卻春,
 風飄萬點正愁人。
 且看欲盡花經眼,
 莫厭傷多酒入唇。
 江上小堂巣翡翠,
 花邊高塚臥麒麟。
 細推物理須行樂,
 何用浮名絆此身。


 最後から二番目の句。「細推物理須行樂 細かに物理を推すに須らく行樂すべし」。
 「細推物理」とは、「つらつら考えるに」といったほどの意味のようだ。ではここの「物理」は、「この世のありよう」「世間の道理」というくらいの意味ということになろう。後世のような、何かの宗教の教条というわけでは別になさそうである。
 なお、漢詩を詠まれる方の御教示によれば、三・四句は作者の感情の吐露、五・六句は事物の描写となっていて、この二つの対句の関連を「物理」と、解することができる由。外部から情報を補足をすることなく、其処に載せられた情報のみによってテキストを読解するという厳密主義の立場からいえば、このほうが正しい解釈かとも思える。

杜甫 「重過何氏五首 其二」

2015年03月04日 | 文学
 山雨尊仍在,
 沙沈榻未移。
 犬迎曾宿客,
 鴉護落巢兒。
 雲薄翠微寺,
 天清黃子陂。
 向來幽興極,
 步屣過東籬。

 最終句、「步屣過東籬 步屣 東籬を過ぐ」についてだが、過ぎるのは步屣(履き物を履いた足または脚)か、それともそこから派生してそれを履いた人そのものを意味するか。
 「步屣」には「歩くこと」という抽象的な意味もある。しかし屣が元来「はきもの」という具体的な事物を指す語である以上、あきらかにこちらのほうはさらに後から発生した意味である。
 この一句に関し、杜甫の脳裏にあったのはどのような情景だったのだろう。そして彼はどのようなイメージを読む者に伝えようとしたのだろうか。