『九州大学東洋史論集』37、2009年3月、93-114頁。
沈玉慧「清代朝鮮燕行使による琉球情報の収集 使節交流を中心として」より続き。ただし書かれた時期はこちらのほうが先。
周縁部が不安定だった初期に比べ、支配が安定した清中期(乾隆時代)以後は、当初在京中の朝鮮朝貢使節に科せられていた諸々の厳しい制限も緩み、互いに朝貢頻度が多く朝廷の拝謁儀礼において顔を合わせる機会の多かった琉球使節との直接的な交流も可能になった。しかし琉球使節は、依然として厳しい管理下に置かれ、例えば朝鮮使節が賄賂によってではあるが、ほぼ自由にできていた宿舎からの外出も許可されなかった。さらには、通常内城に設置されている朝貢使一行の宿舎も、琉球使節の場合は外城に置かれていた。このような例外的で苛酷とさえ言える待遇を、著者は、清王朝は琉球が清と日本との両属関係にあることを把握しており、日本への情報漏洩を防ぐために取られた措置であろうと推測している。
沈玉慧「清代朝鮮燕行使による琉球情報の収集 使節交流を中心として」より続き。ただし書かれた時期はこちらのほうが先。
周縁部が不安定だった初期に比べ、支配が安定した清中期(乾隆時代)以後は、当初在京中の朝鮮朝貢使節に科せられていた諸々の厳しい制限も緩み、互いに朝貢頻度が多く朝廷の拝謁儀礼において顔を合わせる機会の多かった琉球使節との直接的な交流も可能になった。しかし琉球使節は、依然として厳しい管理下に置かれ、例えば朝鮮使節が賄賂によってではあるが、ほぼ自由にできていた宿舎からの外出も許可されなかった。さらには、通常内城に設置されている朝貢使一行の宿舎も、琉球使節の場合は外城に置かれていた。このような例外的で苛酷とさえ言える待遇を、著者は、清王朝は琉球が清と日本との両属関係にあることを把握しており、日本への情報漏洩を防ぐために取られた措置であろうと推測している。