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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

串田久治 「災異思想は荒唐無稽か?」

2013年09月13日 | 東洋史
 加地伸行博士古稀記念論集刊行会編 『中国学の十字路 加地伸行博士古稀記念論集』(研文出版 2006年4月)184-197頁。

 天人相与の考え方は不合理で非科学的だとして一笑に付され、歴史の片隅に追いやられて久しい。しかし天変地異を天の人間界に対する譴責であると認識したとき、天変地異が現実の政治や社会に対する批判精神を喚起したことも歴史の事実である。 (191頁)

 これはそうだろうと私も思う。史料に徴して証明もできるはず。

 このような考え方は東アジアの儒教文化圏では今なお生きている。それは自然界と人間界の間に神秘を認めるからではなく、この思惟方法にそれなりの合理性を感得しているからだろう。多くの自然災害は、自然を征服することこそ発展だとしてきた近代の負の遺産であること、異常渇水、水害、山崩れ、土石流等々、被害が発生するたびに乱開発が指摘されるように、自然災害とはまさに貧困な政治がもたらした結果であることは誰もが知っているからだ。 (同上)

 しかしこれは筆者の主観にすぎない。「誰もが知っている」になると、論文らしからぬレトリック過剰ではなかろうか。少なくとも根拠となる数値が提示されていない以上、「誰もが知っている」は信用できない。

 少なくとも時の権力機構に踏み込んだ鋭い政治批判の武器として機能し続け、「改革すべし」との気運を高めるに大いに力となったことは間違いない。これこそ災異思想の発展的独自性であり、自然災害の政治責任追及を促した画期的な政治学といえよう。 (196頁)

 この「間違いない」も根拠が不明である。後者は、災異思想の本来の目的がそうであったから(例えば本論文にも引く董仲舒の発言で明言されている)、正しい。簡単にいえば自然災害は君主の不徳が原因であるという論理による君主権の制限の試みである。ただし董仲舒がそのために信じても居ない災異思想(天人相与・天人合一説)を唱えたのかどうかまでは分からない。 
 タイトルに対する答えは、「荒唐無稽だが、君主の恣意を掣肘するという別の次元での効果はあった」という答えになるのだろうか。

吉川幸次郎 『漢文の話』

2013年09月13日 | 東洋史
 再読
 「漢文とは何か」の問いに対する答え。

 漢文とは、中国語で書かれた文章であるというだけでは、この存在に対する十分な説明でない。それは、中国語で書かれた文章であるけれども、中国人が読むように、その本来の発音また語序によって読む場合のことでは、ない。日本語に訳して読む場合のことである。且つその訳し方を「訓読」という法則ある方法による場合を、普通「漢文」という。 (「第三 漢文の訓読 日本語としての処置」 本書42頁)

 つまり、「漢文とは訓読下し文のことである」と、著者は言うのである。中国語(古代漢語・文言文)の原文は漢文ではない。

(ちくま学芸文庫版 2006年10月)