書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

田端光永/田端佐和子訳 『天雲山伝奇 中国告発小説集』

2005年12月14日 | 政治
 収録作品は三つ。

 魯彦周 「天雲山伝奇」(1979年)
 徐明旭 「転勤」(1979年)
 劉賓雁 「人妖の間」(1979年)

 巻末の田端光永氏による「解説」は、“政治勢力の拮抗の谷間に咲いた、寿命の短い花”であったこの1979年の中国文芸状況に関する解説なのだが、結果として当時文連主席であった周揚の言動が、いかに無定見で、党の命令の言いなりそのままにどれほどくるくる変わったかを浮き彫りにして余すところがない。
 万延遣米使節で米国から帰朝した勝海舟は、江戸城で帰朝報告をした際、居並ぶ幕府閣僚に、「彼の国は能力識見の高い者がそれに相応しい高い地位についていると見受けました。おそれながら我が国とは逆のようで」と申し上げて、思い切り叱責されたと聞く。
 勝の言ったとおりに「上に行くほど馬鹿になる」が日本社会の伝統であるとするならば、中国社会の伝統は「上に行くほど奴才になる」なのであろうか。
 奴才とは、社会的地位が上の人間ほど、一個の人間としての自立した精神と誇りがなく・主人を喜ばせるための阿諛追従の小才にのみ長け・同時に主人の目を誤魔化す術も心得て陰ではちゃっかり私利を貪らぬでもない・つまり奴隷の根性を持った・使用人のことだ(いっときの三島由紀夫風表現で)。簡単に言えば幇間、太鼓持ちのことである。文芸界ではたったいま名が出た周揚、日本学界なら金煕徳、唐淳風、王敏、崔世廣、メディア界なら林治波といった諸兄諸姉が、さしずめこれに当たろう。もっとも彼らが具体的な私利を貪っているかどうかまでは知らない。己の保身に汲々としているのは明らかだが。

(亜紀書房 1981年10月)

●参考(過去の本欄記事から)。
 ・2005年3月17日、王敏編著『〈意)の文化と〈情)の文化 中国における日本研究』
 ・2005年2月23日、王敏『ほんとうは日本に憧れる中国人  「反日感情」の深層分析』 
 ・2004年12月21日、王敏『なぜ噛み合わないのか 日中相互認識の誤作動』
 ・2004年12月21日、金煕徳・林治波『日中「新思考」とは何か 馬立誠・時殷弘論文への批判』
 ・2004年12月21日、金煕徳著、董宏・鄭成・須藤健太郎訳『二一世紀の日中関係 戦争・友好から地域統合のパートナーへ』 
 ・2003年4月6日、劉暁波著、野澤俊敬訳『現代中国知識人批判』 

(本日、リチャード・ファインマン著、大貫昌子訳『ご冗談でしょう、ファインマンさん』Ⅱに続く)

リチャード・ファインマン著 大貫昌子訳 『ご冗談でしょう、ファインマンさん』 Ⅱ

2005年12月14日 | 自然科学
(本日、田端光永/田端佐和子訳『天雲山伝奇 中国告発小説集』より続く)
 再読。
 巻末の「カーゴ・カルト・サイエンス」から。

“ですからここでわれわれは実際に役に立たない理論や、真の科学でない科学をもっときびしく吟味する必要がありそうです。
 今あげたこういう教育上のまたは心理学上の研究は、実は私が「カーゴ・カルト・サイエンス(積荷信仰式科学)と呼びたいと思っているえせ科学の例なのです。南洋の島の住民の中には積荷信仰ともいえるものがある。戦争中軍用機が、たくさんのすばらしい物資を運んできては次々に着陸するのを見てきたこの連中は、今でもまだこれが続いてほしいものだと考えて、妙なことをやっているのです。つまり滑走路らしきものを造り、その両側に火をおいたり、木の小屋を作って、アンテナを模した竹の棒がつったっているヘッドホンみたいな格好のもの頭につけた男(フライトコントローラーのつもり)をその中に座らせたりして、一心に飛行機が来るのを待っている。形の上では何もかもがちゃんと整い、いかにも昔通りの姿が再現されたかのように見えます。
 ところが全然その効果はなく、期待する飛行機はいつまで待ってもやってきません。このようなことを私は「カーゴ・カルト・サイエンス」と呼ぶのです。つまりこのえせ科学は研究の一応の法則と形式に完全に従ってはいるが、南洋の孤島に肝心の飛行機がやってこないように、何か一番大切な本質がぽかっとぬけているのです。
 むろんここで私は何がぬけているのかを申し上げる義務があるわけですが、これはそうなかなか一口で言えるようなものではありません。それは実際に彼らの社会組織に富を導入するにはどうすればよいかを、この南洋の原住民たちに説明するのと同じくらい難しいことなのです。単にイヤホーンの格好をもう少し改善しろというようなわけにはいきません。ただ私の見るところでは、このカーゴ・カルト・サイエンスで必ずぬけているものが一つあります。それは諸君が学校で科学を学んでいるうちに、きっと体得してくれただろうとわれわれが皆望んでいる「あるもの」なのです。その場でそれが何であるかは取り立てて説明しないけれども、とにかくたくさんの科学研究の例を見て、暗黙のうちに理解してくれるだろうとわれわれが心から願っている「そのもの」です。ですから今これをはっきり明るみに出して、具体的にお話するのは有意義なことだと思います。その「もの」とはいったい何かといえば、それは一種の科学的良心(または潔癖さ)、すなわち徹底的な正直さともいうべき科学的な考え方の根本原理、言うなれば何ものもいとわず「誠意を尽す」姿勢です。たとえばもし諸君が実験をする場合、その実験の結果を無効にしてしまうかもしれないことまでも、一つ残らず報告すべきなのです。その実験に関して正しいと思われることだけではなく、その実験の結果を説明できるかもしれない他の原因や、他の実験の結果から説明できるものとして省略してしまったことがらや、その実験の経過など、ほかの人にも省略したことがはっきりわかるように報告する必要があるのです” (本書259-260頁。赤字は引用者による)

 “「誠意を尽くす」姿勢”? 中国の奴才にも、そして日本の馬鹿にも、そんなものはありはしない。ないから今日のようなトラブルになっている。

●「アジアの安全な食べ物」サイト、2005年6月25日
 →http://blog.livedoor.jp/safe_food_of_asia/
 
  参考:「真性引き篭もり」サイト、2005年8月1日
   「『アジアの安全な食べ物』という犯罪者と、それに踊らされる馬鹿。」
    →http://sinseihikikomori.bblog.jp/entry/213874/

 「アジアの――」の作者は愚かではない。それどころかかなり知的水準は高い。指摘している中国の状況は基本的に事実だし、かなりの程度真実でもある。だが、“「誠意を尽くす」姿勢”において十分だとは、言葉遣いは違うながら「真性引き篭もり」サイトの筆者がその点をきびしく非難するように、言えない。結局は馬鹿――鼻先思案や小刀細工にだけ長けた利口馬鹿――だといわざるをえない。(上記これらウェブサイト2つの存在をご教示くださったX氏に、厚く御礼申し上げます。)

 ただしである。

●「Sankei Web」2005年12月14日、「前原代表 胡主席と会談断念 日中問題『永遠に解決せず』」
 →http://www.sankei.co.jp/news/morning/14pol002.htm
●「Sankei Web」2005年12月13日、「『中国は有史以来の平和国家』 外務省副報道局長」
 →http://www.sankei.co.jp/news/051213/kok114.htm

 前原誠司氏は馬鹿ではない。秦剛氏は奴才である。
 日中の同種の事象を比較していると、この種の差異をときどき見出す。中国側の途方もなさにくらべれば、日本のほうがまだましと思えてくるのである。これは、日本側が「スケールが小さい」「いじましい」ということで、その光の当てかたを変えた言い換えでもある。これをさらにできるだけ中立的な言葉で表現するとすれば、「生真面目」「実直」「律儀」であろう。日本と比較した場合、中国側にこれらの性質が概して少ない(すくなくとも表面に出てこない)とは、まあ言って良かろうと思う。

(岩波書店 1986年7月)