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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

三枝博音 「物理の概念の歴史的彷徨について」

2014年04月14日 | 自然科学
 『日本科学古典全書』第六巻(1942年)付録。

 このなかで三枝氏は、方以智『物理小識』(1643年初稿完成)の「物理」の語とその概念は、当時の西洋からもたらされた物理学(ヒシカ)からきたものかどうか自分にはわからぬと仰っている。
 帆足万里の『窮理通』は1836年刊である。物理学を「窮理」と言って「物理」とは言っていない。
 三枝氏によれば、貝原益軒が『大和本草』(1709年)で「開物」の意味で「物理」の語を用いている由である。調べてみると確かにあった。「物理之学其関係不可為小也」(「自序」)。
 「物理」の語そのものは古くからある(張華の『博物志』にすでに見える)が、意味には変遷もしくは揺れがあったということである。だがそれは「窮理」の語もまた同様である。ではなぜ、「窮理」ではなく「物理」の語が、“物理学”として定着したのか。

服部正明 「ヴァイシェーシカ学派の自然哲学」

2014年01月14日 | 自然科学
 『岩波講座東洋思想』5「インド思想 1」(岩波書店 1988年3月)所収、同書171-196頁。
 インドの原子論はふるくはジャイナ教に見られる由。非常に興味深い。
 「これ以上分割不可能」でありながら、地・水・火・風の四元素の性質(香・味・色・可触性)を具える。しかもこの世に存在するものは霊魂と非霊魂にまず大別され、後者は物質のほか、運動の媒体・静止の媒体・虚空に分かれるというのである。
 原子が構成する、すなわち形体を持つのは、このうちの物質のみである。しかしほかの四種も実在とされる。
 ジャイナ教のこの考えは、ヴァイシェーシカ学派にも受け継がれた由。

岡白駒 「蔵志序」

2014年01月06日 | 自然科学
 (テキストは早稲田大学蔵書
 
 山脇東洋『蔵志』に岡が寄せた序文。
 「凡そ技は術有りて後ち道有り。道は以て術を行う所也」と、通念と逆のことが書いてあって面白い。現実に存在する技術を駆使する為に思想が形作られるという視点は珍しく、興味深い。
 「聖人が天下を治むるも亦た唯だ之の如くす。故に詩書礼楽は古は之を四術と謂えり」と言う岡は、続けて、「宋儒は術の字を諱んで専ら道理を主とせり。道は何を主と為すかを知らず」、であるのにその空論を天地自然の原理だと偉ぶってこの世の全てに適用させようとしたものだから、例えば医の世界では死ななくてもよい病人が死ぬことになったと、散々にこきおろしている。

(晉)張華撰 (宋)周日用ほか注 『博物志』

2013年12月18日 | 自然科学
 テキストは「鴎外文庫書き入れ本データベース」から。

 張華は政治家あるいは人間としては、自分可愛さのあまりの濁った出処進退にはあまり感心しないが、彼の著した『博物志』については、かなり面白かった記憶があった。日本語訳が出たというのであらためて読み返してみた。
 以前読んだときにはこちらが至らなくて気がつかなかったことがいくつかある。
 自国を「晋」「中土」「中州」などではなく「中国」と称んでいることに気がついた。また、『物理論』という著作からの引用があることにも。「物理論云水土之気升為天」。あと、西晋の人なのに東晋に書かれた『晋中興書』からの引用があったり、北魏の賈思勰『斉民要術』が言及されていたり、はては唐の人である劉知幾が曰くとあったりして、笑いに事欠かないのだが、しかし、「中国」という言葉遣いについては、ほぼ同じ時期に書かれた江統「徙戎論」にも同様に「中国」とあることを考えれば(注)、『詩経』(「大雅 生民之什」)を典拠にしているというだけでなく、それ以上に何か関係があるのかもしれないと疑われる。ただしここが張華の原著そのままであればの話だが。

 
  此等皆可申諭發遣,還其本域,慰彼羇旅懷土之思,釋我華夏纖介之憂。惠此中國,以綏四方,施永世,於計為長。 (「徙戎論」末尾)

橋本敬造 「梅文鼎の数学研究」

2013年11月26日 | 自然科学
 『東方学報』44、1973年2月、同誌233-279頁。
 梅文鼎がおのれの数学を「実学」と称する時、それは抽象的な普遍性を持ちつつ客観的な実在でもある「数」というものを基にすると同時に、暦学・収税・財政・軍事など、実際的に「経世の用」に立つ学問であるという二重の意味においてであった。

 なお同論文で知ったこと。明清時代の文言文において、西洋数学およびそれに触発されて再認識・分析された中国数学、そしてその結果、当時の学者個々によって中西いずれを尊しとなすかでその比重に偏りがあるものの、とにかく統一物として理解された数学という学問分野一般を「度数之学」と称するのは、度=量法=測量=幾何学、数=算法=計算=算術の、「数学」概念の二元理解から来ている由。

梅文鼎 「学暦説」

2013年11月22日 | 自然科学
『梅氏暦算全書』所収『暦学答問』所収。

 そこに、「暦也者数也。数外無理、理外無数。〔略〕数不可以憶説、理或可以影談」とある。「理」が徐光啓と同じく(あるいはその用例を踏襲して)数理あるいは形式論理を意味していることが分かる。ただそれは、倫理と分離したものではなく、朱子学的な、倫理と物理の連続したあるいは融合したそれの、あくまで一部分として捉えられている。それはこの直前及び直後の記述から窺える。このことが、逆に遡って先達である徐光啓もまたそうであったかどうかについては、まだ審らかにしない。

志筑忠雄 『求力法論』

2013年11月19日 | 自然科学
 中山茂/吉田忠校注、日本思想大系『洋学 下』(岩波書店、1972年6月所収、同書9-52頁)

 途中、原著にない彼独自の内容補足が(おそらくは自分の文体と論理からみて脱けていると思われた部分に)あったり、陰陽五行と結びつけて解釈しようとしたりする、これはのちの『暦象新書』にも見られるところの、翻訳という性質から言えば不必要どころか有害な補論があったりするが、翻訳としては極めて正確である(テキストの校注者が内容についてはほとんど誤りを指摘していないことから)。
 志筑は、この訳書で、原理を「辨識」、物理学を「格物学」と訳している。さらに自然法則および形式論理を「理」、幾何学を「度学」としている。

 度学ハ格物学ノ本タリ、数ト理トヲ重ンズ。(第二十七按)

 もっともこれは原著者カイルの言葉である。福澤諭吉の『福翁自伝』における、「元来わたしの教育主義は自然の原則に重きを置いて、数と理とこの二つのものを本にして、人間万事有形の経営はすべてソレカラ割り出して行きたい」、「東洋になきものは、有形において数理学」を思い起こさせる。

 追記。この文章を書いた後、『大人の科学』の「WEB連載 江戸の科学者列伝 志筑忠雄」を読んだ。たいへん参考になった。

藤岡毅 『ルィセンコ主義はなぜ出現したか―生物学の弁証法化の成果と挫折』

2013年11月12日 | 自然科学
 マルクス主義(就中唯物論的弁証法)即ち社会科学が、生物学(即自然科学)に優越する科学だと見なされたから、そしてその背後にあるのは科学についてのあまりにも実用主義的な理解、と理解する。

 メモ。

  ソ連でルィセンコ派の支配が決定的になった時、特に英国の左翼は、ルィセンコを支持するものと反対するものに分裂した。少なくとも、社会主義ソ連への支持とルィセンコ主義批判とは両立した。しかし、概して日本では、社会主義ソ連を支持するものはルィセンコ主義を支持したし、ルィセンコ主義を強く批判した人に社会主義の支持者はほとんどいなかった。英国には、ソ連を介さなくてもマルクスやエンゲルスの思想についての豊富な知識と理解をもった左翼知識人は多くいたし、遺伝学を支持する多くのマルクス主義〔ママ〕がソ連にいたことも知られていた。しかし、ソ連共産党と政府が発表する公的文書に基づいて社会主義ソ連を理解するほかなかった当時の日本の左翼の中では、マルクス主義の見解=ソ連指導部の見解と解釈する傾向が、英国に比べはるかに強かった。また、マルクス主義の総本山とみなされていたソ連の理論的文献が本格的に日本に紹介されたのが、1930年のソ連哲学の転換、ミーチン哲学の台頭前後であったことを考えると、日本のマルクス主義陣営は、その後どのグループに属したかどうかにかかわらず、ミーチン主義的な傾向を共通の根として強くもっていたといえるだろう。そのことが、わが国がどの国にもましてルィセンコ主義の影響を強く受ける国となった理由の一つである。
 (「終章」本書222-223頁)

  自然科学に社会主義建設のための実用的価値しか見いださなかったミーチン (「第2章 文化革命下の哲学・遺伝学論争」本書107頁)

(学術出版会 2010年9月)

浅井祥仁 『ヒッグス粒子の謎』

2013年11月03日 | 自然科学
 古典物理学では真空の中にはなにもないが、量子力学ではヒッグス粒子が存在する。
 志筑忠雄は『暦象新書』において、真空中には何もないわけではないと主張したが、それは彼が量子力学を知っていたからでも素粒子の存在を見通していたからでもない。
 彼は、真空を作るガラス管は光を通す、光も気で出来ている、光がガラス管を通るということは気がガラス管を通るということである、故に真空のなかにも気はあるという理屈で、真空の存在を否定したのである。
 さらに踏みこんで言えば、朱子学(の気の理論)は真空の存在を想定していないから、「真空などというものは存在しない」という彼の結論は最初から決まっていたのである。つまり志筑は聡明であるがために真空を否定したのではなく、頑迷であるがゆえに真空を認めなかったのである。

(祥伝社新書 2012年9月)