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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

黄宗羲著 沈善洪主編 『黄宗羲全集』 9

2013年10月31日 | 自然科学
 黄宗羲の暦算関係(暦学・天文学・数学)の著作をまとめてある。

 『暦学假如』
 『授時暦故』
 『日月経緯』(新推交食法)
 
 これらの著作から判ることは、黄が中西両方の暦算に通じていたということ、そして顧炎武とは異なり、知っているだけではなく自ら計算できたということである。著作中、計算と数字の羅列が続く箇所が多い。数学的頭脳の持ち主だという印象を強くうける。
 巻末に呉光という人が「黄宗羲遺著考(五)」という論文を書いておられるが、その「二 暦算著作考」は、非常に教えられるところが多い。

(中国 浙江古籍出版社 1992年12月第1次印刷 1993年11月第2次印刷)

志筑忠雄 『暦象新書』

2013年10月30日 | 自然科学
 再読。
 『日本哲学思想全書』6「自然篇」所収、同書67-321頁。

 『暦象新書』とはかいつまんで言えばこういうものだが、よく言われるのはこの書における彼の後世への最大の功績、「遠心力」、「求心力」、「重力」、「加速」、「楕円」などといった物理学・自然科学の概念・語彙についての日本語による新たな術語の創出である。しかしこの書の真価は、それ以上に、訳の明晰さや正確さ以上に、単なる翻訳の枠内を超えて、原書の部分を「奇児曰く」と訳述したあとで「忠雄曰く」と自身の意見による批評ときに自身の計算結果と比較しての批判を加えつつ、訳述した内容を再確認・再構成する形を取ってゆく部分にあるのではないか。

 中篇になると、「附」という前置きとともに補論が、しばしばつくようになる。ここは、原書の言うところを己が生まれてより受けた儒教(朱子学)の教えとその宇宙論(気や陰陽五行説)の枠組みでなんとか破綻なく理解しようとし、かつまた自身および世間一般の従来の認識体系の内へ無理矢理にでも収めようとする、忠雄の後世から眺めれば凄惨とさえ見える精神的な奮闘と努力の跡である。たとえば中篇末尾のそれ(「不測」と名づけられている)などがその代表的なものだ。
 その中篇は、「巻之下」以降、「奇児曰く」「忠雄曰く」の形式すら文中に溶解して影をひそめ、全文がいわば「附」つまり原書を忠雄が再解釈し、忠雄の解釈と世界観によって再構成・叙述する形へと変わってゆくという、奇妙な体裁を取っている。その変移は、いま述べた志筑の精神的な奮闘努力と関係があるだろう。
 
 一読すれば明らかなことだが、この訳書は語彙および表現ともに、じつに端正な漢文訓読体でしるされている(部分的には漢文そのもので書かれている)。このことは志筑が正統的かつ水準以上の漢学(儒学、則ち朱子学)の知識があったことを証拠立てている(注1)。だがそれが志筑の西洋科学受容にとっては、却って障害となったかと思える。
 下篇はほぼ前篇、原書の忠実な翻訳である。ただし末尾の「混沌分判図説」に至って、原書を無視した(あるいは内容を踏まえた上での)、儒教(朱子学)知識人としての志筑の反論あるいは折衷論としての宇宙論となる。もちろん内容は志筑独自の作にかかるもので、原書にはない。そこでは、「理」すらも、(儒教) 倫理と物理の連続した「性理」の理の意味に変わってしまう(注2)。
 この部分は、思想家としては志筑という人の独創性を示すところかもしれないが、翻訳者としては蛇足、さらに言えばやってはいけないことだった。中篇の巻之下以降がすでにそうである。読者の便を考えた原書の理解に資するための訳者による注釈という節度を越えてしまっている。


 注1。下篇の「凡例」に、この巻はニュートンの物理学の紹介であるという断り書きがある。そこで志筑は、ニュートン力学および物理学を指して「度数之学」という語を用いている。
 注2。この書において、「理」という言葉は「物理法則」もしくは「論理的前提」「形式論理」「論理的結論」の意味で用いられる。「数理」という言い方もあるが、これは「公式」で表される物理法則を指す(基礎方程式)。

川本幸民訳述 『気海観瀾広義』巻八/巻十四(1857・安政3年刊)

2013年10月29日 | 自然科学
 (古典籍総合データベース - 早稲田大学) 

 巻八「大気」条。
 『気海観瀾』では「雰囲気」と訳してあったものを、ここでは「大気」と、いまと同じ訳語を当てている。ただ冒頭、「大気ハ一〔いつ〕二雰囲気トイフ」と断ってある。
 
 巻十四「光」条。
 当時の科学ではあたりまえのことだが、光を「光素」という粒子(もしくは元素・原子)の集合体として捉えている。
 

青地林宗 『気海観瀾』(1825・文政八年)

2013年10月27日 | 自然科学
 (古典籍データベース 早稲田大学)

 『気海観瀾広義』他および『理学提要』より続き。

 既に「理科」という言葉が見える(「序」や「凡例」)。「凡例」冒頭に、これは若年層の初心者(童蒙)向けだとはっきり断ってある。これも『理学提要』同様、蘭書を訳したものだそうが(ちなみに両者は体裁内容が類似している)、漢文としてはこちらのほうがはるかにこなれている。
 医学を含む西洋科学の徒を「藝術家(技術者)」と訳す所など、明末清初の用例に沿った正統的な文言文である。明らかに最初から漢文で発想している。訳者の青地林宗は漢方から蘭学に転じた人だから、根っからの蘭学者である広瀬元恭よりも漢籍の素養が深かったのだろう。
 「理」が「物理」の理であること、此方のほうが出版年代的には前だが、『理学提要』と同じい。ただ「空気」或いは「大気」とあるべきところを「雰囲気」としてある。調べてみたところ、これがこの語の第一義の由である。また、「極微」という仏教語を「分子」(あるいは「原子」)の意味に使っている。
 読んでみて、広瀬元恭が『気海観瀾』を批判する理由がわかった。項目が『理学提要』に比べるとやや雑駁で、物理学の全般的な入門書としては体系だっていない(脱けている項目がある)。さらに叙述が簡潔にすぎて、論理的に飛躍がある。
 後者については、ある程度説明がつく。
 『気海観瀾』は『理学提要』とは違い正統的な文言文で書かれているから、その為の語彙と表現がなく、近代科学の実体と論理を叙述しきれなかったのかもしれない。正確具体的に書こうとすると文体が乱れてただの漢文訓読体になってしまうであろう。実際そうなりかかっている部分がある。漢文の造詣の深い(少なくとも広瀬よりも)青地には、それができなかったのではないか。

広瀬元恭 『理学提要』(1856・安政三年)

2013年10月27日 | 自然科学
 (京都大学附属図書館所蔵 富士川文庫セレクト [理学提要])

 青地林宗『気海観瀾』(1825・文政八年)について、「難しい内容を記しているのに言葉が足らず、その上書くべき内容をとばしている時もある」と批判するのだが、自身も随分文章が読みにくい。この版本では訓点が施されており、それが目に障って気が散るせいかとも思ったが、どうも行文自体が拙いようだ。書いた広瀬本人も、「自分は文章(漢文)が下手だ」と言っている。
 どうやら、こんにちであれば高校の教科書に参考書程度の漢文の文法知識と、四書とそれからせいぜい十八史略程度の文言文の語彙量の上に、日本漢語(学術語含む)を載せて走らせたもののように思える。中学生か出来の悪い高校生の長文英作文みたく、調子がガクガクなのである。
 それはさておき、内容についてメモしておく。
 「総論」。ニュートン力学の説明等あり。「理」は完全に「物理(自然法則)」のみの意味で用いられている。「分子」「重力」他、志筑忠雄の訳語をそのまま使っている。ただ独自の訳語もあるような。原子(「元素」)の概念と存在についても言及。「理科」という言葉が見える。
 「巻一 大気」。「秒」の語がみえる。ただし「本邦の半時を六十分したその一を秒という」とわざわざ割注で説明しているから(この原書は(ひいては訳書も)初学者向けだと最初に断ってある)、一般には知られた言葉でも概念でもなかったのだろう。
 「巻二 水」。当然のことだが、「理」は「論理」の理としても用いられる。「理として然り」など。これは形式論理の意であり、やはり倫理的規範の謂ではまったくない。同じく、「性」は「性質」の性であって「性即理」の性ではない。
 「巻三 土」。「風土」「地理」という言葉が出てくる。どちらも歴とした漢語だが、ここではその上にclimate, geographyという新しい意味が被さって使われているのが興味深い(ただし完全には本来の意味が払拭されたわけではないようだ)。「原因」はcauseの意味で使用されている。

川本幸民 『気海観瀾広義』 坪井信良 「序」(1851・嘉永4年刊)

2013年10月27日 | 自然科学
 (古典籍総合データベース - 早稲田大学) 

 漢文。「理」とは天地の運行、人や動物の生き死に、土や水の変化、草木の繁り枯れる様に金属の硬柔、これら万物の自ずから有する至妙の理である、これ以外に在らずと言い切っている。そしてそれを学び究めるのが理科の学であるとも。

川本幸民訳述 『気海観瀾広義』巻一(1851・嘉永4年刊)

2013年10月23日 | 自然科学
 (古典籍総合データベース - 早稲田大学) 

 「真性」条。

 分子は微細無量にしてこれを分かつも終〔つい〕に涯際なき者か。或は己に気孔なく復〔また〕分かつべからずして。終に物質原始の成分となる者か。尚ほ知るべからず。蓋〔けだ〕し物質の界域至大なるが故に。人智未だ至らざる所あり。然れども其の終に分かつべからざるに至らば。暫〔しばらく〕これを気孔なく固硬なる原始の成分ありとすべし。(「分性」項。もと片仮名表記、〔〕内は引用者による読み)

 分子論について、原著の青地林宗『気海観瀾』(1827・文政10年刊)では記述が曖昧だった分子と原子の区別について、前者を存在が確認されているもの、後者をまだ仮説にすぎないものとして、明確に分けている。

陳実功纂著 源元凱校 小曽戸洋解説 『外科正宗』

2013年09月07日 | 自然科学
 北里研究所附属東洋医学総合研究所医史文献研究室編『和刻漢籍医書集成』第13輯、1991年9月。
 「寛文癸卯(三・1663)八月旧校 寛政辛亥(三・1791)四月新鐫」の後付。

 外科の医学書なのに解剖図が一枚もない。内容的には内科的治療にかなり重点を置いているとはいえ、術式も指示しているのに、文章によるそれのみで、図解が一つもない。巻頭に白話小説の挿絵みたいに適当な男女の身体図が幾枚かあるのみだ。もちろん本人がみずから描いたものではなく、絵師に指示してかかせたのであろう。真面目に説明する気があったのかと疑う。

山田慶兒 『中国医学はいかにつくられたか』

2013年05月08日 | 自然科学
 中国の歴史上、「人体解剖の気運が生まれた」時代は漢代と宋代らしい。その結果、この二つの時期には人体の内臓や筋骨その他を精密に記述・描写した図や著作が著された。ただし、「人体の硬部と軟部とを問わずすべてを計量し、人体を量的に認識しようとした」漢代の「計量解剖学」(著者の造語)は、この時代のみをもって終了し、宋代に復興したそれは、「関心は計測でなく形態の記述と描写に向かい」、「人体計量値のほうは、『霊柩』・『難経』〔引用者注・いずれも漢代の医学書〕に記載されている数値がそのまま、後世まで墨守されていったのだった」。第六章中国医学の成立、本書87-89頁。

(岩波書店 1999年1月)