再読。
『日本哲学思想全書』6「自然篇」所収、同書67-321頁。
『暦象新書』とはかいつまんで言えば
こういうものだが、よく言われるのはこの書における彼の後世への最大の功績、「遠心力」、「求心力」、「重力」、「加速」、「楕円」などといった物理学・自然科学の概念・語彙についての日本語による新たな術語の創出である。しかしこの書の真価は、それ以上に、訳の明晰さや正確さ以上に、単なる翻訳の枠内を超えて、原書の部分を「奇児曰く」と訳述したあとで「忠雄曰く」と自身の意見による批評ときに自身の計算結果と比較しての批判を加えつつ、訳述した内容を再確認・再構成する形を取ってゆく部分にあるのではないか。
中篇になると、「附」という前置きとともに補論が、しばしばつくようになる。ここは、原書の言うところを己が生まれてより受けた儒教(朱子学)の教えとその宇宙論(気や陰陽五行説)の枠組みでなんとか破綻なく理解しようとし、かつまた自身および世間一般の従来の認識体系の内へ無理矢理にでも収めようとする、忠雄の後世から眺めれば凄惨とさえ見える精神的な奮闘と努力の跡である。たとえば中篇末尾のそれ(「不測」と名づけられている)などがその代表的なものだ。
その中篇は、「巻之下」以降、「奇児曰く」「忠雄曰く」の形式すら文中に溶解して影をひそめ、全文がいわば「附」つまり原書を忠雄が再解釈し、忠雄の解釈と世界観によって再構成・叙述する形へと変わってゆくという、奇妙な体裁を取っている。その変移は、いま述べた志筑の精神的な奮闘努力と関係があるだろう。
一読すれば明らかなことだが、この訳書は語彙および表現ともに、じつに端正な漢文訓読体でしるされている(部分的には漢文そのもので書かれている)。このことは志筑が正統的かつ水準以上の漢学(儒学、則ち朱子学)の知識があったことを証拠立てている(注1)。だがそれが志筑の西洋科学受容にとっては、却って障害となったかと思える。
下篇はほぼ前篇、原書の忠実な翻訳である。ただし末尾の「混沌分判図説」に至って、原書を無視した(あるいは内容を踏まえた上での)、儒教(朱子学)知識人としての志筑の反論あるいは折衷論としての宇宙論となる。もちろん内容は志筑独自の作にかかるもので、原書にはない。そこでは、「理」すらも、(儒教) 倫理と物理の連続した「性理」の理の意味に変わってしまう(注2)。
この部分は、思想家としては志筑という人の独創性を示すところかもしれないが、翻訳者としては蛇足、さらに言えばやってはいけないことだった。中篇の巻之下以降がすでにそうである。読者の便を考えた原書の理解に資するための訳者による注釈という節度を越えてしまっている。
注1。下篇の「凡例」に、この巻はニュートンの物理学の紹介であるという断り書きがある。そこで志筑は、ニュートン力学および物理学を指して「度数之学」という語を用いている。
注2。この書において、「理」という言葉は「物理法則」もしくは「論理的前提」「形式論理」「論理的結論」の意味で用いられる。「数理」という言い方もあるが、これは「公式」で表される物理法則を指す(基礎方程式)。