高木兼寛との脚気論争では鴎外を擁護する。具体的には鴎外責任説を流布した対象の批判というかたちをとり、某小説作品がやり玉に挙げられる。個人的には、板倉聖宣先生の『模倣の時代』の名が出ず、この書がここでも専門家による評価を受けないのが、残念ではある。
(NTT出版 2013年1月)
(NTT出版 2013年1月)
日清・日露戦争の日本軍における脚気問題にふれながら、先行研究の板倉聖宣『模倣の時代』を参考文献に挙げないのはなぜだろう。
可能性としての理由。
1. 存在に気がつかなかった。
2. 知っていたが、参考文献に挙げるに値しないと見なした。
3. 知っていて、参考にもしたが、何かの理由で挙げないことにした。
さて、どれだろう。
(文藝春秋 2011年5月)
可能性としての理由。
1. 存在に気がつかなかった。
2. 知っていたが、参考文献に挙げるに値しないと見なした。
3. 知っていて、参考にもしたが、何かの理由で挙げないことにした。
さて、どれだろう。
(文藝春秋 2011年5月)
再読。
森鴎外と高木兼寛の脚気論争を取り上げても板倉聖宣『模倣の時代』上下(仮説社 1988年3月)に触れず、福沢諭吉の「脱亜論」と彼のアジア観を論じながら平山洋『福沢諭吉の真実』(文藝春秋 2004年8月)を黙殺する。本文中はもとより巻末の「参考文献」においてさえ、関係分野においてそれぞれ草分けであると同時に根幹を成すといっていいこれら二つの著作の名が挙げられていない(注)。「参考文献」の冒頭、「執筆にあたって参考にした主な文献を掲げた」だけであって「その他、ここでは紙数の関係からいちいち挙げないが、多くの文献に教えられたことを付記しておく」などという見え透いた言い訳は通らない。筆者は学界学閥におけるおのれの地位と立場の保全に汲々とするあまり、大勢への随順をひたすらこれ心掛けるのみらしい。
注:本ブログの関係文章。
★森鴎外と高木兼寛の脚気論争について。
2005年04月19日、板倉聖宣『模倣の時代』上下
2005年02月14日、板倉聖宣・重弘忠晴『日本の戦争の歴史 明治以降の日本と戦争』
★福沢諭吉の「脱亜論」とアジア観について。
2004年12月14日、平山洋『福沢諭吉の真実』
2005年04月10日、柳田泉『明治初期の文学思想』上下
2005年05月31日、井田進也『歴史とテクスト 西鶴から諭吉まで』
2005年06月24日、桑原三郎 『福沢諭吉の教育観』
(岩波書店 2006年12月)
森鴎外と高木兼寛の脚気論争を取り上げても板倉聖宣『模倣の時代』上下(仮説社 1988年3月)に触れず、福沢諭吉の「脱亜論」と彼のアジア観を論じながら平山洋『福沢諭吉の真実』(文藝春秋 2004年8月)を黙殺する。本文中はもとより巻末の「参考文献」においてさえ、関係分野においてそれぞれ草分けであると同時に根幹を成すといっていいこれら二つの著作の名が挙げられていない(注)。「参考文献」の冒頭、「執筆にあたって参考にした主な文献を掲げた」だけであって「その他、ここでは紙数の関係からいちいち挙げないが、多くの文献に教えられたことを付記しておく」などという見え透いた言い訳は通らない。筆者は学界学閥におけるおのれの地位と立場の保全に汲々とするあまり、大勢への随順をひたすらこれ心掛けるのみらしい。
注:本ブログの関係文章。
★森鴎外と高木兼寛の脚気論争について。
2005年04月19日、板倉聖宣『模倣の時代』上下
2005年02月14日、板倉聖宣・重弘忠晴『日本の戦争の歴史 明治以降の日本と戦争』
★福沢諭吉の「脱亜論」とアジア観について。
2004年12月14日、平山洋『福沢諭吉の真実』
2005年04月10日、柳田泉『明治初期の文学思想』上下
2005年05月31日、井田進也『歴史とテクスト 西鶴から諭吉まで』
2005年06月24日、桑原三郎 『福沢諭吉の教育観』
(岩波書店 2006年12月)
今年2月14日欄板倉聖宣・重弘忠晴『日本の戦争の歴史 明治以降の日本と戦争』で紹介した以下の部分のもととなった著作。
●日清・日露戦争において兵士に脚気にかかって死亡する者が多かったのは、軍隊の主食が白米だったことによる。明治維新後、精白した白米の価格が下がって入手しやすくなったため、日本では脚気が流行するようになった。江戸時代からの漢方の知識によって麦飯を食べれば脚気は治ることが知られていたので、明治25年ごろには軍隊内での脚気はほぼ見られなくなっていた。ところが陸軍軍医本部や東京大学医学部の教授たちは脚気を感染症であると考え、栄養学的に麦入り飯が白米より優れているという根拠は全くないとして、野戦衛生長官石黒直悳は日清戦争で戦地へ白米を送った。戦後石黒の後任として日露戦争時の野戦衛生長官となった小池正直は脚気と麦飯とは原因上関係があることを認めたが、森林太郎(鴎外)は、「日本陸軍および海軍の脚気減少は、伝染病特有の流行期の変動による自然現象であって兵食改善等の結果ではない」と強硬に反対した。おそらく森の反対が原因で日露戦争でもやはり兵士の主食には白米が用いられ、大量の脚気病患者が発生した。森は戦後、臨時脚気病調査会の会長になるが、この立場を変えず、「麦飯や玄米は脚気に効く」と主張する軍医を首にしたりした。「ドイツの偉い医学者たちの認めていないような説は認めるわけにはいかない」というのが森の考え方だった。
“脚気は白米を食べる東洋人特有の病気だったので、欧米の学者たちは脚気のことにはほとんど関心がなかったのです。(略)ビタミンは本当は日本の医学者たちによって発見されてもよかったのに、日本の秀才医学者たちは、欧米の偉い学者たちのうしろにつくことばかり考えていて、その大発見の好機を逃がしたというわけです” (80頁)
この書の骨子はほぼ2月14日欄で書いたこの通りだが、関連事実の紹介と事態の全体像の構築があきれるほど堅牢である。たとえば、森林太郎が首にしたという軍医の名は都築甚之助であるが、森は、都築を免職しようとする調査会内部の動きをすくなくとも制止しようとせず最終的には会長として免職の書類に署名する経緯が、都築の伝記や当時の新聞記事、医学雑誌の関連する内容の論文の引用とともに、下巻の359-373頁にかけて独立の一章を立てて事細かに語られているのである(「第六部第七章「都築甚之助の臨時脚気病調査会委員罷免」)。
上巻442頁、下巻620頁もある大部のうえに、登場人物も多く、内容も多岐にわたるので、読む際には下巻末尾の、著者みずからが全巻の内容を驚くほど要領よくまとめた「話のあらまし」にまず目を通して話のおおよその骨格を頭に入れておいてから本文に取りかかったほうがいいかもしれない。
(仮説社 1988年3月)
▲鴎外森林太郎には、「洋学の盛衰を論ず」(明治35・1902年)という、日清戦争後でさらに2年後には日露戦争を控えた当時の日本の、もはや西洋の学問は不要、もしくは西洋の文明には科学や技術においてはまだ追いつけていないが精神は日本のほうが優れているなどと断言する類の偏狭固陋な国粋主義風潮を批判した講演がある。
“苟も我の学問技術にして、明かに彼を凌駕するに非る限は、洋語の読書会話は猶学術伝承上の必要あらん”
“坪内(逍遥)氏は今後の洋行者は定見を持して往くと曰へり。此定見をして有用ならしめんと欲せば、これをして少なくとも欧洲学者の見地と同等ならしめ、若くはこれに超越せしめざる可からず。予の単に自家の実験を語るを許されん乎。予の留学生仲間は、洋行中始より自家の見を立てゝ動かざりし者は、帰郷後の学問上成績小に、洋行中先づ己を虚しくして教を聞き、久しきを経て纔に定見を得し者は、帰郷後の成績大なりき。予の如きは固より言ふに足らずと雖、始て欧洲に入りし時は、宛も所謂椋鳥の都に入りし如くなりき。而して今に至るまで毫もこれを悔ゆることなし”
以前に読んだ時には鴎外の精神的な柔軟性や視野の広さの現れだと思ったが、板倉氏の『模倣の時代』を読んだ後ではただの西洋第一主義者の盲目的な西洋礼賛の言に思えてきた。
鴎外は、脚気問題において、西洋の学説と異なる日本人の主張は頭から間違いだと決めつけた。彼は西洋人の意見はいついかなる場合も絶対に正しいと信じていたからである。しかし脚気はアジア固有の病気で西洋の医学者の注意をほとんど引かず、わずかになされた研究も感染症説(細菌原因説)に立つものだった。
また鴎外は、日本人の能力など西洋人の模倣がせいぜいで、それを超えた独創的な研究や発明など絶対にできないと思いこんでいた。だから彼は日本人が唱える栄養不良原因説を、たとえ実験データがそれを支持していても、「そんなことはありえない」として認めることができなかった。つまりそれは当人がまさに権威を無条件に信仰する人間で、西洋人学者の模倣しかできず、独創性というものに欠けていたからである。森鴎外という人は、結局は学校秀才でしかなかったのだろう。
だから「かのやうに」の印象も変わった。あれは単に処世術レベルの話らしい。
●日清・日露戦争において兵士に脚気にかかって死亡する者が多かったのは、軍隊の主食が白米だったことによる。明治維新後、精白した白米の価格が下がって入手しやすくなったため、日本では脚気が流行するようになった。江戸時代からの漢方の知識によって麦飯を食べれば脚気は治ることが知られていたので、明治25年ごろには軍隊内での脚気はほぼ見られなくなっていた。ところが陸軍軍医本部や東京大学医学部の教授たちは脚気を感染症であると考え、栄養学的に麦入り飯が白米より優れているという根拠は全くないとして、野戦衛生長官石黒直悳は日清戦争で戦地へ白米を送った。戦後石黒の後任として日露戦争時の野戦衛生長官となった小池正直は脚気と麦飯とは原因上関係があることを認めたが、森林太郎(鴎外)は、「日本陸軍および海軍の脚気減少は、伝染病特有の流行期の変動による自然現象であって兵食改善等の結果ではない」と強硬に反対した。おそらく森の反対が原因で日露戦争でもやはり兵士の主食には白米が用いられ、大量の脚気病患者が発生した。森は戦後、臨時脚気病調査会の会長になるが、この立場を変えず、「麦飯や玄米は脚気に効く」と主張する軍医を首にしたりした。「ドイツの偉い医学者たちの認めていないような説は認めるわけにはいかない」というのが森の考え方だった。
“脚気は白米を食べる東洋人特有の病気だったので、欧米の学者たちは脚気のことにはほとんど関心がなかったのです。(略)ビタミンは本当は日本の医学者たちによって発見されてもよかったのに、日本の秀才医学者たちは、欧米の偉い学者たちのうしろにつくことばかり考えていて、その大発見の好機を逃がしたというわけです” (80頁)
この書の骨子はほぼ2月14日欄で書いたこの通りだが、関連事実の紹介と事態の全体像の構築があきれるほど堅牢である。たとえば、森林太郎が首にしたという軍医の名は都築甚之助であるが、森は、都築を免職しようとする調査会内部の動きをすくなくとも制止しようとせず最終的には会長として免職の書類に署名する経緯が、都築の伝記や当時の新聞記事、医学雑誌の関連する内容の論文の引用とともに、下巻の359-373頁にかけて独立の一章を立てて事細かに語られているのである(「第六部第七章「都築甚之助の臨時脚気病調査会委員罷免」)。
上巻442頁、下巻620頁もある大部のうえに、登場人物も多く、内容も多岐にわたるので、読む際には下巻末尾の、著者みずからが全巻の内容を驚くほど要領よくまとめた「話のあらまし」にまず目を通して話のおおよその骨格を頭に入れておいてから本文に取りかかったほうがいいかもしれない。
(仮説社 1988年3月)
▲鴎外森林太郎には、「洋学の盛衰を論ず」(明治35・1902年)という、日清戦争後でさらに2年後には日露戦争を控えた当時の日本の、もはや西洋の学問は不要、もしくは西洋の文明には科学や技術においてはまだ追いつけていないが精神は日本のほうが優れているなどと断言する類の偏狭固陋な国粋主義風潮を批判した講演がある。
“苟も我の学問技術にして、明かに彼を凌駕するに非る限は、洋語の読書会話は猶学術伝承上の必要あらん”
“坪内(逍遥)氏は今後の洋行者は定見を持して往くと曰へり。此定見をして有用ならしめんと欲せば、これをして少なくとも欧洲学者の見地と同等ならしめ、若くはこれに超越せしめざる可からず。予の単に自家の実験を語るを許されん乎。予の留学生仲間は、洋行中始より自家の見を立てゝ動かざりし者は、帰郷後の学問上成績小に、洋行中先づ己を虚しくして教を聞き、久しきを経て纔に定見を得し者は、帰郷後の成績大なりき。予の如きは固より言ふに足らずと雖、始て欧洲に入りし時は、宛も所謂椋鳥の都に入りし如くなりき。而して今に至るまで毫もこれを悔ゆることなし”
以前に読んだ時には鴎外の精神的な柔軟性や視野の広さの現れだと思ったが、板倉氏の『模倣の時代』を読んだ後ではただの西洋第一主義者の盲目的な西洋礼賛の言に思えてきた。
鴎外は、脚気問題において、西洋の学説と異なる日本人の主張は頭から間違いだと決めつけた。彼は西洋人の意見はいついかなる場合も絶対に正しいと信じていたからである。しかし脚気はアジア固有の病気で西洋の医学者の注意をほとんど引かず、わずかになされた研究も感染症説(細菌原因説)に立つものだった。
また鴎外は、日本人の能力など西洋人の模倣がせいぜいで、それを超えた独創的な研究や発明など絶対にできないと思いこんでいた。だから彼は日本人が唱える栄養不良原因説を、たとえ実験データがそれを支持していても、「そんなことはありえない」として認めることができなかった。つまりそれは当人がまさに権威を無条件に信仰する人間で、西洋人学者の模倣しかできず、独創性というものに欠けていたからである。森鴎外という人は、結局は学校秀才でしかなかったのだろう。
だから「かのやうに」の印象も変わった。あれは単に処世術レベルの話らしい。
板倉聖宣『模倣の時代』(上下、仮説社、1988年3月)がもうすぐ入手できる。それに備えて鴎外教の世界を一瞥しておく。ざっとこんなものか。
『模倣の時代』については以下の紹介を参照されたい。
http://www.isc.meiji.ac.jp/~sano/htst/History_of_Science/Itakura/Itakura_mohou.htm
(講談社 1971年5月)
『模倣の時代』については以下の紹介を参照されたい。
http://www.isc.meiji.ac.jp/~sano/htst/History_of_Science/Itakura/Itakura_mohou.htm
(講談社 1971年5月)