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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

企画展 「日本の博物図譜 十九世紀から現代まで」

2017年04月14日 | 自然科学
 https://www.kahaku.go.jp/research/db/zufu_db/kikakuten.html

 書籍化して出版されたものを閲覧する。すべてが原色カラーというわけではない。しかし多くそうであり、眼福かつ勉強となった。ざっと見の感想だが、やはり明治時代以前と以後では、写実性(すなわち方法とその背後にある思想のせ)において差異が、ありていに言ってしまえば博物画としての技術な水準に差があると思える。明治以前の蘭学・洋学学習と明治以後の近代専門教育の差の現れといっていいのかどうか。

盧嘉錫総主編 『中国科学技術史』 16 杜石然主編「通史巻」

2017年03月11日 | 自然科学
 原題:卢嘉锡总主编『中国科学技术史』16 杜石然主编「通史卷」

 同じ主編者の『中国科学技術史』(1982)から骨子はあまり変わっていない。あるいは思想的には(思想の徒の当人がどう自己認識していようと科学や客観的事実はその有無すら思想と主観的な価値による判断に従属するという思想)、基本的には侯外廬主編『中国思想通史』と基本的に同じといっていいかもしれない。だが哲学・思想的な産物として同類に属する後者と比べるとき、この書においては前者と同じくアヘン戦争以後辛亥革命・五四運動時期まで叙述が延長されていることが、科学技術史の通史としては大きな成果なのかもしれないと、再読(?)したいまにして、そう思わないでもない。

(北京 : 科学出版社 2003年1月)

本川達雄 『ウニはすごい バッタもすごい』

2017年03月07日 | 自然科学
 出版社による紹介

 著者もすごい。大学での講義をもとにしたものらしいが、「おわりに」によれば、授業時間の最後に、その回とりあげた動物の『褒め歌』をうたっていたとのことで、それらが各章の終わりと巻末とに採録されている。楽譜つきのものもある。「作詞作曲:本川達雄」とある。ノリがおかしい。

(中央公論新社 2017年2月)

北原和夫 『プリゴジンの考えてきたこと』

2017年03月01日 | 自然科学
 これまで見て来たように決定論的と思われていた物理学の法則の中に、確率的要素が含まれていることが明らかになってきた。しかし社会科学においては十九世紀の自然科学の影響を受けて、客観的因果関係を追及する方法が主流になってきている。しかしこれからの社会科学は、むしろ人間という観測主体の存在も考慮に入れた判断・決定、つまり予測・価値を含んだ科学の方法をとり入れることが必要になるのではないか。〔中略〕自然科学と人文科学の統合こそ、プリゴジンの若き日の思いであった。 (「7 まとめとして」本書107頁)

 これはいろいろむずかしい問題提起だなと感じられる。これは、下手をすると、例えば本来社会科学ですらない歴史学が、「十九世紀の自然科学の影響を受けて」「客観的因果関係を追及する」のはまだよいが、それが十九世紀の自然科学の水準のままで、しかもそこに加えて、十九世紀すら否定してそれ以前の段階へ戻ろうとする面もないではない二十一世紀の人文科学にもまた引きずられ、その結果、「人間という観測主体の存在も考慮に入れた判断・決定、つまり予測・価値を含んだ科学の方法をとり入れる」途を選んだら、これは大変恐ろしいことになると、私などには思えるからだ。

(岩波書店 1999年4月)

"The Cambridge History of Science", Vol. 4, 'The Eighteenth Century'

2016年09月14日 | 自然科学
 出版社による紹介。

 '29 China' (Frank Dikötter)に関して。
 考証学を初めとする清代の「実証的」で「客観的」な学術を、明末にイエズス会がもたらした西洋科学・技術の影響によると断定してある。その論拠かつ先行研究としては、 Benjamin A. Elmanの"From Philosophy to Philology: Intellectual and Social Aspects of Change in Late Imperial China" (Univ of California, 1984)を挙げてある(p. 682)。そこで第2版ながら該書を検してみたところ、その影響が具体的に見える地理学・天文学・暦学・数学などについてはそう書かれているが、漢学即ち考証学そのものについてそう言っているわけではない(注)。すわこれは大変と期待してあてがはずれた。従来のやり方で証拠を得るのは無理。

 注。しかも版が違うせいか該当する議論の部分が注で指定された頁とは違っており、互いに離れた数頁に散在していた。

(Cambridge University Press, 2003)

柴垣和三郎訳 『数学における発見はいかになされるか 第1巻 帰納と類比』

2016年07月17日 | 自然科学
 ポーヤ・ジェルジ著。

 一般化と特殊化の概念にはあいまいな,あるいは不審な点は少しもない.ところが類比のことを論じ始めるときは,あまりしっかりとしていない地盤の上に足を踏み入れるのである.
 類比〔引用者注。analogy〕は一種の相似である.つまり比較的一定なかつ比較的概念的な水準の上での相似である,といえばいえるだろう。〔略〕もし,あなたがその一致する面をはっきりとした概念にまで縮約しようと思うなら,あなたはそれらの相似なものを類比であるとみなすわけですね.
 (「Ⅱ章 一般化,特殊化,類比 4 類比」本書13頁)

 うら若い婦人を花にたとえるとき,詩人は何か相似を感ずるのでしょうね.がふつうは類比は予期しないのです.事実,彼らは,情緒的水準をはなれたり,その比較を何か測定可能なものあるいは概念的に限定できるものに縮約しようとすることは,ほとんどないのです. (同上、13-14頁)

 ここからわかるように、著者は“相似”という語を、数学(におけるそれのような、厳密な定義をもった言葉として使っているわけではない。「お互いに似ていること」という程の、ごく一般的な意味において使用している。

 二つの系は,もしそれらがそれぞれの部分の明白に定義できる諸関係において一致するならば,類比である.  (同上、14頁)

 要するに、詩人の婦人=花のたとえが直観によるように、類比のもとになる相似は、「証明的ではない」(注)。
 
 。本書同章「7 類比と帰納」における、ジャック・ベルヌイの発見にたいするオイラーの信頼の論拠についての形容。23頁。

(丸善 1959年1月)