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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

シュロモー・サンド著 高橋武智監訳 『ユダヤ人の起源 歴史はどのように創作されたのか』

2013年01月19日 | 西洋史
 佐々木康之/木村高子訳。

 なるほど面白い。「ウイグル人の歴史5000年」などと声高らかに唱える類は、著者の爪の垢を煎じて服んだらどうか。その粗末な頭に利くかどうかは知らないが。

(武田ランダムハウスジャパン 2010年3月第1刷 2010年5月第2刷)。

クリストフ・ビュヒ著 片山淳子訳 『もう一つのスイス史: 独語圏・仏語圏の間の深い溝』

2013年01月16日 | 西洋史
 テーマについて、著者の主観がやや強く出ていると感じられなくもないが、知識のない身にはこの国と国民の通史としても、面白い。 勉強のつもりで読んだ。
 米国で働いていた職場では、スイス人の同僚(米国在住)がいたが、その女性は、スイスの国語はすべて解るといっていた。ドイツ語圏の出身だが、フランス語もイタリア語も話せるとのことで、もちろん英語もネイティブ並みにできた。ただロマンシュ語は、聞いてわかるが話せないとのことだった。余談として。

(刀水書房 2012年9月)

ポチェカエフ 『オルドのツァーリたち ジョチ・ウルスのハーンと実権者たちの伝記 第2版』

2012年09月26日 | 西洋史
 原題 Почекаев Р.Ю. - Цари ордынские. Биографии ханов и правителей Золотой Орды. 2-е изд.

 オルドは黄金のオルド=金帳ウルス、即ちジョチ・ウルス(キプチャック・ハン国)のこと。その代々のハーンあるいはハーン号を名乗らなかったが実質的なハーンの地位を占めていた者の列伝。大部で464頁もあって、とても詳しい。注と引用・参考文献も完備しており、学術書である。とりあえず、ママイの伝を熟読した。いうまでもなくママイは、チンギス・ハーンの男系子孫ではなかったため、ハーン位に就けなかったが、実質的には黄金のオルドを一時期支配した人物である。この書によると、チンギス・ハーンの又従兄弟にあたるキヤト・ジュルキン氏族のサチャ・ベキの子孫だという(注415に引くレフ・グミリョフの説)。
 なお「オルドのツァーリたち」というタイトルは奇を衒ったものではない。ロシア語(史)では、ツァーリ(царь)とハーン(хан)は通用する。これをどう説明するかで、もともとローマ(東)帝国の皇帝を意味したツァーリが次にハーンをも意味するようになったという説が一般的であるが、もともとハーンを示すロシア語だったという説もある。この書では冒頭解釈が示してあり、元来はローマ(ビザンチン)皇帝(インピラートル、バシレウス)を示すロシア語における言葉だったが、1204年の一時滅亡、その後の半世紀におよぶ皇帝ひいては帝国不在の混乱にくわえ、強大なモンゴル帝国の来襲、その占領という未曾有の新事態を迎えて、ツァーリ царь という概念――天の帝という意味――の対象が、より切実に接しより強大なモンゴル(ジョチ・ウルス)のハーンへと移ったという説明が行われている。
 
(СПб.: Евразия, 2012.)

サビロワ 『タタールスタン史 古代から現代まで』

2012年07月11日 | 西洋史
 ロシア語原題『Сабирова Д.К. - История Татарстана с древнейших времен до наших дней』

 教科書(大学初年級用?)だから仕方がないと言えば仕方がないのかもしれないが、叙述にあたって出典がほとんどない。巻末に参考文献リストもないし、史料紹介もない。索引も、人名・事項ともに、ない。
 これだけでも萎えるが、もっと萎えたのは「導言」で、“弁証法”やら“歴史の発展段階”やら“世界史の法則”やら、といった大時代な言葉がぼんぼん飛び出してくることだった。その結果タタールスタンの歴史のはずなのに、世界史の話が途中でやたらに出てくる、分厚さ(352ページ)の割に退屈なこの本は、買って損をした。

(М.: КноРус, 2009.)

ヴラジーミル・ルダコフ 『13-15世紀古代ロシアの文書資料にみるモンゴル・タタール人』

2012年05月24日 | 西洋史
ロシア語原書名:Рудаков В. - Монголо-татары глазами древнерусских книжников середины 13-15 вв.

 モンゴル帝国に対し、敗者から勝者となった同時代のロシア人(ルーシの民)の目に映るモンゴル人とテュルク人(=タタール人)は、終始一貫、異教徒であり、野蛮であり、邪悪であり、悪魔であり、というものだった。著者もその“ダイナミズムのなさ”に呆れている(「Введение〔序論〕」)。
 しかし文献はリアルタイムからやや遅れて書かれるものだから、これは“認識”というより“記憶”ではないのか。整理され、潤色された、記憶あるいは“物語”。

(Москва: Квадрига, 2009)

B.ファリントン著 出隆訳 『ギリシヤ人の科学 その現代への意義』 上下

2012年03月29日 | 西洋史
 〔・・・〕トマス・ヒース卿は、その基準的〔スタンダード 原文ルビ〕な大著『ギリシャ数学』(Sir Thomas Heath, Greek Mathematics, Oxford, 1921, Vol. I, pp. 3-6)において、「ギリシャ人は数学に対してそのような特殊な才能を持っていたか?」と自ら問い、なんの躊躇するところもなく自らこれにこう答えている、「この問いに対する答えは、要するにただ、かれらが数学の天才であったのはかれらが一般に哲学の天才であったことの一側面たるのみ、というにある。・・・・・ギリシャ人は、古代の他のいかなる民族よりもぬきんでて、知識をただ知識それ自らのために求める純粋な知識愛を所有していた。・・・・・さらに一そう本質的な事実はギリシャ人が一つの種族として思索家〔原文傍点〕であったことである。」 (「第一章 ギリシャ科学は近東の古代諸文明になにを負うか――技術と科学」、本書8頁)

 「われわれは、今日では、この見解を承認しえないものと認めている」と、著者は「その合理的思惟の能力において他のいずれの民族ともちがっていた」というヒースの結論を否定するのだが、だが、それではなぜギリシャ人は今度は歴史的事実として残るギリシャ人の合理的思惟の能力とその結果(科学的業績)が、「その合理的思惟の能力において他のいずれの民族ともちがっていた」のかを、この書で説明できていない。たといそれがまったくの独創でなく他から教えられたものであったにせよである。ではその教えた者がそれをギリシャ人のように、あるいは以上に、発達させえなかったのは何故かという問い。
 たしかにその理由あるいは原因を民族的人種的あるいは本質的議論に求めるのは不適であろう。著者がいみじくも指摘するように、「ギリシャ民族は純粋な一種族ではなくて混血民族」であったからである。
 しかし、「ギリシャ人は数学に対してそのような特殊な才能を持っていたか?」に対する答えを――問いの対象を科学一般にまで拡大してさえも――、「知識をただ知識それ自らのために求める純粋な知識愛を所有していた」ことに求めるのは、今日でも十分に有効な答えへの道しるべではなかろうか。著者に従い「古代の他のいかなる民族よりもぬきんでて」だったかどうかは別にして。またヒース卿のこれも言葉を借りれば、「一般に」、そう概して、例外の存在はもちろん認めつつ。知識愛のないギリシャ人ももちろん、それもおびただしくいたであろうし、その反対に知識愛に富む非ギリシャ人もまた数多いたであろう。ただしそれが結果、割合として知識愛のあるギリシャ人の数が知識愛のある非ギリシャ人に勝っていたのか、あるいは知識愛を受容する文化がギリシャに強く他文明・地域ではそうでなかったのか、それともいまだ解明されていない要素によってギリシャでのみ他の追随をゆるさぬ数学や科学や合理的思惟が発達したのか。それは判らぬ。

(岩波書店 1955年4/8月第1刷 1991年9月第13/6刷)

泉井久之助/岩田義一/藤沢令夫訳 『世界古典文学全集』 21 「ウェルギリウス ルクレティウス」

2012年03月20日 | 西洋史
 2012年03月13日「出隆/岩崎允胤訳 『エピクロス 教説と手紙』」から続き。ルクレチウスの原典を読む。彼の神の存在を認める無神論とはこのようなものだ。

 それゆえ精神のこの恐怖と暗黒とを追いはらうものは 
 太陽の光線でもなく、白日の輝く矢でもなくて
 自然の形象とその理法でなければならない。
 それの原理を私たちはこのことからはじめなくてはならない、すなわち
 無からはたとえ神意によっても何物も生れないということ。
 まことに恐怖が死すべきものどもすべてを捕らえて離さぬのも
 地上と天上において見られる多くの現象が、
 その原因をなんとしても知ることができずに
 神々の意思によってなれると信じられているからである。
 それゆえ無からは何物も生じえないことを知るなら、その時は、
 私たちが探究しているものをすでにより正しく、これからは 
 見きわめることになるだろう。すなわち物はそれぞれ何からつくられ、
 どんなふうにして、万事は神々の働きなしに生じうるかを。 

  (岩田義一/藤沢令夫訳「事物の本性について 宇宙論」第一巻 146-158、本書294頁)

 ルクレチウスがエピクロスと異なっているのは、観察不可能なものについて臆測で断定しないという態度が徹底しないところである。古代社会の有様など、自身で見られたはずのない事柄を、まるで見てきたかのように描いている。詩人であり詩であるからというジャンルや文体上からの説明は当然ありえるであろうが、唯物思想――神秘主義の否定および原子論、徹底した自然の観察と客観的証拠の重視――を論じる作品の性格以上、その不徹底さは精神と思惟のそれをも示すものと考えざるを得ない。
 さらに、これは本書巻末の「解説」で訳者の一人藤沢氏も述べておられることだが、ルクレチウスの筆致にはすくなからず飛躍があって、論理が追いにくい。「それゆえ」とか「かくして」という接続詞を彼は多用するのだが、「すぐ前で言われていた事柄の続きからだけ考えれば、何が『それゆえ』であり『かくして』であるのか、皆目わからないことがよくある」(「解説」461頁)。さしずめ、上で引いた段落の最初の「それゆえ」など、まさしくその部類に入ろう。
 私はこの作品を通読していて、どうも文意がつかみにくくまた読みづらいと感じたが、おそらくはこの理由によるのであろう。そしてさらに付け加えるとすれば二つ、一つは、ルクレチウスが本来何物かを指すべき代名詞をしばしばその名詞より先に使用する点、二つ目は、その代名詞自体を多用することで、すくなくとも日本語訳では文体がやや弛緩冗長に陥りがちだという点もまた、その理由として挙げることができようか。これら二点についても、上掲段落から読者は容易に窺うことができると思う。

(筑摩書房 1965年6月第1刷 1983年1月第4刷)

出隆/岩崎允胤訳 『エピクロス 教説と手紙』

2012年03月13日 | 西洋史
 物理学者ウィリアム・ヘンリー・ブラッグ(1862-1942)は、ローマ時代の原子論者ルクレチウス(前1世紀)の同名の詩を慕ってつけた「宇宙をつくるものアトム」(講演)のなかで、ルクレチウスの原子論の欠点は、アトムは無数にあるわけではなく、わずか数種しか存在しないこと、とくに同種のアトムは全く同じであることを知らなかったことだと、指摘している(国分一太郎/亀井理編訳『宇宙をつくるものアトム』国土社、1965年3月)
 その誤りは、ルクレチウスが先達と仰ぐギリシャ時代の原子論者エピクロス(前4-3世紀)から引き継いだものだった。「ヘロドトス宛の手紙」、「4 原子の形状の相違」(本書14頁)。
 行き着くところが無神論であることも同じ。唯物論はとどのつまりは一切の神秘の否定(たとえば人間の霊魂をも原子から成る自体的=物質的存在とする)であり、神ですら実体、「不死で至福な生者」、人間生活とは何の関わりもない存在だと言うだから(「メノイケウス宛の手紙」本書66頁)。すなわち通常の意味でいうところの無神論に等しいであろう。
 いま一つエピクロスで驚嘆すること。観察可能なものと不可能なものを識別し、後者については、臆測で断定してはならないとしており、自身も、後者に言及する場合(自然現象や天体の運動について)には「ありうる」「可能性がある」と、決して断定しないところ。「ピュトクレス宛の手紙」、「5 月」(本書48頁)。

(岩波書店 1959年4月第1刷 1996年7月第27刷)

テリー・マーチン著 半谷史郎監修 『アファーマティヴ・アクションの帝国』

2012年03月02日 | 西洋史
 荒井幸康/渋谷謙次郎/地田徹朗/吉村貴之翻訳。塩川伸明解説。
 副題「ソ連の民族とナショナリズム、1923年~1939年」。

 ソ連は、途中多少揺れはしたものの、結局最後まで国民国家を作るつもりはなかったという指摘。“ソ連人”は多分にレトリックに過ぎなかったということである。だから“帝国”であって、当たり前といえば当たり前なのだが。(世界一の帝国である米国でさえ、もうとうに諦めている。)だが同時に、残る帝国の中国がどうしてあそこまで中華民族の創出(=漢民族への同化)に執着するのかという疑問が、いまさらながらに湧く。これは政治や経済の問題ではなく歴史・文化の範疇、すなわち歴史学者や文化人類学者ほかの人文科学者が探究すべきテーマではなかろうか。
 ところで中央アジア関係の章でセルゲイ・マローフについて何か出てくるかと思ったが、なし。
 
(明石書店 2011年5月)