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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

ラヒムジャーノフ 『カシモフ・ハーン国(1445-1552)歴史概論』 ③

2010年11月04日 | 東洋史
 2010年10月29日「ラヒムジャーノフ 『カシモフ・ハーン国(1445-1552)歴史概論』②」より続き。 

 かなり通説と違うことが書いてあるので、丹念に読み込まねばならない。
 先ず、ラヒムジャーノフは、成立当初のカシモフ・ハーン国は、モスクワ大公国の属国ではなかったという。なぜなら、モスクワ大公国の当時の公ヴァシーリー二世(イヴァン三世の父)は、即位にあたりウルグ・ムハンマド(繰り返すが黄金のオルダ・ハーンにしてのちカザン・ハーン国初代ハーン)から任命を受けているからである。つまりモスクワ大公国のほうが属国であった(注1)。のちカシモフと呼ばれることになるメシェーラの地をモスクワ大公国から割譲させたのはウルグ・ムハンマドである。その息子カースィムがハーンとなってその地に建てたカシモフ・ハーン国が、どうしてモスクワ大公国の属国なのかという論理である。たしかにのちのち次第に従属度が増し、最後にはロシアの一郡として吸収されてしまうが、成立当初からしばらくの間はそうではなかった(注2)というのが、この書におけるラヒムジャーノフの第一の主張である。
 
注1 「1432年のモスクワ大公即位にあたり、ヴァシーリー二世は、ウルグ・ムハンマド・ハーン(ツァーリ)の手から、モスクワで君主たるべしとのヤルルィク〔引用者注・勅書〕を受けた。」(「ハーン国の形成と樹立」本書56頁)。
 この事実については、手持ちの関連文献には言及がない。ちなみに、ラヒムジャーノフは明記していないが、この時期まだカザン・ハーン国はまだ成立しておらず、ウルグ・ムハンマドはカザン・ハーンでなく黄金のオルダ・ハーンとしてヴァシーリー二世をモスクワ大公に任命したこということになる。因みに、モンゴル帝国のハーンはロシア語ではツァーリと呼ばれる。というより、「ツァーリ」は元々モンゴル語やトルコ語の「ハーン」を意味する言葉であった

注2 たとえば Azade-Ayse Rorlich『The Volga Tatars』は、カシモフ・ハーン国そのものついてほとんど言及がなく、モスクワ大公国の属国(a client)であったというくらいの記述しかない("The Kazan Khanate", p. 25)
 Charles J. Halperin の『Russia and the Golden Horde: the Mongol impact on medieval Russian history』(Indiana Univ Pr; Reprint, Jul. 1987)においても事情はほとんど変わらず、"the Muscovite client state of Kasimov"や"The Kasimov Tatars were in fact vassals of the Muscovite grand prince"など(p. 29, ほかp. 59 および p. 109)、『The Volga Tatars』と同様の概括的な形容がなされているのみである。両著とも、時系列的に同国の性格の変遷について分析を行ってはいない。

(Казань: Татарское книжное издательство, 2009)

オーウェン・デニー著 岡本隆司校訂・訳注 『清韓論』

2010年09月17日 | 東洋史
 「東北アジア文献研究叢刊」4。

 2009年11月12日「Alan W. Fisher 『The Crimean Tatars』」で触れた『清韓論』の原文。原題 China and Korea, by Owen Nickerson Denny.
 「中央日報」のコメント欄に書き込む人々(嫌韓・反日)は、せめてこの「清韓論」や著者の諸研究を読んでから騒げと思うのだが。“属国自主”とは何であったか。まあ別に解らなくてもいいけれど。

(東北アジア文獻研究会 2010年2月)

サリャム・ハトィポーヴィチ・アリシェフ 『13-16世紀ボルガル及びカザンと黄金のオルダの関係』

2010年06月16日 | 西洋史
原書著者名および題名: Салям Хатыпович Алишев 『Болгаро-казанские и золотоордынские отношения в XIII-XVI вв』

 タタール人(ヴォルガ・タタール人あるいはカザン・タタール人)の起源については、Azade-Ayse Rorlich『The Volga Tatars』とほぼ同じく、折衷説。ただ、黄金のオルダの影響も考慮に入れている点、従来の折衷説として新味がある。あるいはより徹底したものといえる。というのは、著者の結論は、「(カザン)タタール人とはブルガール人・キプチャク人・バシキール人・チュヴァシ人・フィノ=ウゴル人ほか、当時のカザン・ハーン国に居住していたすべての部族や民族の融合したものである」(要約)というものだからだ(153頁)。ちなみに著者は、キプチャク人、すなわちキプチャク・ハーン国のテュルク系民族及びモンゴル人を現在のヴォルガ・タタール人の祖先の一派と正式に認める事により、政治的理由によって同民族の祖先研究においてモンゴル帝国に関係する要素を一切排除するというソ連時代の思想統制の残滓を一掃している。これでヴォルガ・タタール人の起源論争における選択肢はまず出尽くしたわけであるが、これ以上は、もはやDNA検査でも導入しないと、文献史学・考古学、あるいは文化人類学をここに加えてもよいが、歩を進めるのは困難ではないか。

(Казань: Татарское книжное издательство, 2009)

Azade-Ayse Rorlich 『The Volga Tatars』

2010年01月16日 | 東洋史
 副題「A Profile in National Resilience」。

 ヴォルガ・タタール人の先祖について、本書は、ブルガール人(7世紀)説、キプチャク人(13世紀)説、そしてその折衷のブルガール・キプチャク説が存在することを挙げて、三者間に論争があることを記しているが、断定は避けている。ただ、最後のブルガール・キプチャク説を(そのなかでもブルガールの伝統を強調するものと、後来のキプチャクの影響を重視するものとの二系統があるが、そのどちらかに軍配を上げることはしないで)、「説として一番、時の試練と論争とに耐えるであろう」('Origins of the Volga Tatars', p.9)という言い方で支持している。

●『ウィキペディア』「タタール人」項から抜き書き。

 タタールという名は、もともとキプチャク・ハン国支配期のロシア人によって東方・南方の草原地帯に住むモンゴル帝国のモンゴル系・テュルク系の人々を漠然と指す民族名称であったのが、ロシア帝国の拡大とともにロシア支配下の旧キプチャク・ハン国系のテュルク系ムスリム(イスラム教徒)の人々を指す語に転じ、やがて自称としても用いられるようになったものである。
 もともと他称的な総称であるため、タタールと呼ばれる人々は広い分布範囲の中でいくつもの集団に分かれており、おおよそ居住地域によってカザン・タタール人、カシモフ・タタール人、シベリア・タタール人、アストラハン・タタール人、クリミア・タタール人、リトアニア・タタール人などに区分される。この中でも最大の人口を持つのはカザン・タタール人を中心にロシア連邦内の国、タタールスタン共和国を形成するヴォルガ・タタール人であり、単純にタタール人と言った場合は多くヴォルガ・タタール人を指す。

 「タタール人」という言葉自体の意味する内容が、そもそも広すぎるのである。「ヴォルガ・タタール人」でもまだ広すぎる。ではカザン・タタール人以外のヴォルガ・タタール人は、一体何なのか。

 ヴォルガ川中流地方を原住地とするヴォルガ・タタール人は、カザンを首都とするタタールスタン共和国を中心に、ロシア連邦の各地に住む民族である。統計上の総人口はおよそ550万人で、ソ連崩壊後のロシアにおいてロシア人に次ぐ第2位の人口を有する。ただし、クリミア・タタール人以外のタタール人はみなヴォルガ・タタール人と同じタタール人として計上しているためヴォルガ・タタール人単独の数値ではない。

 「タタール人」が「ロシア支配下の旧キプチャク・ハン国系のテュルク系イスラム教徒」を指す普通名詞であるのと同時に、「ヴォルガ・タタール人」は、「歴史的にヴォルガ中流域地方、主として現在のタタールスタン共和国の領域に居住、あるいは本人もしくは先祖が生まれた、ロシア支配下の旧キプチャク・ハン国系のテュルク系イスラム教徒」というほどの意味でしかない。

 ロシア革命では、ムスリム諸民族を統合した連邦をつくりソビエト国家の枠内での自治を実現しようとするタタール人共産主義者ミールサイト・スルタンガリエフらが活躍したが、ロシア人主体のソビエト政権は民族ごとの自治領域を設定してムスリムを民族ごとに細分することにし、1920年にタタール人の自治領域としてタタール自治共和国が現在のタタールスタン共和国の地に建設された。
 また、ロシア帝国の末期頃から、ヴォルガのタタール人はブルガール人の末裔であると主張して、ブルガール人の自治実現を目指す動きも起こっていたが、タタール自治共和国の建設ともにこれまで漠然とタタールと呼ばれていた人々をまとめて指す民族名としてタタール人という名が公式に設定され、ヴォルガ・タタール人のみを指すブルガールの民族名は否定された。その後、ソ連末期に比較的大きな人口を持つクリミア・タタール人がタタール人と別民族であることを認められたが、現在もその他のタタールはタタールと総称されたままである。

 タタール人よ、お前もか。

(Hoover Institution Press, U.S., 1986)

Alan W. Fisher 『The Crimean Tatars』

2009年11月12日 | 西洋史
 クリミア・ハーン国は1475年以後も、オスマン帝国の属国(vassal state)ではなかったという主張。属国らしからぬ大幅な特権(prerogatives)が認められていたからというのがその根拠だが、その中には内政の自由のみならず、外交上に渉るものもある(例えばロシアやポーランドとの独自の外交関係、ロシアからの貢納金の徴収など)以上、クリミア・ハーン国は主権国家だったというのが著者の結論である。
 その当否はしばらく措く。
 著者の描き出すオスマン帝国とクリミア・ハーン国の関係のあり方は、東アジアにおける例えば清と朝鮮との関係のような、いわゆる冊封体制下における宗主国と藩属国(tributary state)のそれに極めて相似している。当時(19世紀末)の言葉を使えば“属国自主”というあり方である。米国人のオーウェン・デニーが『清韓論』(1888年)で、同様の主張を展開している。

(Hoover Institution Press, California, June 1978)