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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

もともとは民間の歌曲を採集する役所を意味した「楽府」が、やがて・・・

2018年04月07日 | 思考の断片
 もともとは民間の歌曲を採集する役所を意味した「楽府」が、やがてその収集された歌曲を意味するようになり、さらに下ってはその歌曲とおなじ形式あるいは題名で新たに作られる詩歌(曲は失われたため)をも意味するようになったという変遷は、我が国現代の「携帯電話」から「携帯」への変化を、似て非なるながら思い起こさせてじつに興味深い。
 「楽府」の意味の変遷は、伝統的な語彙を使えば「引申」ということになるだろうが、もうすこし分析的に言えば(あるいは現代漢語の修辞学用語を使えば)「借代」ということになろうか。
 「借代」とはおおむね提喩のことである。換喩と見なしたほうがよいものほかが例としてあげられていることもある。
 「携帯」はなんだろう。単なる省略とみることはむろん可能である。だが“携帯”という語そのものの意味が変化したとみれば(そういう感じもある)、引申もしくは借代=提喩とも取れる。「携帯電話」と「電話」の二つの概念のあいだにカテゴリーの上下関係を前提するならばである。しないなら換喩でよい。もともと提喩は換喩の一部として扱われることがある。

ヘッセとゲーテをふと繙いて、・・・

2018年04月06日 | 思考の断片
 ヘッセとゲーテをふと繙いて、なぜ彼らと少青年期にほんの僅かの縁しか持たなかったのか、ようやく判ったように思う。翻訳に違和感があったのだ。肌に合わないという個人的な好みの理由もあったし(いまもある)、なにより日本語ではこれで良いが原語ならこうではあるまいという、検しようのない違和感。私はドイツ語ができないから。英語かロシア語で読んだ方がいいかもしれない。

阮籍の「詠懷詩」は、詠懷と銘打ってあるから・・・

2018年04月04日 | 思考の断片
 阮籍の「詠懷詩」は、詠懷と銘打ってあるから『文選』が「詠懷」の条に入れるのは当然の処置として、あれをなにか(人・物・事)の比喩(寓意・寓話)として読むのは間違っているのではないか。もし言われるような生命の危険をひしひしと感じるような状況で詠まれたものであるならば、わざわざみずから自分をさらに死の淵へと追い込むような、それと見て取れる・取られるであろうたぐいの譬えを表すだろうか、いな譬えを行うことすら慎むだろう。あれは、「寒い」「辛い」「寂しい」というだけの叫び、心のメッセージではないか。あらためて通読してそう思った。

ある古典に見える「毋」という虚詞についての清人の注釈をみて、清朝考証学の基礎に・・

2018年04月04日 | 思考の断片
 ある古典に見える「毋」という虚詞についての清人の注釈をみて、清朝考証学の基礎にかなり深刻な疑惑を抱くに至った。抑もが別の古典で現代日本の学者が「毋」をその意味として注しているのを見、根拠もなしにようそんな大それた事言えるなと調べてみたところが、お先師がいてお先師もそうだったわけ。
 「毋」とは「でない」という否定を意味する語だが、べつに「語調を整えるための意味のない語」という用法もあると言う。つまり「である」と「でない」を同時に意味する語とは古代漢語において矛盾律の概念とその存在を否定しているということで、これは大変な主張なのだ。清朝考証学者がよしんばそう主な買ったとしてもまだわかるが、現代においてこれは「反訓」同様跳び上がって驚くほどの大問題ではなかろうか。

 なお、これは「毋」についてではないが、古代漢語の虚詞を説明するさいによくある、この「語調を整えるための意味のない語」という解釈は、いくら考えてもどれほど類似例を集めてもそこに共通する意味を帰納できなくて匙を投げた結果ではなかろうか。ではなぜその語がそこで使われているのか。別の「語調を整えるための意味のない」語ではないのはなぜか。それを説明できるのだろうか。

ツイッターアカウント『New China 中文』のTWを見て

2018年04月04日 | 思考の断片
 『New China 中文』 @XinhuaChinese (2018年4月3日)

  绿野仙踪在皖南等你!
  四月的安徽皖南徽州灵山,层层叠叠的油菜花竞相怒放,从山谷接连天边,延绵不断,唯美壮观。


 “皖”とは安徽省の別称で、これは別々の用途もしくは文体において、それぞれ使い分ける体のものである。雅名というのともちょっと違うようである。あるいはそれが雅名であるにせよ、“雅”という意味概念が彼我で異なるようでもある。伝統中国の官職名で何品という数字を出さない名称は我が国の漢語で雅名と謂い果せることができるか。また白居易の詩文、『長恨歌』では、唐の代わりに漢と言うが、この「漢」は「唐」の雅名か。

『荘子』「斉物論」篇の「以指喻指之非指,不若以非指喻指之非指也;・・・

2018年03月28日 | 思考の断片
 前日より続き。

 『荘子』「斉物論」篇の「以指喻指之非指,不若以非指喻指之非指也;以馬喻馬之非馬,不若以非馬喻馬之非馬也。天地,一指也;萬物,一馬也。」のくだりは、その前後のどちらによせて解するかで多少違いは出てくる(例えば『荘子集釋』は前に、『中国哲学書電子化計画』の『荘子』は後へ、繋げている)。だが現代から外在的に、また現代人であることを弁えながらそれでも当時に即そうとできるだけ内在的に努力しての、しかし要はご自身の『荘子』の“全体的な把握と理解”に基づき、しかもここだけを前後の文脈から切り離して解釈した御大御料所の説は、いずれもすこしく無理がありはしないかと感ず。
 ひとことで言って、深読みしすぎではなかろうか。文(章)そのものからはそこまで言語として情報を読み取れるか、文脈としてはそこまで考えて言って(書いて)いるだろうかと。

清の郭慶藩撰『莊子集釋』を読んで、テクスト自体の理解や内容に即した原典の・・・

2018年03月27日 | 思考の断片
 清の郭慶藩撰『莊子集釋』を読んで、テクスト自体の理解や内容に即した原典の体系的把握に資することに控えめに言っても必ずしも顧慮したものではない中世以前の注釈(近世以降もその弊は完全には免れてはいない)の通癖である所の、無意味な脱線と不要な饒舌(近代人の私には)から、望外の示唆を得た。

(しかし「コレはなにをなんのためになぜここで言っているのかわからない」ことが多いので疲れる。そう続けては読めない。そして原文を自分ひとりで読んで、ある仮説を思いついて検証してみたら、どうも外れたようだ。)

 ところで日本語でも漢語でも、まず注釈を見て、あるいは注釈を主として、本文を読むのと、専ら本文を追い、解釈に迷ったときや理解の仕方に疑問の存するときにはじめて注を見て参考にするというのは、読解にまるで違う世界が広がることを実感する。

 手元にある斯界の御大お二方による『荘子』注釈の「斉物論」篇を繙く。寛厳の差異はあるが、御両所とも、読解ののちその解釈に合わせた訓読を施して居られる。お一方など、一般向けという書の性質もあってか(両方とも文庫でそうだが)、従来の決まりきった訓読の型(定型の訓)を離れて、御自身の解釈にあわせて、また読み手の理解の便にこたえて、日本語古文の和語語彙のなかから自由に選んで読みを付けておられる。私などが僭越であるが、流石であるとしか言いようがない。

 これは宮崎市定御大が専門の論考などでもときに使用される方法で、訓読は己の原文解釈を別の言語へと移し替える作業、すなわち翻訳の一種であることを考えれば、あたりまえの行いなのだが、いつかこれを訓読としては邪道であるけしからんと批判される別の偉い先生(と言われている方)のご意見を聞いて、語学屋兼翻訳者としては腰を抜かしそうになったことがあった。若気の至りである。

 というわけで、御両所の訓読を拝読して、私の訓読とは異なる、つまり私とは解釈が異なるということが判った。漢語とは異なり日本語は詞だけでなく辞も残らず表現されるから、訓読が解釈に近づけば近づくほど個々の違いが鮮明になるということは言えると思う。

1953年生まれの偉い先生の漢文の読みを見るに、『礼記』の天下為公を・・・

2018年03月25日 | 思考の断片
 1953年生まれの偉い先生の漢文の読みを見るに、『礼記』の天下為公を「天下を公となし」と訓読するのは慣習としてまあよいとしても、鄭玄がここの公を共と注しているからと、漢代のこれを現代日本語の、英語ほかの西洋語の概念と語彙の翻訳語である「公共」と自動的に同一視しているのをみて窮矣

1回観たきりだから記憶違いもあるかもしれないが、映画『ラマン』で、・・・

2018年03月21日 | 思考の断片
 1回観たきりだから記憶違いもあるかもしれないが、映画『ラマン』で、ヒロインを金銭と引き換えで愛人にした華僑の青年が、ヒロインの二人の兄をある高級レストランでの食事へと招待する。二人は招待を受けてやってくるが、同じテーブルに付いて飲食をともにしても、会食の始まりから終わるまで、青年を徹底的に無視する。見えず聞こえず、あたかもそこにいないかのように、存在していることそのものを拒絶した。ここには人種差別もあろうが、同時に、人から人に対しての、相手を人間として認めることのまったき否定、その軽蔑の冷厳な表現でもあろうと、観て解した。どうだろう。