もともとは民間の歌曲を採集する役所を意味した「楽府」が、やがてその収集された歌曲を意味するようになり、さらに下ってはその歌曲とおなじ形式あるいは題名で新たに作られる詩歌(曲は失われたため)をも意味するようになったという変遷は、我が国現代の「携帯電話」から「携帯」への変化を、似て非なるながら思い起こさせてじつに興味深い。
「楽府」の意味の変遷は、伝統的な語彙を使えば「引申」ということになるだろうが、もうすこし分析的に言えば(あるいは現代漢語の修辞学用語を使えば)「借代」ということになろうか。
「借代」とはおおむね提喩のことである。換喩と見なしたほうがよいものほかが例としてあげられていることもある。
「携帯」はなんだろう。単なる省略とみることはむろん可能である。だが“携帯”という語そのものの意味が変化したとみれば(そういう感じもある)、引申もしくは借代=提喩とも取れる。「携帯電話」と「電話」の二つの概念のあいだにカテゴリーの上下関係を前提するならばである。しないなら換喩でよい。もともと提喩は換喩の一部として扱われることがある。
「楽府」の意味の変遷は、伝統的な語彙を使えば「引申」ということになるだろうが、もうすこし分析的に言えば(あるいは現代漢語の修辞学用語を使えば)「借代」ということになろうか。
「借代」とはおおむね提喩のことである。換喩と見なしたほうがよいものほかが例としてあげられていることもある。
「携帯」はなんだろう。単なる省略とみることはむろん可能である。だが“携帯”という語そのものの意味が変化したとみれば(そういう感じもある)、引申もしくは借代=提喩とも取れる。「携帯電話」と「電話」の二つの概念のあいだにカテゴリーの上下関係を前提するならばである。しないなら換喩でよい。もともと提喩は換喩の一部として扱われることがある。