goo blog サービス終了のお知らせ 

書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

古田敬一/福井佳夫  『中国文章論 六朝麗指』

2018年04月23日 | 文学
 出版社による紹介

 第五節「比興と六朝文」の「語釈」で“比興”の比は比喩、興は象徴にほぼ相当すると説明してある(【詩有六義】項、本書27頁)。ほぼ相当するというのはほぼ相当するだろうが、正確にはそれでいいのかという気もする。

 また、第三十五節を、古田・福井両先生のお助けを借りつつ読んで、御両所には申し訳ないながら、孫德謙(1865-1935)という人は暗記の勉強がすぎて頭が鈍くなったのではないかと思った。

(汲古書院 1990年3月)

「心猿意馬」という漢語表現

2018年03月01日 | 思考の断片
 この成語の大抵の語釈はこの“猿”と“馬”とを何の気なしに(としか思えない)比喩であるとしているが、本当にそれでいいのか。例:http://www.guoxuedashi.com/chengyu/38836x.html
 この表現のそもそもの出典は魏伯陽の『周易参同契注』の由だが、その原文は「心猿不定,意马四驰」である。訓読すると、まずは「心は猿のごとく定まらず、意は馬のごとく四もに馳す」となるだろう。だがそれはそれしか翻訳語の“部品”がないからである。ここで定石を外して原文漢語に即して翻訳すれば(ここで念を押すと訓読とは、あるいは訓読もまた、翻訳である)、「心は猿にして定まらず、意は馬にして四もに馳す」とすべきである。
 つまり直喩ではない。もしかしたら暗喩でもないかもしれない。なぜなら、そもそも直喩も暗喩も、そして比喩も、いまの私たちが使うそれらは西洋語のそれであり概念であるからだ。まずは漢語における“比興”の伝統的な語彙と概念から分析説明すべきであろう。

李商隠 維基百科

2016年11月04日 | 伝記
 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%95%86%E9%9A%90#.E6.96.87.E5.AD.A6.E6.88.90.E5.B0.B1

  李商隱的詩經常用典,而且比杜甫用得更深更難懂,而且常常每句都用典故。他在用典上有所独创,喜用各種象徵、比興手法,有時讀了整首詩也不清楚目的為何。而典故本身的意义,常常不是李商隐在诗中所要表达的意。

 そんなことより”象徵symbol”や”比興trope”が古代漢語の修辞法に印欧語そのままの概念で同じく存在するという証明はできているのか。なぜ彼が典故を多用するか(それも僻典まで)の答えは?
 李商隠関連の論考と著書数本を読んだ。李の「文体」を専心に探究するものにはいまだ当たらず。朦朧たる彼のスタイルはなぜ朦朧としているのか?いかにして朦朧たりえているのか?等の疑問あり。