(一)
1)
子曰:「學而不思則罔,思而不學則殆。」(
「為政」篇2-15)
2)
子曰:「吾嘗終日不食,終夜不寢,以思,無益,不如學也。」(
「衛霊公」篇15-31)
この「思」はどういう意味だろう。『十三経注疏』では、どちらの箇所も、ここの「思」の語に関して特に注釈はない。
『爾雅』「釋詁」には、
悠,傷,憂,思也,懷,惟,慮,願,念,惄,思也。
とある。この説明は、「思」は「悠,傷,憂」、また「懷,惟,慮,願,念,惄」の諸語において共通する概念(内包)は「思」という意味であるのか、それとも後者「思」の類義語(いわば外延)がこれら諸語という意味であるのか。
『説文解字』の「
思部」には、
思:容(䜭)也。从心囟聲。凡思之屬皆从思。
と解釈してある。 では「䜭」は何かというと、段注は、同書「谷部」の
䜭:深通川也。从谷从𣦵。𣦵,殘地;阬坎意也。
を根拠に、「凡ぞ深く通ずるは皆な䜭と曰う」と主張する。「之を思と謂うは其の能く深く通ずるを以て也」。つまり段玉裁は䜭を思の内包、思を䜭の外延と考えているわけだ。
ということは、『説文解字注』の解釈と『爾雅』の本文が内容的に互いに齟齬を来すと考えない限り、『爾雅』において「思」の解釈として列挙される諸語彙は、「思」もふくめて、類義語ということになる。そして、『爾雅』とは字句の解釈や定義のない、完全なシソーラスであるということになる。だがそれで正しいのだろうか。(?)暫く自らの意見に疑いを存す。
(二)
揚雄『方言』「
第一」に、
鬱、悠、懷、惄、惟、慮、願、念、靖、慎,思也。晉宋衛魯之間謂之鬱悠。惟,凡思也;慮,謀思也;願,欲思也;念,常思也。東齊海岱之間曰靖;秦晉或曰慎,凡思之貌亦曰慎,或曰惄。
とあるが、これはかなり分析化が進んでいる。「思」を類義語中の一ながらそれらの共通の基礎的概念として抽象化しているようでもある。その揚雄によって抽象化された「思」の内包と、まさに重なる内包をもつ具体的な語彙が、「惟」(また方言の「慎」と「惄」)であるらしい。
『康煕字典』を引いてみる。
「心部」五(劃)に、
《六書總要》念也,慮也,繹理爲思。又願也。
とある。『六書總要』とはどういう書物か調べてみたら、明代の字書らしい。
呉元満撰。検してみるに、たしかにそう書いてある。
この書は四庫全書にも入っている。『総目提要』では、「大抵出於杜撰、又往往自相矛盾」とあって、手厳しい。ちなみにこの、文言文での“(自相)矛盾”という言葉は「一つの事柄についてそれぞれの人や場合で言われることが異なってばらばらである」あるいは「事実と違う」というほどの意味で、後世の漢語が獲得した、矛盾原理(Aは非Aでない)におけるcontradictの意味ではない。
(つけたり)
富平美波「明末の文字学者呉元満の著作と周辺の人々 [万暦〕『歙志』の呉元満伝から」(『山口大学文学会誌』42、1991/12、45-62頁)によれば、万暦37(1609)年刊の『歙志』や清道光7年(1827)刊の『徽州府志』に呉元満の詳細な伝がある由。富平論文では前者から全文が引用・翻訳されている。それによれば、彼は生まれつき隻眼(畸目)であったが、学問にひいで、とくに対象の緻密かつ根源的な追究が得意だったらしい。子供のとき塾に入ったが、そこの教師が古典の原文を伝来の注釈の句読どおりに音読することしか教えなかった、そこで呉は一字一字の意味とどうしてそう解釈できるのかを訊ねていったら先生は答えられなかった、それで塾をやめたとある。「元満以畸目而為畸人也」と、万暦『歙志』伝では、外には見えない伝の編者の評語が、最後に付される。同論文では彼の学問的業績についても言及があるが、小学に疎い私には残念ながらよくわからない。