吉田松陰は「吾に軽信の癖あり」と自戒していたらしいが、私も長らくこのきらいがあった。さすがに年を取って信用すべき理由がない相手は信用しないという、たぶん世間ではごく普通の対処方法が少しは身についたものの、それでも誰かのなかに実際には存在しない意気や志を見たいがゆえに見ようとしてしまうことがまだある。
李贄は『蔵書』で、自らの評語のなかで歴代史家の賛を三個所、引いている。そのうち一つが范曄で、あとの二つが司馬遷なのは、何か意味はあるだろうか。
子規は『菓物帖』『草花帖』をどうやって描いたのだろう。前者に「写生ハ総テ枕ニ頭ツケタマゝヤル者ト思へ」との書き込みがあるから、仰向けに寝たままでだったのだろうか。とてもそうは思えぬ。後者を了えてひと月足らずの後に亡くなる人の描いたものとも。
余は今まで禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。 (『病床六尺』明治三十五年六月二日条)
余は今まで禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。 (『病床六尺』明治三十五年六月二日条)
昔の学者の論著を繙くと、後の世代に受け継がれずに途絶えた視角や議論に出会うことがままある。現代の新人がそれを知らずに新たに自らの創見として“発明”したとき、あるいはあらためて“発見”して取り上げたとき、自分たちが問題にしてこず、もしかしたら知りもしなかった大・中の先生方が「そんなことはすでに言われている」と言って否定したり却下したりするのは、ある意味卑怯なことかもしれない。
桂米朝師匠が、噺家は「らしく」見せるためにいろいろな芸事を学んでおかねばならないが、逆にいえばそれはそれ「らしく」見えればいいので、深奥を極める必要はないと仰っておられた。これは翻訳者にも当てはまる心得だと思う。ただ翻訳家の場合は、「らしく」ではなく、原文に書かれていることはその「とおりに」に伝えなければならないという、どちらかといえば微細な違いはある。
虐待もそうだが、ハラスメントをして、されたほうが傷ついたり自殺したりすると、それくらいで傷つく/死ぬ方が悪いと言うのは、本気の言なのか、それともただただ責任逃れの屁理屈なのか。
山本夏彦翁のエッセイのたしかどれかに、若い頃徴兵検査を受けて幸いにも軍隊に取られはしなかった、これで最低2年は次の検査まで猶予がある、だからそのあいだに結婚しようと思ったとあった。最後の結婚云々の理屈はよくわからなかったが、当時の若者の間では当然の考え方だったのかもしれない。
おかしなことに弱冠どころか還暦に近くなって、私はそれまでの前半分の気分はよくわかるようになった。これから先の2年を確実に約束されている不変は長い。
おかしなことに弱冠どころか還暦に近くなって、私はそれまでの前半分の気分はよくわかるようになった。これから先の2年を確実に約束されている不変は長い。
なぜ漢字(漢語)の“前”は空間的にまさしく前方を、しかし時間的には“以前”がそうであるように、また現代漢語での“前天”と、後ろを指すのだろうか。動詞として使うときは物理的に「すすむ」=空間的に前方へ動くことだけを意味する。現代漢語の文法が順行構造と逆行構造の双頭の竜というか常山の蛇状態になっていることとは直接の関係はないらしい。古代漢語の時代からすでにこうなっている。
吉川幸次郎大人は学問的な、もしくはこれは御本人も自覚されて明言されているが(「自分は哲学者よりも文献学者と呼ばれたい」という発言)、言葉また言語的なセンスが鋭く、それによって分野において屹立している。私の個人的な意見ではこの点においては宮崎市定御大も及ばない。そして99パーセントの努力も伴っているので、ほとんど超絶している。
2018年8月26日 12:34 発信地:パリ/フランス [ フランス ヨーロッパ ]
ジョージ・フェレロ(Georges Ferrero)村長は24日までに仏ラジオ局に対し、「これまでに5つの(観光客の)グループが、朝から晩までセミの声に悩まされているとして面会に来た」と語った。また、「(グループは)セミが夜10時までうるさく鳴いていると不満をあらわにした。わたしは、あれはプロバンスのBGMのようなもので、伝承されてきたものの一部だと説明しようとしたが、彼らは受け入れようとしなかった」と述べ、「セミの歌は彼らにとってうんざりするような騒音だ。南部の住民の耳には音楽のように聞こえていることを、彼らは理解できない」と付け加えた。
Oriana Fallaci "The Rage and the Pride"で、著者はセミcicadaという語を、左派・左翼プラスliberal、useful idiotという意味と語感(つまり今の日本語の語彙だと「パヨク」、また部分的に「リベラル」にも当たるか)で使っているのだが、第一義はこの「言葉が無意味でただうるさいだけの存在」というニュアンスが来るのかもとふと思った。ファラーチはイタリア人だが。
ジョージ・フェレロ(Georges Ferrero)村長は24日までに仏ラジオ局に対し、「これまでに5つの(観光客の)グループが、朝から晩までセミの声に悩まされているとして面会に来た」と語った。また、「(グループは)セミが夜10時までうるさく鳴いていると不満をあらわにした。わたしは、あれはプロバンスのBGMのようなもので、伝承されてきたものの一部だと説明しようとしたが、彼らは受け入れようとしなかった」と述べ、「セミの歌は彼らにとってうんざりするような騒音だ。南部の住民の耳には音楽のように聞こえていることを、彼らは理解できない」と付け加えた。
Oriana Fallaci "The Rage and the Pride"で、著者はセミcicadaという語を、左派・左翼プラスliberal、useful idiotという意味と語感(つまり今の日本語の語彙だと「パヨク」、また部分的に「リベラル」にも当たるか)で使っているのだが、第一義はこの「言葉が無意味でただうるさいだけの存在」というニュアンスが来るのかもとふと思った。ファラーチはイタリア人だが。