書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

青木隆/佐藤実/仁子寿晴編訳 「訳注『天方性理』巻四」

2014年09月05日 | 東洋史
 『中国伊斯蘭思想研究』1、2005年3月、同誌9-217頁。

 56頁、「第3章 升降来復図説」の劈頭、

  宇宙千頭萬緒之理。(宇宙には理が数え切れないほど無限にある)

 とあるのを見て魂消ている。文言文の文体と発想の枠内でよくこれが書けたものだと。明を通過した清代の「文言文」(私の言うところの「書面語」)だからかもしれない。

仁子寿晴 「中国思想とイスラーム思想の境界線 劉智の『有』論」

2014年08月22日 | 東洋史
 『東洋文化』87、2007年3月所収、同誌181-203頁。

 端的に言って『天方性理』には漢語にともなう意味論的ネットワークおよび中国的思惟が抜きがたく存在しているのであって、アラビア語やペルシア語で書かれたイスラーム思想の意味論的ネットワークをそのまま移しかえたものではない。 (181-182頁)

 翻訳とはそういうものではないかとも思えるが、氏の言葉はまだ続く。

 換言すると、イスラーム的思想構造が下地としてあり、その構造の各要素(用語)にそれと意味の近い漢語を順に当てはめていくという作業が行われているわけではないのである。だからといって中国的思想構造という下地にイスラーム思想がパッチワーク的に縫いこまれていると言ってしまえるものでもなく、中国的思想構造とイスラーム的思想構造のちょうど臨界点に『天方性理』が成立するという言い方がより適切であろう。 (182頁)

 やはり翻訳、良質の翻訳とは、常にそういうものではないかと思うのである。

王岱輿著/余振貴點校 『正教真詮/清真大学/希真正答』

2014年06月22日 | 東洋史
 主として『正教真詮』を読む。
 この書は、劉智の『天方性理』のような融和的な書ではなく、きわめて論争的あるいは攻撃的な著作なので、イスラームのみこそが正しい真理の教え(正教)であるという立場から、一歩も譲らない。儒教はその妥当性を有すると認める部分については肯定するものの、あくまでイスラームよりも下級の教えであるとしている。
 王岱輿は、この『正教真詮』のなかで、「理無二是 、必有一非」と言う(「似真」)。昊天(天)と上帝は別のものなのか、それとも同一のものなのかという問題において、場合によって説が異なる儒教経典の矛盾を衝いた言葉である。
 ここでの「理」は真理の意味らしい。
 だがこれは「創造者は一つだけのはずだ」という彼のイスラム教徒としての(真)理である。すなわちこの批判は彼のドグマから来るものであるから、純粋な矛盾律の発動とはいえないところがある。
 それはさておき、王は、さらにそのドグマの言を進めて、この点において儒教(主として宋学)に真理はないと断じるのである。昊天と上帝も、そして理も、いずれもが、真主もしくは真一(アッラー)ではない以上、つまりその被創造物(数一)でありそれにしかすぎないからである。中国の伝統的形而上諸観念は、超越的審級といえども真一の下位に属するそれでしかないと(注)。

 。堀池信夫『中国イスラーム哲学の形成 王岱輿研究』(人文書院 2012年12月)、「第三章 王岱輿研究」、179頁を参照。

 理は事の先に出づると雖も、然れども自立すること能わず。是の故に太極は乃ち真主の立つる所の天地万物の理にして、而る後、天地万物の形を成すなり。凡そ此の理に達する者は、必ず天地万物の原種を以て天地万物の原主に当てざるなり。(本書「似真」章。読み下しは堀池信夫氏のそれによる)

(寧夏人民出版社 1887年9月)

維基百科 「中国伊斯蘭教」項を読んで

2014年06月09日 | 東洋史
 维基百科 中国伊斯兰教 

 礼部侍郎徐元正讀完《天方性理》亦稱:“言性理恰与吾儒合;其言先天后天,大世界小世界之源流次第,皆发前人所未发,而微言妙意视吾儒为详,……则是书之作也,虽以阐发天方,实以光大吾儒。”

 徐某は本当に理解したのか。劉智はイスラーム(天方)の教義を「(性)理」という詞で表現したから、「理」とある、ならばわが儒教の「理」と同じであると早呑込みしたのではないか。だが例えば「経則天方之経、理乃天下之理」(「自序」)は、教えに関わらず共通普遍の「理」が存在するという意だろう。