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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

秦剛平訳 『七十人訳ギリシア語聖書』 Ⅰ 「創世記」

2017年02月03日 | 宗教
 出版社による紹介

 劈頭いきなり、「神は~を見て、よしとせられた」のくだりがセプトゥアギンタでは「神は~を見た。美しかったからである」となっているのに驚き、ついで興味深く思った。元のヘブライ語では単に連続する動作として叙述されたものがギリシア語訳では因果関係として捉えられ時間的な順序も逆になっていること。

(河出書房新社 2002年10月)

井波律子訳 『完訳 論語』

2016年11月11日 | 宗教
 “訳”、つまり翻訳だから、これで当然だが、原書のテキストクリティーク(本文の校訂を含め)は、一切行われない。だがこれがもし研究書ならそれは必須である。先行研究になる宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店 1974年6月)よりも方法論としては後退していると言える。万が一、これが経書の文字は改むべからずというような理由であるなら、心事はさらに前へと遡ることになる。

(岩波書店 2016年6月)

C. H. ドッド著 室野玄一/木下順治訳 『神の国の譬』

2016年07月02日 | 宗教
 おそらく譬は、ただ非ユダヤ的環境においてのみ、寓喩的に神秘化されたものと思い違いされたのであろう。ユダヤ人教師の間では、譬は一般的でよく了解されていた説明の方法であり、イエスの譬も形式においてはラビの譬と類似のものであった。それゆえ、なぜ彼が譬で教えたかという問題が起こったとは思われないし、なおさら、そんな当惑するような回答をうけとることもなかったであろう。これに反して、ヘレニズムの世界においては、寓喩的解釈を施して神話を用いることは、密教的教理の道具とされて、広く行きわたっていた。そしてこの種のあるものは、キリスト教の教師達の中にも見いだされるであろう。これが何ものにもまして、解釈を誤った線にもっていったのである。  (「第一章 福音書の譬の性格と目的」 本書18頁。下線は引用者、以下同じ)

 それでは、もしそれが寓喩でないとすれば、譬とは何であるか。それは、真理を抽象観念で考えるよりも、むしろ具体的な光景の中で見ようとする心の自然な表現である。  (同、19頁)

 寓喩=アレゴリー。

 もっとも単純な形では、譬は自然とか日常生活から取り出された隠喩 (metaphor) か直喩 (simile) で、聞く者達をその潑剌さや珍しさで捕え、それを的確に適用するに当たって心にかなりの疑惑をおこさせ、次第にそれを生きた思想にかえていくのである。  (同、19-20頁)

(日本基督教団出版部 1964年8月)

「良知(リョウチ)とは」 コトバンク

2015年07月21日 | 宗教
https://kotobank.jp/word/%E8%89%AF%E7%9F%A5-659427

 『世界大百科事典(第2版)』の説明。

 王陽明の場合,良知はもはや単なる知覚能力とか判断能力ではなく,人格的統一主体を意味する。王陽明がこの意味で,良知説を発見するのは49歳の時である。それ以前は人格的統一主体の意味をあらわす語としては心を用いて心即理と主張していた。これでは心のもつ背理可能性が危惧されるので良知とおきかえたのである。
 (下線は引用者)

最澄 『願文』

2015年07月21日 | 宗教
 文中に“理”の語の使用あり。原文および天台典籍勉強会の訳文では二か所(“己を省みるに此の理必定せり”、”未だ理を照らすの心を得ざるより”、下段参照)。
 ただしこのウェブサイトでも言及のある福永光司訳(中央公論社『日本の名著』3「最澄 空海」中央公論社、1983年6月)では四か所。二回繰り返される“是処”を他の二か所と同じく“道理”と訳す(下段参照)。「理」「道理」、いずれにしても「御仏の教え」の意味である。

 悠悠三界。純苦無安也。擾々四生。唯患不楽也。牟尼之日久隠。慈尊月未照。近於三災之危。没於五濁之深。加以。風命難保。露体易消。草堂雖無楽。然老少散曝於白骨。土室雖闇(狭)。而貴賎争宿於魂魄。瞻彼省己。此理必定
 仙丸未服。遊魂難留。命通未得。死辰何定。生時不作善。死日成獄薪。難得易移其人身矣。難発易忘斯善心焉。是以。法皇牟尼。仮大海之針。妙高之線。喩況人身難得。古賢禹王。惜一寸之陰。半寸之暇。歎勧一生空過。無因得果。無有是処。無善免苦。無有是処
 伏尋思己行迹。無戒窃受四事之労。愚痴亦成四生之怨。是故。未曽有因縁経云。施者生天。受者入獄。提韋女人四事之供。表末利夫人福。貪著利養五衆之果。顕石女担輿罪。明哉善悪因果。誰有慙人。不信此典。然則。知苦因而不畏苦果。釈尊遮闡提。得人身徒不作善業。聖教嘖空手。
 於是。愚中極愚。狂中極狂。塵禿有情。底下最澄。上違於諸仏。中背於皇法。下闕於孝礼。
 謹随迷狂之心。発三二之願。以無所得而為方便。為無上第一義。発金剛不壊不退心願。
 我自未得六根相似位以還不出仮。其一。
 自未得照理心以還不才芸。其二。
 自未得具足浄戒以還不預檀主法会。其三。
 自未得般若心以還不著世間人事縁務。除相似位。其四。
 三際中間。所修功徳。独不受己身。普回施有識。悉皆令得無上菩提。其五。
 伏願。解脱之味独不飲。安楽之果独不証。法界衆生。同登妙覚。法界衆生。同服妙味。
 若依此願力。至六根相似位。若得五神通時。必不取自度。不証正位。不著一切。願必所引導今生無作無縁四弘誓願。周旋於法界。遍入於六道。浄仏国土。成就衆生。尽未来際。恒作仏事。(終)