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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

田中信行 『はじめての中国法』

2013年07月19日 | 社会科学
 党はいつも正しいという原則のもと、党は、「党の指導」によって実質的に法を定め、法を執行し、法を司る。つまり自分で自分を調査し、逮捕し、訴追し、量刑し、処罰せねばならない。党や党委員会を構成する人間が完全無欠の聖人君子でなかったら、とうてい成り立たない制度である。
 中国の司法体系が、社会正義を実現するうえで構造的に無理であることが、微に入り細に入った個別実例の紹介と、その分析から導き出される推論と、さらにその推論を証明する実例の紹介解説・・という連鎖形式の説明によって、充分に理解できる。

(有斐閣 2013年3月)

Otto Gierke "Natural law and the theory of society, 1500 to 1800"

2013年07月07日 | 社会科学
 With a lecture on The ideas of natural law and humanity by Ernst Troeltsch; translated with an introduction by Ernest Barker.

 "reason"(理性)について、それが万人共通にして普遍であることの証明はやはりなし。

 このことに関して、 Encyclopædia Britannica の "reason" 項には以下のようにある。

 reason, in philosophy, the faculty or process of drawing logical inferences. The term “reason” is also used in several other, narrower senses. Reason is in opposition to sensation, perception, feeling, desire, as the faculty (the existence of which is denied by empiricists) by which fundamental truths are intuitively apprehended.  (下線は引用者)

 経験主義者は理性の存在を否定する。

(Cambridge, [U.K.] : Syndics of the Cambridge University Press, 1950)

ウオルター・リップマン著 矢部貞治訳 『公共の哲学』

2013年06月26日 | 社会科学
 公共の利益とは、もし人々が明らかに見、合理的に考え、公正にかつ博愛的に行動するとすれば、選ぶであろう所のものだと、推定してよいのではあるまいか。 (「第一部 西欧の凋落」「第4章 公共の利益」、本書58頁)

 公共の哲学----すなわち「支配者と主権を持つ人民の上に・・・・生命ある者の全社会の上に」法が存在するとする自然法の教義〔後略〕 (「第二部 公共の哲学」「第8章 公共の哲学の衰微」、129頁)

 政府は公共の哲学に対する主権と所有権を与えられるべきでない〔後略〕 (同上、131頁)

 公共の哲学は自然法〔原文傍点〕として知られている。〔中略〕この哲学は西欧社会の諸制度の前提であって、私はそれらの諸制度は、公共の哲学を信奉しない社会ではその機能を発揮し得ないものと信じている。この哲学の諸制度にもとづかない限り、人民の選挙、多数決、代表議会、自由な言論、忠誠心、財産、社団、及び任意的な団体などというものは、よく理解でき機能を発揮し得る観念に到達することは不可能である。 (同上、134頁)

 「私は・・・信ずる」というのは弱いが、あとの一文については、旧ソ連やこんにちの新中国の有様を見る限り、著者の予測が現実として的中しているのは確かである。

 二千年以上もの間ヨーロッパの思想は、人間の理性的能力が普遍的妥当性を持つ法と秩序の共通概念を、産み出し得るという理念によって影響された、とバーカー〔注〕はいっている。 (同上、138頁)

 。Sir Ernest Barker。"Traditions of civility: eight essays," Cambridge University Press, 1948.の著者。

 この〔ギリシア人であるアレクサンダー大王がペルシア人に対して公布した〕共通法は、理性的な人なら誰でも発見できるもので、それは決して主権的権力のわがままで恣意的な命令ではないという意味で、「自然的」である。〔中略〕ローマの法律家たちはさらに、「共通の人間性すなわち理性によって、人間の種々の要求と本能に応じて、人類に課せられた法」である自然法(ius naturale)が理論的に存在することを認めた。 (同上、141-142頁)

 自然法は神の命令であるのかどうか、それとも神の存在にもとずいてはいても、神自身によってさえ変更され得ない、永遠の理性の命令であるのかどうか、ということについては、深刻な論争があった。〔中略〕しかしながら、自然主義者と超自然主義者とどこで意見が分かれたかということが、決定的な点なのではない。神の命令であろうと物事の道理であろうと、妥当性を持つ超越的な法が存在するということに、一致していたということが重要なのである。 (「第11章 公民道の擁護」本書236-237頁)

 「公民道」は civility の訳。

(時事通信社 1957年3月)

山脇直司 『公共哲学とは何か』

2013年06月26日 | 社会科学
 日本で「『公共』という言葉を早くから実際に用いた例」として伊藤仁斎の名が挙げられている(「第2章 古典的公共哲学の知的遺産」、本書82頁)。しかし「公共」という語自体は『史記』に見え、古くからある言葉だから意味がよく判らない。

 釋之曰:法者天子所與天下公共也。 (巻102「張釈之伝」)

 但し動詞である。「所」で括られていることからそれは明らかである。「公共」で一語であることも同時に分かる。語義は二語で「等しく適用する/される」というほどの意。これは前後の文脈から判明する。司馬貞の注釈である『史記索隠』に、「小顔云うならく」として、「公は私せざるを謂う也」とあるが、蛇足に近い。諸橋『大漢和』には「共にする。共同。」と、説明にもならない説明が書いてある。

 閑話休題。山脇氏の言うところの意味は、いわゆる現代の意味と視角から、「公共問題」あるいは「公共的秩序」を取り上げ論じた際にこの語をその意味で用いた例としての伊藤仁斎ということだろうか。とまれ、原文を読んでみなければたしかなところは分からない。

(筑摩書房 2004年5月)

マイケル・サンデル著 鬼澤忍訳 『公共哲学』

2013年06月26日 | 社会科学
 2013年06月21日「山脇直司 『社会とどうかかわるか 公共哲学からのヒント 』」および2013年06月25日「林竹二 『林竹二著作集』 5 「開国をめぐって」」より続く。関連する議論箇所を抜書。

 正義にかなう社会を正義にかなうものとするのは、その社会が目指す「テロス」すなわち目的や目標ではなく、競合する目的や目標から前もって何かを選ぶことをまさに拒否することなのである。正義にかなう社会は、市民がそれぞれの価値や目標を追求し、かつ他者にも同様の自由を認めることができるような枠組みを。憲法や法律という形で提供しようとする。 (「第3節 リベラリズム、多元主義、コミュニティ」「第23章手続き的共和国と負荷なき自己」「正と善」項、本書235-236頁)

 以上のような理想は、正は二つの意味で善に優先するという主張に要約されるかもしれない。正が優先するということは、まず、個人の権利を全体の善のために犠牲にしてはいけないという意味であり(この意味では功利主義と対立する)、次に、そうした権利を規定する正義の原理は善き生についての特定のビジョンを前提としてはいけないという意味である(この意味では目的論的構想全般と対立する)。/これが現代の道徳・政治哲学の大半がとるリベラリズムだ。 (同、236頁)

 リベラルの倫理は正の優先を唱え、特定の善の概念を前提としない正義の原理を求める。 (同、「カント哲学の基盤」項、237頁)

 ではリベラル(リベラリズム)ではない倫理の正と善の概念、そして正義の原理は?

 正はあらゆる経験的目的に優先する基盤を持たなければならない。〔略〕特定の目的を前提としない原理に倒置されるときのみ、自由に自分なりの目的を追求し、かつすべての人に同じ自由を認めることができる。 (同、239頁)

 カントは、道徳法則の基礎は主体〔原文傍点〕に見いだされるはずだと考えた。実践理性の客体ではなく、自律的意思を持つことのできる主体にあるというのだ。〔略〕カントが「あらゆる可能な目的の主体そのもの」と呼んだものこそが、正を生じさせることができる。 (同、239頁)

 私がそういう種類の主体であり〔原文傍点、以下同じ〕、純粋な実践理性を行使できると保証するものは何だろうか? 実は、厳密に言えば、保証はない。超越論的主体は可能性にすぎない。だが、私が自分自身を自由な道徳的行為者と考えるなら、前提としなければならない可能性だ。 (同、240頁)

 最後が「としなければならない」とは、ちょっと弱い。
 
(筑摩書房 2011年6月)

山脇直司 『社会とどうかかわるか 公共哲学からのヒント 』

2013年06月21日 | 社会科学
 「公正」について。著者は( フェアネス fairness)と読みを付け、不公平(アンフェア)を正すことと説明してある(69頁)。つまり公正は不公平を正す事で、公正←→不公平の意味対照が成り立つという事だろうか?

 「公正(フェア)というのは、画一的なニュアンスよりも、『機会の平等』というニュアンスの強い言葉であり」(70頁)、均質の平等と公正の平等とは異なるとしたうえで、「一人ひとりの個人を活かす自由と平等=公正」と書いてある(71頁)。そしてそれを公共的ルールとして制度化したものが基本的人権であると言う(72頁)。
 そして時としてその「公正」に制限を加え得るものとしてある「公共の福祉」とは、「社会のなかで実現される一人ひとりの『私』の幸福」(110頁)もしくは「社会における人びとの幸福」(111頁)であると定義される。「公共世界に属するもの」であるとも(同)。
 さらに著者は、アマルティア・センの主張を引いて、この「公共の福祉」あるいは「人びとの幸福」は、所得水準などの物質的なそれだけでなく、栄養状態がよいことや予防可能な病気にかからないことといった、「自己実現の状態」としての側面を重視すべきだとする(116-118頁)。

 著者は、「一人ひとりの『私』を活かす公共世界」(著者の言葉では「活私開公」の社会)においては、個人の自由と各人の機会の平等=「公正」の制度的ルールである「基本的人権」と、「社会のなかで実現される一人ひとりの『私』の幸福」即「福祉」とが、必須だとしている。
 そして著者は、それらを含む「公共善」(そしてその反対概念として公共悪)という、より広い概念を紹介する。これは、「人びとが、公共世界で共有しあえる価値あるもの」である(119頁)。具体的には、これまでにすでに見えている「人権」と「福祉」のほか、平和、健康、自然環境、文化財や伝統などを指している(同頁)。

 この本ではあと、「公共的感情(他者と分かちあうことのできる感情、コンパッション・公憤・同慶)」を持つ必要が説かれているが、ここからは社会についての「認識」を離れて、それへ「参加」するうえでの要件である。

 異常を要するに、「公正」とは、基本的人権が示す価値の謂であり、その内容を守ることが公正であり、また公共善であり、それを守らないあるいは破ることが不公平、ないし公共悪ということなのか。

(岩波書店 2008年11月)

山脇直司ほか編 『現代日本のパブリック・フィロソフィ』

2013年06月14日 | 社会科学
 冒頭山脇氏「パブリック・フィロソフィの再構想――学問論的展望のために――」しか解らなかった。その山脇論文にせよ、パブリック・フィロソフィの定義が明確に描かれているわけではなく、つまりは公共哲学とは何ぞやから始まる私のような初心者の読むべき本ではないのであった。内容も、あとはいきなり各論になっている。難しすぎる。

(新世社 1998年10月)