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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

池田信夫 blog 「法とは政治である」(2014年02月02日00:50)

2014年02月02日 | 社会科学
 「その正義は**で脱構築できる」といえるような**が存在しないことを証明したとき、それは絶対の正義だが、そういう正義は存在しない。

 法の正しさを慣習(コモンロー)が保証するとしても、その慣習が正しいことをどうやって証明するのか。

 つまり法とは条文の形式をとった特定の集団の信念や政治的利害の表明であり、それ自体が正しいかどうかを論じることには意味がないのだ。

 絶対の正義は存在しないので、あとはみんなで何を信じるかという問題しか残らない。


 自然法と関連づけての議論は?

Durham, G. Homer "Introductory Readings in Political Science"

2014年01月02日 | 社会科学
 著者のG. Homer Durhamという人についてはWikipediaに項があるが、政治学の博士号を持っていることと、著書の名前以外、学風や学説については何も言及がない。
 この著書はそのリストにも入っていないものである。内容は、しごく普通の、政治学を学ぼうとする徒むけの、入門書であり、ソクラテス、プラトンからロック、ミル、モンテスキュー、そして米国独立宣言といった定番の基本文献や古典からのさわりの部分が並んで収められている。
 ただ、ウッドロー・ウィルソンの著書"The State: Elements of Historical and Practical Politics"が一章を立てて紹介されていることが目を引く。国際連盟・連合関連(核問題含む)の資料も収録されている。

(Bookcraft, Salt Lake City, 1948)

ハインリッヒ・ミッタイス著 林毅訳 『自然法論』

2013年12月23日 | 社会科学
 たかだか法律という〔いわば〕網細工には欠缺がありえても、法には決して欠缺はありえないのであります。更にまた、「 法律 Gesetz〔作られて現にある法〕に対する法 Recht〔あるべき法〕の闘争」ということがいわれます。しかしてこのことは、実定法の上に、われわれが正義の名においてそれに訴えることができる、より高次の法廷、すなわち、われわれのあらゆる質問に対して解答を知っており、実定法に対する批判の鏡を保持しているところのより高次の法、その中においてわれわれの法意識、つまり法と不法に関する直接的に明証な感情が実現されるところの「正しい」法、が存在しなければならないということを意味しております。このより高い位階にある法のことを、われわれは自然法と名づけるのであります。それは最高の意味における法であります。それはあらゆる実定法の上に存在しており、実定法の基準、実定法の良心たるものであります。それは法律の王たるものであり、諸規範の規範たるものなのであります。 (「序論」本書10頁。下線部は原文傍点、以下同じ)

 “首尾一貫性”とは何か?

 このようにしてわれわれは、首尾一貫性の中に人間的共同生活の基本原理を、そして同時に正義の根元現象 Urphänomen を見いだすのであります。首尾一貫性は、真に普遍的に、そしてあらゆる具体的な場合に適合した人間的行動、というものを表示するキーワードであります。 (「三 自然法の現代的意義」本書63頁)

 英語でいうintegrityのことだろうか。

(創文社 1971年6月第1刷 1973年1月第2刷)

ハンス・ケルゼン著 黒田覚/長尾龍一訳 『自然法論と法実証主義』

2013年12月23日 | 社会科学
 規範体系としての自然法と実定法という捉え方。

 実定法が強制秩序であるのに、自然法は強制のない無政府的秩序だということは、両者が――秩序として――規範体系であること、従がってどちらの規範も同じく当為によって表現されるという事実になんの影響も及ぼすものではない。自然法の体系ならびに実定法の体系が等しく所属しているのは必然の法則性、すなわち因果性ではなく、それと本質的に違う当為の法則性、すなわち規範性である。 「第1章 自然法の観念と実定法の本質」「当為、絶対的および相対的妥当」本書9頁。下線部は原文傍点、以下同じ)

 自然法の正義とは「形式的な秩序あるいは平等の思想」でしかないという認識。

 自然法の側から通常正義の本質と主張される平等の観念、等しきものは等しく取扱われるべし、との原則、また――これと同じであるが――等しき者に等しきを保証せよ(各人に彼のものをsuum cuique)との原則は、けっきょく同一性の論理的原則、したがって矛盾律を述べているのに他ならない。だからこれは秩序・体系的統一性の概念が意味するところと同じである。 (「第4章 認識論的(形而上学的)基礎と心理的基礎」「正義の理想の論理化」本書96頁)

 「根本規範」と言う考え方がよく解らない。

(木鐸社 1973年11月第1版 1976年6月第1版第2刷)

池田信夫blog 「『土台と上部構造』についての誤解」( 2013年11月15日11:35 )

2013年11月15日 | 社会科学
 メモ。

 国家という土台のあり方が資本主義という上部構造を規定する。英米型の司法中心のガバナンスが株主資本主義を生み出し、官僚中心の大陸法は「ステークホルダー資本主義」を生み出した。日本の「国のかたち」はこのどちらとも違い、コモンロー的なゆるやかな社会規範に大陸法型の厳格な法体系が乗っているため、法の支配が機能していない。 (下線は引用者)

 ただしこの論、「実はヘーゲル法哲学でも所有権や契約は所与として「社会的分業や交換によって媒介される」市民社会が構成されているので、暗黙のうちに国家を前提にしている」から「資本主義の土台は国家」で、「だとすれば、国家という土台のあり方が資本主義という上部構造を規定する」という議論はおかしい。ヘーゲルの主観的理論がそうだから客観的現実の証明になるという主張は成り立たない。

西川如見 『日本水土考』

2013年11月03日 | 社会科学
 飯島忠夫/西川忠幸校訂『日本水土考・水土解弁・増補 華夷通商考』(岩波文庫 1944年8月第1刷 1988年11月第2刷)所収。同書13-26頁。
 
 西川如見が著作で使う「理」或いは「道理」という言葉は全て、倫理と物理の未分化な朱子学のそれ(理一分殊、理気二元論)である。彼はそれ以外の理を想定しない。彼は地球が丸いことを知っており、日本の位置を経度と緯度で表示する。しかしなお宇宙がこの理で動いていると信じて疑わない。
 このような、“理”をめぐる西川(1648-1724)の楽観性に、志筑忠雄(1760-1806)に見られるような苦渋の跡が見られないのは、時代の差か、あるいは個人の学識と思索の差か。

田中秀夫 『近代社会とは何か ケンブリッジ学派とスコットランド啓蒙』

2013年10月10日 | 社会科学
 著者は言う。近代社会とは、“個人主義、自由主義、被治者の同意による統治、すなわち議会政治、国民の安寧のために存在するものとしての国家、三権分立、司法権の独立、物質的な豊かさ、寛容、職業選択の自由、思想信条の自由、言論出版の自由、結社の自由など、基本的人権の保障。こういった条項を実現するものが近代社会である”(「はじめに」vii-viii頁)。
 そして著者は続けて、“そのような条件についてのほぼ十分な認識はスコットランド啓蒙がもたらしたと述べて過言ではない”(viii頁)とし、スコットランド啓蒙は“近代思想の「総合」を成し遂げた”のであり、それは“「自然法と共和主義とポリティカル・エコノミーの総合」としての「道徳=社会哲学」”である(viii頁)と要約する。

(京都大学学術出版会 2013年7月)

Walter Lippmann "The Public Philosophy"

2013年10月05日 | 社会科学
   The public philosophy is known as natural law,(...). This philosophy is the premise of the institutions of the Western society, and they are, I believe, unworkable in communities that do not adhere to it. Except on the premises of this philosophy, it is impossible to reach intelligible and workable conceptions of popular election, majority rule, representative assemblies, free speech, loyalty, property, corporations and voluntary associations. The founders of these institutions, which the recently enfranchised democracies have inherited, were all of them adherents of natural law.  ("The Eclipse of the public Philosophy", '3. The Neglect of the Public Philosophy', pp. 79-80. 下線は引用者による、以下同じ)

   European thought has been acted upon by the idea that the rational faculties of men can produce a common conception of law and order which possesses a universal validity. > ("The Eclipse of the public Philosophy", '4. The Universal Laws of the Rational Order', p. 81)

  The public philosophy is in a deep contradiction with the Jacobin ideology.  ("The Defense of Civility", '2. The Communication of the Public Philosophy', p. 124)

(NY: The New American Library, 1956)

丸山眞男 『忠誠と反逆』

2013年08月06日 | 社会科学
 私のいま考えていることと、テーマも材料もほぼ同じなのに、関心の所在も方向も、まるで重ならない。それは別にしても、この人の著作でいつになく書かれた言葉が頭に響いてこないのは、こちらの精神が鈍磨しているからだろう。夏バテしている。

(ちくま学芸文庫版 1998年2月)

奥田敦 『イスラームの人権 法における神と人』

2013年07月26日 | 社会科学

 イスラームの人権論においては自由より平等のほうが「人権の基礎としてより多くを論じられる」(第4章 イスラームの人権の理想と現実」125頁)。

 自由は、創られたものの支配の局面で出てくるにすぎないが、平等は、創る側との関係において論じられるべき事柄であり、より根源的なのだと考えられるからである。 (同上)

 立法者としてのアッラーと法源としてのクルアーンに合意した人々が、人間からの強制あるいは人間に対する隷属から免れることができれば、それだけでも充分に自由は確保されているといえよう。 (124頁)

 ヨーロッパほどには原子論に関心を示さなかったイスラーム圏において、個人の観念や人権の概念はどのような思想的背景に基づくのだろうと思ったが、やはり個々人を識別するよりも、集団としての人間(=人々)という見方のほうが強い印象を受ける。個人間の平等ではなく、集団内の平等だ。一人一人の自由の内実が異なるであろうことについてはやや思慮が及んでいないような気がする。

(慶應義塾大学出版会 2005年11月)