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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

佐々木毅/金泰昌編 『公共哲学』 3 「日本における公と私」

2013年05月30日 | 社会科学
 よくわからない。第一巻の総説(「公と私の思想史」)から読まないと理解が行き届かないらしい。
 その中では、源了圓氏の「横井小楠における『公共』の思想とその公共哲学への寄与」は、よくわかり、また面白かった。
 
(東京大学出版会 2002年1月)

David Sloan Wilson 『Darwin's Cathedral: Evolution, Religion, and the Nature of Society』

2013年03月17日 | 社会科学
 ものすごく詰まらない。核心の大問題と枝葉の小問題を同じ比重で論じている。切り口というものがない。自分の視点(とそれから責任において)どこに焦点を合わせるかというところがまるで見受けられない。文章に個性が感じられない。よくできたAIの書いた作文のようである。あるいは知性だけ人間なみに発達した昆虫のそれの如き。Chapter 2 の「The Views from the Social Sciences」というタイトルを見てウンザリした。検証できず比較がその替わりであると平気で抜かす奴らの学問など科学と言えるか。

(Univ of Chicago Pr (T); New版 2003/10)

マイケル・サンデル著 鬼澤忍訳 『それをお金で買いますか 市場主義の限界』

2012年08月24日 | 社会科学
 いまではこんなものが金で買えるという例をこれでもかこれでもかと山の如く列挙して、最後に、「結局のところ市場の問題は、実はわれわれがいかにしてともに生きたいかという問題なのだ。われわれが望むのは、何でも売り物にされる社会だろうか。それとも、市場が称えずお金では買えない道徳的・市民的善というものがあるのだろうか」、でお終いというのは、あんまりではなかろうか。読者に丸投げではないか。
 なお、題名の邦訳について。副題の "The Moral Limits of Markets" を「市場主義の限界」とはその通りで、何も問題はない。最初見て「これは」と首をかしげたのは "What Money Can't Buy" を「それをお金で買いますか」としてあったことである。「金で買えないものがある」を、これは飛びすぎではないかと思ったのだが、一読して、これでいいと考え直した。というより適訳である。ただ、日本語として、とくに初見で、成り立っているかという問題は残る。

(早川書房 2012年5月)

フリードリヒ・エンゲルス著 秋間実/渋谷一夫訳 『自然の弁証法』

2012年02月17日 | 社会科学
 どうして現在の共産中国では原子論についてあんなに濁った態度を取るのだろう。すくなくとも原子と気は両立しない。速い話が、力学的側面がほとんど欠如している気(陰陽二気論)では、ニュートン力学(運動の法則)はどれ一つとして説明できないはずである。エンゲルスは『自然の弁証法』で原子の存在を認めているというのだが。これまで読んだことがないので目を通してみる。エンゲルスは口先の屁理屈が多くて嫌いなのだが、仕方がない。
 それはともかく、読んでわかったのは、エンゲルスは、たしかによく勉強している――この著作は彼の自然科学勉強ノートといってもいい――、しかし勉強ノートにすぎないことである。原子についてはたしかに触れられている。しかしそれが自然科学(物理学と化学)の根幹を成す概念であることには理解がおよばなかったらしい(当時まだ存在は視認されていない。だがブラウン運動はすでに発見されていた)。エーテルも同時に存在するものとして名を挙げていることでそれはあきらかである。ブラウン運動を特筆大書しないところに、この人物の自然科学に対する理解の浅さ――体系立っていない、ひとことで言えば雑学に留まる――が顕れている。所詮は形而上学である弁証法ですべてを律しよう、律することができる、というあたまが先にあるから、こんなことになるのだ。
 原子とエーテルがこの世に併存するなら、気も在ったっておかしくあるまい。だから今日の中国ではいまだに気と原子論が両立しているのだろう。だがそれは、19世紀の科学水準だ。もしかして、エンゲルスが言っている以上、エーテルも認めているのか?もしそうだとしたら、それは笑えぬ冗談だぞ。現代宇宙論にひきつづき特殊相対性理論をも否定するということだから。中国はどこへ行くつもりか。

(新メガ版 新日本出版社 1999年10月)

「安冨歩氏の知らないリスク・コミュニケーション*」

2012年01月12日 | 社会科学
▲「池田信夫 Blog Part 2」2012年01月12日 00:24。
 〈http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51767689.html

 ・・・などという話を安冨氏にしても無駄だろう。科学的データで語ることを拒否しているのだから、そもそも対話の成立する土俵がない。彼のいう「東大話法」なるものは、自分と意見の違う人に「原子力を推進する人」などと嘘のレッテルを貼る党派的レトリックに過ぎない。

 つまり日本でこれでは、中国・韓国・北朝鮮の大方の人とは、対話は成立しないということだ。彼らにできるのは「自分と意見の違う人に」「嘘のレッテルを貼る」こと、そしてそういう「党派的レトリック」を駆使することにすぎない。ものを自前で考える能力を培わせない文化であり体制なのだから、当然である。
 しかしそんななか、例外的な radical thinking を行う中国人と真摯な対話をする稀有の機会がもてた私は幸福だったということだろう。いまは、できれば韓国・北朝鮮の同種の例外的な人とも同じ機会がもてればと願っている。
 

「日米同盟としてのTPP」

2011年11月19日 | 社会科学
▲「池田信夫 blog part.2」2011年11月19日 16:39。
 〈http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51756883.html

 2011年11月18日「『池田信夫 blog part.2』Twitter から」より続き。

 これならわかる。

 私はアメリカがすばらしい国だとは思わないが、国民を大量虐殺することはない。鳩山元首相など「東アジア共同体」を唱える人々は、言論の自由もない国との関係を基軸にした外交が可能だと思っているのだろうか。

 私の過去に知る限りの、親ソ(ロ)的なソ連・ロシア研究者も、親中的な中国史研究者も、ほぼ全員がソ連や中国に「大量虐殺されたい」風の人々だった。すくなくとも強制収容所には放り込まれたそうな感じだった。あれは一体何だったのだろう。(前から思っていたが、鳩山元首相にもどうも同じ臭いがする。)
 “共産主義的人間”特有のこの臭いというか奇妙な「弱々しさ」――党やココロの宗主国に「死ね」といわれればおとなしく刑場に牽かれていくような――については、林達夫が何か書いていたが、あれは何という題だったか。
 それともみなさん、革命成った暁には、“祖国”の走狗大臣になって、他人を大量虐殺したかったのかな? (これは谷沢永一・山本夏彦的な devil's advocate の論法。まあそういうことにしておこう。)

「池田信夫 blog part.2」Twitter から

2011年11月18日 | 社会科学
 〈http://ikedanobuo.livedoor.biz/

 たぶん部族社会の均衡は一つしかないが、大きな社会の均衡は西欧型と中国型の二つあるんでしょう。前者は「法治国家=戦争国家」、後者は「人治国家=平和国家」。どっちがいいかは100年ぐらいしないとわからないと思う。 (ikedanob)

 墓場の平和はよくないと分かるのにそんなに時間がかかるのだろうか? 池田氏は、国家としての安定性、運営上の能率や効率の面から言っておられるのだろうけれど。正直に言って、もともとこの人の仰ることは私には難しくてよく分からないことが多いのだが(というかほとんどわからない?)、この発言は、とくに理解できない。私は国民としては、後者にはぜったいに住みたくない。というか、一人の人間として生きていけない。自分で考えたことが口にできない社会などには。それに、いまの中国の国家体制や社会は、従来の中国型ではなくかなり西欧のそれが交じっている。例を挙げれば、県以下のレベルにまで国家(共産党)の支配が及んでいる、少数民族地域に土司や土官(に類するもの)を置いていない。

戸部良一ほか 『失敗の研究 日本軍の組織論的研究』

2011年04月15日 | 社会科学
 著者は戸部良一・寺本義也・鎌田伸一・杉之尾孝生・村井友秀・野中郁次郎の各氏。

 山本七平氏の、『一下級将校の見た帝国陸軍』はまだしも、『空気の研究』を、肝心かなめの決めの拠り処にしてもよいものか。
 それに、日本軍は戦術と戦略とをしばしば混同したとはよく言われることであり、この書でも日本軍の重大な欠陥として指摘されているのだが、帝国日本には戦略(軍事戦略)レベルまでの思考しかなくその上の政略(国家戦略)思考がなかったこと、そしてそれは「国是」(国家存立の目的)というものが存在しなかった――国家の基本法たる憲法においてさえも――ことに由来することにはまったくふれられない。それは問題にはならないのかと不審去らず。その戦争は国家として何を目的とし、それを追求・達成するための手段かという理論づけがなく、何のためにやる戦争かわかっていなければ、どこまでやる、どこで止めるかも決められないだろう。戦略のみでは、一回の戦争には勝てるかも知れないが、その次はどうか判らぬ。

(もとダイヤモンド社 1984年5月。中央公論社 1991年8月初版 1994年3月9版)