どうして現在の共産中国では原子論についてあんなに濁った態度を取るのだろう。すくなくとも原子と気は両立しない。速い話が、力学的側面がほとんど欠如している気(陰陽二気論)では、ニュートン力学(運動の法則)はどれ一つとして説明できないはずである。エンゲルスは『自然の弁証法』で原子の存在を認めているというのだが。これまで読んだことがないので目を通してみる。エンゲルスは口先の屁理屈が多くて嫌いなのだが、仕方がない。
それはともかく、読んでわかったのは、エンゲルスは、たしかによく勉強している――この著作は彼の自然科学勉強ノートといってもいい――、しかし勉強ノートにすぎないことである。原子についてはたしかに触れられている。しかしそれが自然科学(物理学と化学)の根幹を成す概念であることには理解がおよばなかったらしい(当時まだ存在は視認されていない。だが
ブラウン運動はすでに発見されていた)。
エーテルも同時に存在するものとして名を挙げていることでそれはあきらかである。ブラウン運動を特筆大書しないところに、この人物の自然科学に対する理解の浅さ――体系立っていない、ひとことで言えば雑学に留まる――が顕れている。所詮は形而上学である弁証法ですべてを律しよう、律することができる、というあたまが先にあるから、こんなことになるのだ。
原子とエーテルがこの世に併存するなら、気も在ったっておかしくあるまい。だから今日の中国ではいまだに気と原子論が両立しているのだろう。だがそれは、19世紀の科学水準だ。もしかして、エンゲルスが言っている以上、エーテルも認めているのか?もしそうだとしたら、それは笑えぬ冗談だぞ。
現代宇宙論にひきつづき特殊相対性理論をも否定するということだから。中国はどこへ行くつもりか。
(新メガ版 新日本出版社 1999年10月)