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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

松岡正剛の千夜千冊684夜 『天才と分裂病の進化論』デイヴィッド・ホロビン

2017年02月20日 | 哲学
 http://1000ya.isis.ne.jp/0684.html

 上は、私がいま読んだ同書の書評で、紹介したい。私が下手な感想を書くよりよほど意味があると思える。

 ヒトと類人猿を分けたもの、すなわち『意識』や『精神』にかかわる何らかの差異の発生の原因のひとつは、この皮下脂肪を司る生化学的な組成変化にあったということになってくる。これは以前から一部で唱えられていたことではあったものの、あまり深くは重視されてこなかった“事実”である。どうやら「脂質の化学」こそが「人間形成」の重要局面にあずかっているらしい。

 もしこの仮説が正しければ、ピンカーによるサピア・ウォーフ仮説への致命的な批判(言語は思考を規定するというがその言語を創りだしたのは思考ではないのかという)が決定的にその議論の基礎を失う物理的証拠となるのではないか

Bertrand Russell, "Problems of Philosophy" (1912)

2017年02月17日 | 哲学
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 冒頭'CHAPTER I'の第一段、"IS there any knowledge in the world which is so certain that no reasonable man could doubt it? "に始まる問題提起は、つまりは、理性reasonの概念と存在の自覚のないところに哲学philosophyもまたないということである。

  This question, which at first sight might not seem difficult, is really one of the most difficult that can be asked. When we have realized the obstacles in the way of a straightforward and confident answer, we shall be well launched on the study of philosophy -- for philosophy is merely the attempt to answer such ultimate questions, not carelessly and dogmatically, as we do in ordinary life and even in the sciences, but critically after exploring all that makes such questions puzzling, and after realizing all the vagueness and confusion that underlie our ordinary ideas.



山下正男 『新しい哲学 前科学時代の哲学から科学時代の哲学へ』 (その3)

2017年02月15日 | 哲学
 2015年06月08日より続き。

 一般に文章は大きく三種に分類される。(1)言語または記号間の関係を表現する文章,すなわち分析命題。たとえば「Aであり,そしてBであることは不可能である。」(2)経験的事実を報告する文章,すなわち綜合命題。「付きの表面には凹凸がある。」(3)(1),(2)のどちらでもない文章、すなわち情意文。たとえば「源氏物語」はすばらしい。」(3)の部類には倫理的文章(命令文)や美的文章(感嘆文)のほかに,いわゆる形而上学的文章が含まれる。例「人間は自由意思をもつ。」
 文章の以上のような三つの区分にもとづいて,学問全体を三種類に分けることができる。(1)分析命題の集まり,すなわち論理学,数学。(2)経験命題の集まり,すなわち物理学,化学,経済学,社会学等のいわゆる経験科学。(3)情意文の集まり,すなわち倫理,形而上学等。
 (「1 哲学の自訴的な理論」“文章の種類と哲学の三部門” 本書71-72頁)

 第三のタイプの文章である情意文は,分析的手続きと経験的手続きのどちらによってもテスト不可能である。したがってそれは文章ではあるが命題ではない。たとえば「ピカソの絵はすばらしい!」といった審美的文章,「倹約は美徳だから実行しなさい!」,「倹約は悪徳だからやめなさい!」といった倫理的な文章は,そのどちらが真でどちらが偽がを決めることはできない。こういった文章は各人の感情や意思の表明にほかならず,真偽の決められるようなものではない。〔中略〕それらはただ自己の感情の表明,信念の告白にすぎないのであり,したがって真偽を決することができないものである。〔中略〕真の科学的命題は分析命題か綜合命題かでなければならない。 (同上、73-74頁)

(培風館 1966年3月初版 1966年5月初版第2刷)

井筒俊彦訳注 "Lao-tzu: The Way and Its Virtue"

2017年02月07日 | 哲学
 出版社による紹介

 『老子』原本の暗示的な語彙・表現・文と、本来断片的であるがゆえに趣旨のはっきりしない文章(これはかなりの程度『論語』にも言えることだが)を、字面に正確に英語に変換し、しかしそれによる"オリエンタル”な神秘さ奇妙さを、出来るだけ押さえるホーリスティクな(つまりは訳者の読者としての主観的な)理解が、ぎりぎりの線でなりたっているかという感想。英語の訳文自体は英語としてまるで無理のない、傑作だと思う。巻末に付けられた訳者による英語による解題もしくは論文'APPENDIX'も素晴らしい。
 面白いのは、井筒先生は日本語で書いても英語で書いても、ことばから受ける印象がかわらないことだ。論理構成が一緒なのである。英語として文法的にも論理的にもまったくnaturalなのだが、修辞(論の順番や細部への言及のタイミングとその程度)が、先生の日本語と同じである。これは井筒語の英訳なのであろう。日本語が日本語訳であるように。先生は何語で思考されていたのだろう。それとも言語を使わなかったのか。

(慶應義塾大学出版会 2001年11月)

イブン・イスハーク著 嶋田襄平訳 「マホメット伝」

2017年01月24日 | 哲学
 『筑摩世界文学大系』9「インド アラビア ペルシア集」(筑摩書房 1974年3月)所収、同書205-249頁。

 冒頭すぐ、「そなたはこの民族の支配者を身ごもった」(206頁)というくだりがでてきて、翻訳というもののもつ難しさときわどさというものをあらためて感じた。現代日本語で言う“民族”とまったく同じものがその昔のかの地にあったはずはなし、それしか当つべき訳語がないとしても、アラビア語の原語彙は、何をどう指すことばだったのか。

 『荘子』「齊物論」のいわゆる“胡蝶の夢”の部分についての私見

2017年01月21日 | 哲学
 昔者莊周夢為胡蝶,栩栩然胡蝶也,自喻適志與!不知周也。俄然覺,則蘧蘧然周也。不知周之夢為胡蝶與,胡蝶之夢為周與?周與胡蝶,則必有分矣。此之謂物化。 (テキストは中國哲學書電子化計劃から) 

 この“胡蝶の夢”のくだりを、ウィキペディア同項は、「万物は絶えざる変化を遂げるが、その実、本質においては何ら変わりのないことを述べているのである」と、解しているけれども、どうだろう。
 「人間の精神と認識と知恵は有限だから、最初からわかるはずがないものを一所懸命ことわけて考えてみてもしかたがない」という意味なのではないかと、私は一読以来、思っている。どちらも自分であること、それだけは確かだ、ならばそれでよいではないかと。
 さらに個人的な印象を述べると、おそらく分析的に考え言挙げしようと思えばおそろしいほどにできるはずの男がそう言うところに、却っての重みと凄みがあると感じる。

清水幾太郎責任編集 『世界の名著』 33 「ヴィーコ」

2017年01月15日 | 哲学
 彼ら〔中国人〕は、温暖な気候のおかげで知能が繊細になり、驚くほど優美なものを生み出すようになったとはいえ、いまだに絵画に影をつけることを知らない。光は影があってはじめて映えるものである。 (「新しい学」「第一巻 原理の確立」 本書104頁)

 案外頭の固い人だなと感じた。知らないのではなくてあえてつけないのかもしれない、絵はかならずしも事象をそのまま写すためだけのものではない、写実性をもって絵画の価値を決定しない見方もありうる、といった、第三者的な発想は思いうかばなかったのであろうか。

(中央公論社 1979年6月)

『中国話本大系』「京本通俗小説(等五種)」

2016年12月26日 | 哲学
 書肆によるシリーズの紹介

 現代の白話文とそれほどの差異は感じない。かえってこれらより後に書かれた、例えばいまここにある『官場現形記』の方が、語彙・表現・構文において懸隔を感じる。簡単にいえば難しい。口語ではなく、また文言とも違う、ある種とっつきにくさを感じる。

(無名氏等原著、程毅中等校點 江蘇古籍出版社 1991年12月)