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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

與那覇潤 『翻訳の政治学 近代東アジアの形成と日琉関係の変容』

2016年12月14日 | 哲学
 題名の“翻訳”は、一般の意味における翻訳ではなかった。少なくとも翻訳者の営みではなく、関わりもほとんどない。

 参考:「中国化」の正体は、挙証責任を他へ丸投げする翻訳主義だったというオチ(『翻訳の政治学 - 近代東アジア世界の形成と日琉関係の形成』) 『仕事の日記』

(岩波書店 2009年12月)

Abductive reasoning - Wikipedia

2016年09月13日 | 哲学
 2016年09月13日「アブダクション - Wikipedia」より続き。

 https://en.wikipedia.org/wiki/Abductive_reasoning

  Peirce argues that good abductive reasoning from P to Q involves not simply a determination that Q is sufficient for P, but also that Q is among the most economical explanations for P. Simplification and economy both call for that "leap" of abduction.


 abduction (abductive reasoning)は、ヒューリスティックよりも勘intuitionに近いのではないか。 もしくは創造性creativity、独創性originality。
 これは、米盛裕二『アブダクション 仮説と発見の論理』(勁草書房 2007年9月)を読んでの感想でもある。同書、第四章「2 帰納とアブダクションの違い」「3 『帰納的飛躍と『仮説的飛躍』」、および第五章「1 科学的探究の三つの段階」(85-105頁)。勘の鈍い人間、創造性・オリジナリティのない人間には、逆さに振っても出て来ない何か。

理性 - Wikipedia

2016年08月21日 | 哲学
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%86%E6%80%A7

 理性(りせい、希: λόγος→羅: ratio→仏: raison→英: reason)とは、人間に本来的に備わっているとされる知的能力の一つである。言い換えれば推論(reasoning)能力である。

 知性と理性の区別はギリシア哲学におけるヌース(知・叡智)とディアノイア(dia 経由して + noia 知: 間接知・推論知)の区別に基本的には由来する。

宋元学案―卷十七横渠学案(上)

2016年08月18日 | 哲学
 テキストはここから。

 百家谨案:先生少喜谈兵,本跅弛豪纵士也。初受裁于范文正,遂翻然知性命之求,又出入于佛、老者累年。继切磋于二程子,得归吾道之正。其精思力践,毅然以 圣人之诣为必可至,三代之治为必可复。尝语云:「为天地立心,为生民立命,为往圣继绝学,为万世开太平。」自任之重如此。


 “为天地立心,为生民立命,为往圣继绝学,为万世开太平。”とは、「乃公出でずんば天地は収まらず、愚昧な民はおのれの生き方も為すべきことも判らず、馬鹿揃いの後進のおかげで失われた本来の正しい学問は再興せず、この世界に未来はない」という、いわば大言壮語にすぎないらしい。張載は、学者・思想家として実力はたしかにあったが、やや傲慢なひとだったようである。

近思録/卷10 -維基文庫

2016年08月18日 | 哲学
 https://zh.wikisource.org/wiki/%E8%BF%91%E6%80%9D%E9%8C%84/%E5%8D%B710

 48、人才有意於爲公,便是私心。昔有人典選其子弟系磨勘,皆不爲理。此乃是私心。人多言古時用直,不避嫌得。後世用此不得,自是無人,豈是無時?


 同じく巻12に「26、雖公天下事,若用私意爲之,便是私。」とあるが、公平にしようと思うことすら私意だというなら、意思と思惟を持った存在であるところの人間は畢竟何をしても私になる。人に公は絶対になしえない。それは自ら(=じつに)是れ人なしだからではなく自ら是れ理なしだからである。いったいに公案を聴いてるような趣きがある。

湯田豊 『ウパニシャッド 翻訳および解説』

2016年07月02日 | 哲学
 なんという分析的なことばであろう。
 そして、それと同時に、比喩が絢爛として用いられる。

 さて、神々は言語に対して言った――「われわれのために吟唱(ウドギータ)〔原文ルビ〕を歌え」と。「よろしい」と言って言語は彼らのために吟唱を歌った。吟唱を歌うことによって、それは言語の中にある効用を神々のために獲得した。 (『ブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッド』「第1章 3・2」 11頁)

 そしてさらに、AはBであると同時にBでないという、形式論理の観点から言えば矛盾律に外れる考え方もまたみられる。

 まことに、そこで彼が認識しない時に、まことに、彼は認識しているけれども、彼は認識しないのである。なぜなら、認識しているものの認識する能力の喪失は存在しないからである。
 (同上「第4章 3・20」 113頁)

(大東出版社 2000年2月)