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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

正岡子規 「水滸伝と八犬伝」

2017年07月05日 | 文学
 テキストは講談社版『子規全集』第14巻所収を。
 なるほど大人が誉めるはずだと思った。実際に数値的に個々両者の分析比較を為しているわけではないが、その視点と用意とはある。実証過程が欠けているからその面(定量的な分析と評価)については結論もしくは仮説だけしか呈されないけれども、各部分・段階の議論は定性的分析をほぼ完璧に行っている(つまり根拠となるテキストが正確に読めているということ)ので、あとは同様の例を集めて数の裏打ちをすればよいだけになっている。その結果彼が本論で引いた例が全体の集合の中の少数派と判れば彼の議論はひっくり返ることになるが、一例でも存在することはすでに証されている以上、全否定されることはもはやない。

 ところで子規は、同論考のなかで、白話小説を読むときは日本の漢字音でもいいからとにかく上から下へと読んでいけ、訓読しようとするとかえって理解のうえで良くないことが起こると注意している。流石だと思った。ただこれが、漢文の文法知識のある世代にかぎって通じるアドバイスであることもまた確かである。

張少康/汪春泓ほか 『文心雕龍研究史』

2017年05月08日 | 文学
 原題:张少康/汪春泓『文心雕龙研究史』。
 出版社による紹介。

 この書から判断する限り、『文心雕龍』の成立後20世紀ほぼ一杯までの中国(香港・台湾含む)、日本、韓国、欧米において、私が同書について問題と考えるテーマに関する先行研究は同じ北京大学出版社の『文心雕龍研究』を大学図書館で所蔵している第1輯から第11輯まで閲たところ、第2輯と第4輯にそれぞれ1本ずつ、完全に直接ではないが先行する参考研究がみつかった。1本は日本人研究者(門脇廣文氏)の漢語論文。

(北京大学出版社 2001年1月)

仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)とは - コトバンク

2017年04月06日 | 文学
 https://kotobank.jp/word/%E4%BB%AE%E5%90%8D%E6%89%8B%E6%9C%AC%E5%BF%A0%E8%87%A3%E8%94%B5-45770#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89

 『日本大百科全書(ニッポニカ)』の解説。

 名題は、いろは仮名の数に合致する四十七士の意味、武士の手本となる忠臣を集めた蔵の意味のほか、大石内蔵助の蔵を利かせたもの。

 丸谷才一氏が、大本はこの趣旨ながら、懇切丁寧に引き延ばした腑分けを、この題名について行っていたが(『忠臣蔵とは何か』)、丸谷式の分析・敷衍が正しいとして、この命名法は、修辞的にはどう分類すべきなのだろう。

吉川幸次郎 『元雑劇研究』

2017年03月02日 | 文学
 テキストは『吉川幸次郎全集』14(筑摩書房 1985年4月)所収のものによる。

 吉川氏は、元の雑劇ひいては元の文化状況一般を、清新の気に満ちたものとし、モンゴル人とその支配による伝統的な社会秩序の破壊、倫理の転換を、肯定的に評価される。当時の民衆勢力の伸張もまた、モンゴル・元支配によってもたらされた結果とする。
 (小松謙氏は、明の戯文につき、明代を元代の荒廃混乱から脱しかつ読書する知識人層が上はやや下がったかもしれぬが下方へおよ水平面的に拡大したという認識のもとで高く評価する。)
 吉川氏は、宋で確立した中国の伝統と社会に破壊と新生をもたらしたモンゴル・元時代がおわり明となって伝統的な社会と文化へと中国が回帰するなかで、雑劇がその持っていた愚直さと潑剌さとを失い、洗練と安定へと向かったのが戯文であるとして、戯文を中国戯曲史の下降局面と捉える。
小松氏はそうではない。)

William Shakespeare - Wikipedia

2017年02月26日 | 文学
 https://en.wikipedia.org/wiki/William_Shakespeare#Classification_of_the_plays

  Shakespeare's works include the 36 plays printed in the First Folio of 1623, listed according to their folio classification as comedies, histories, and tragedies.
 (7.1 Classification of the plays)

 つまりシェイクスピアは自作の劇をこれは喜劇、これは史劇、これは悲劇、あるいはこれは問題劇と、自分で分類したわけではないということだ。すべて後人の手によるものである。

上村勝彦 『インドの詩人』

2017年02月24日 | 文学
 「詩人」とはバルトリハリビルハナ
 「まえがき」が、最初から喧嘩腰である。

 学問研究において、感受性などは無用の長物であるように思われる。〔...〕欧米から移植された『学問』の権威を頭から信じることができず、自分自身の問題でもないことに血道を上げて何になると考えるような人は、一流の専門家にはなれないのである。だから、学者たるものは、すべからく感受性を抹殺しなければらない。

 思い半ばに過ぎるものがある。

(春秋社 1982年5月)