テキストは講談社版『子規全集』第14巻所収を。
なるほど大人が誉めるはずだと思った。実際に数値的に個々両者の分析比較を為しているわけではないが、その視点と用意とはある。実証過程が欠けているからその面(定量的な分析と評価)については結論もしくは仮説だけしか呈されないけれども、各部分・段階の議論は定性的分析をほぼ完璧に行っている(つまり根拠となるテキストが正確に読めているということ)ので、あとは同様の例を集めて数の裏打ちをすればよいだけになっている。その結果彼が本論で引いた例が全体の集合の中の少数派と判れば彼の議論はひっくり返ることになるが、一例でも存在することはすでに証されている以上、全否定されることはもはやない。
ところで子規は、同論考のなかで、白話小説を読むときは日本の漢字音でもいいからとにかく上から下へと読んでいけ、訓読しようとするとかえって理解のうえで良くないことが起こると注意している。流石だと思った。ただこれが、漢文の文法知識のある世代にかぎって通じるアドバイスであることもまた確かである。
なるほど大人が誉めるはずだと思った。実際に数値的に個々両者の分析比較を為しているわけではないが、その視点と用意とはある。実証過程が欠けているからその面(定量的な分析と評価)については結論もしくは仮説だけしか呈されないけれども、各部分・段階の議論は定性的分析をほぼ完璧に行っている(つまり根拠となるテキストが正確に読めているということ)ので、あとは同様の例を集めて数の裏打ちをすればよいだけになっている。その結果彼が本論で引いた例が全体の集合の中の少数派と判れば彼の議論はひっくり返ることになるが、一例でも存在することはすでに証されている以上、全否定されることはもはやない。
ところで子規は、同論考のなかで、白話小説を読むときは日本の漢字音でもいいからとにかく上から下へと読んでいけ、訓読しようとするとかえって理解のうえで良くないことが起こると注意している。流石だと思った。ただこれが、漢文の文法知識のある世代にかぎって通じるアドバイスであることもまた確かである。