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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

須賀敦子 「書評・最新書評 : 戦争の悲しみ バオ・ニン著」

2017年12月05日 | 文学
 http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2011072803810.html

 書評された本の表紙の写真にあるように、この日本語訳はベトナム語原書とともに、英訳をテキストに用いている。その比較の過程で、英訳版に「かなり重大な誤訳と省略部分」「ミス」がある事実を、訳者井上氏は末尾の「解説」で報告する。だが氏が証拠としてあげるいくつかの実例を見る私の目には、誤訳やミスどころか、これはなんらかの理由にもとづく意図的な改変なのではないかとさえ思える、いわば“ひどさ”なのであった。
 それはさておき、その井上氏は、このこととともに、英訳本の「下訳」では某日本人女性〔名前が挙げられている〕の、「原作との照合」で東大留学中の某ベトナム人女性〔同上〕の、それぞれ「協力を得た」と、記されている。では氏御本人はこの翻訳において何をなされたのだろうか。

12月6日追記
 氏は、もちろん「解説」を書かれている。それも入念で力の籠もった内容であり、作品の紹介と同時に――言うなればそれの必然として――ベトナムという国家について、目配りとメリハリとのじつに効いた、同国現代史の周到かつ明快な概説ともなっている。

小尾郊一 『中国文学に現れた自然と自然観 中世文学を中心として』

2017年07月29日 | 文学
 漢代の賦に現れた自然描写は、賦自身が、おおむね作者の学力を誇示するために作られたため、奇字妙句の羅列に終り、真の自然美を描写することからは、かえって遠ざかってしまい、机上の空想の作、文字の遊戯に終ってしまった。 (「第一章第三節 賦と自然」本書233頁)

 要するに詠物詩は、ある一つの事物の形態について、考えられるだけのことを書くという、作者の思考力の限界を示すことに興味があると言えよう。つまり眼前の感動を受けた姿のみを描くのではない。 (同、247頁)

 客観的事象を専一にとらえるようになっても、いまだオレはオレは状態は完全には脱しきっていないということである。
 なお続く以下の指摘が個人的には非常に面白い。

 これはあたかも、六朝の義疏学は、ある一つの事についての証明に、考えられるだけのことを考え、議論のありたけを尽くすのとよく似ている。 (同、247頁)

(岩波書店 1962年11月)

網祐次 『中国中世文学研究 南斉永明時代を中心として』

2017年07月29日 | 文学
 詩は元来、志を言ふ(尚書舜典)もので、直接に之を述べることもあるが、寧ろ外物に託する場合が多い。然るに一方では、志ならぬ一物を対象とし、それを中心として述べて一篇を成す詩も、次第に現はれた。 (「補篇第二章 詠物詩の成立」本書449頁。原文旧漢字)

 これはつまり、なんでもオレはオレのオレにオレをのいわば自己中状態から、虚心に世界を眺め坦懐に耳を傾けることができる状態へ進境したということかな?

(新樹社 1960年6月)

許槤評選 黎經浩箋注 『六朝文絜箋注』―維基文庫

2017年07月25日 | 文学
 六朝文絜箋注 - 维基文库

 箋注とは要は注釈のことだが、その注釈を見なくてもそのまま原文を読めば文意は通じる個所が大部分を占めると思える。そもそもこれは本文読解の助けになる為に付けてあるわけではないようだ。たんに注釈者のセンスがよくないか、あるいは読者のことなど考えない、「俺はこれだけ物を知っている」という自己顕示のためということが考えられるが、もうひとつ、denotationではなくconnotationを重視した註解かもしれない。あるいはassosiation。これは、やや好意的に過ぎる解釈かもしれないものの、畢竟は当たらずといえども遠からずのところかもしれない。ふつうに考えると、語釈以外、無意味無駄と思える注釈が異常に多い。こちらの頭が現代人だからその意義や必要性が解らぬのではないかと、自分の足下から疑っている。

門脇廣文 『文心雕龍の研究』

2017年07月24日 | 文学
 出版社による紹介

 「体―用」の関係を「本質―現象」のそれとする見立ては魅力的である。そしてさらに、その現象世界全体の本質を「道=天理」、個別の物や事の本質としての「理」と、ふたつに分ける。それらはともに、経書と緯書の内容であり、文章においては論理的側面すなわち実質的内容として現れる。すなわち「義」である。「情」「気」、また形式に関連する「言」「辞」「喩」「文(采)」といった言葉もしくは概念と対置される。もしくはときにそれらすべてを包摂した上位の概念として用いられる。

(創文社 2005年3月)

門脇廣文 『文心雕龍の研究』

2017年07月24日 | 文学
 出版社による紹介

 「体―用」の関係を「本質―現象」のそれとする見立ては魅力的である。そしてさらに、その現象世界全体の本質を「道=天理」、個別の物や事の本質としての「理」と、ふたつに分ける。それらはともに、経書と緯書の内容であり、文章においては論理的側面すなわち実質的内容として現れる。すなわち「義」である。「情」「気」、また形式に関連する「言」「辞」「喩」「文(采)」といった言葉もしくは概念と対置される。もしくはときにそれらすべてを包摂した上位の概念として用いられる。

(創文社 2005年3月)

賦 - 維基百科

2017年07月05日 | 文学
 原題:赋 - 维基百科

 この「賦」というジャンルもしくはスタイルの由来も存在理由(当初の)も、私にはよく解らない。「『詩』は志を述べるもの」と言われるが、ここでは賦もそうとしてある。違うと思っていた。全くとは言わないが、一言で表すとすれば。
 『アジア歴史事典』(平凡社 1961年10月)同項には、これ(維基百科)とはすこし異なる説明が書いてある。

 ものごとを舗陳直叙(そのままにのべつらねる)することであった。 (第8巻、目加田誠執筆)

 志ではなく事を、そして直叙するのが賦であるというのである。