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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

Ruth Scodel, "An Introduction to Greek Tragedy"

2017年02月20日 | 文学
出版社による紹介

 アリストテレスの『詩学』における悲劇の定義と理解を、「自分の思想体系における“悲劇とはかくある(べき)もの”という見方に引き寄せすぎている(Aristotlean)」と批評・批判している。その一方で、“ギリシア悲劇”について、とどのつまり古代ギリシアで悲劇と呼ばれていたものが悲劇であるとしか言いようがないという見解が提出される。定義ができない、内包が析出できないということである。

(Cambridge Univ. Press, Aug. 2010.)

久保朝孝編 『王朝女流日記を学ぶ人のために』

2016年12月05日 | 文学
 テキストを読むという、その方法論を学ぶために。できればテキスト作者の性差によるその差異の有無も含めて確認したかった。結果としては、これは学ぶべきだというところと、それはどうかという部分とがあり。「なるほど、そうやって、そこまでやる、やれるのか」という部分と、「それは客観的に裏付けできない、ちょっと主観的にすぎないか」と思わされる部分と。性差による方法論の違いはなさそう。というより、このアプローチでは差は出てこないだろう。性差を想定していないやりかたである。それともあるいは、分析の対象が女性であることを前提としたうえでの方法論なのかもしれない。ではこれで『土佐日記』を、どう捌くだろうか。興味がある。

(社会思想社 1996年8月)

杜牧  「隋宮春」

2016年12月05日 | 文学
 龍舟東下事成空
 蔓草萋萋滿故宮
 亡國亡家爲顏色
 露桃猶自恨春風

 第三句転句の顔色は、(美しい)容貌の意味だが、これは美女の比喩だと解釈する向きがある。本当だろうか? 比喩だとすると隠喩もしくは提喩になるが、どちらか。そもそも比喩と考えないでも「美貌」で通るのだが。だいいち漢語(古代漢語)の転義法に隠喩は措いて提喩synecdocheがあるかどうかわからない。すくなくとも私には確信がない。

鍾嶸 『詩品』

2016年11月20日 | 文学
 曹旭注『詩品集注』で読む。
 「序」以外しょうもない。「いい」「わるい」「すばらしい」といった、範囲も意味内容も限られた価値判断の形容句と評価ばかり、あとそれを補うために感じだけの擬態語、そして読み手への説得力を増すための典拠のおびただしい使用。具体的にどこがどうだからそうだという説明がないからしょうもないと言った。その原因は、そのための発想と語彙表現がなかったからではないか。

(中国 上海古籍出版社 1994月10月)

夏目漱石 「満韓ところどころ」

2016年08月25日 | 文学
 テキストは藤井淑禎編『漱石紀行文集』(岩波書店 2016年7月)所収。

 恥ずかしいが初めて読んだ。読んでみると、山は“山”であり、宿屋は“宿屋”であり、彼地の家の部屋は“座敷”“応接間”であり、飯は”飯”である。馬車は“馬車”であり船は“サンパンと云う船”であった。これでは頭に絵が描けない。

陸凌霄 『越南漢文歴史小説研究』

2016年08月13日 | 文学
 内容紹介

 一、『皇越春秋』について、『三国演義』あるいはその原型である『三国志平話』の構造にならっているという指摘。(第一、第三章)
 二、だが『皇越春秋』およびここで取り上げられたその他作品の"漢文”(文言文および旧白話文)の文体に関する考察はなされない。それに関連して、古代漢語が正則漢文(文言文)であるか変体漢文であるかを判定する議論はない。(第三、第八章)
 三、『越南開国志伝』の特異な年代表記法(黎朝の元号+干支+元号の年数)についての言及はない。(第五章)

(民族出版社 2008年8月)

夏目漱石著 櫻庭信之校注 『新装版 文学評論』

2016年07月07日 | 文学
 全篇話し言葉の講義原稿だが、自らの覚書のような、単語やアイデアをただ並べたようなところはひとつもなく、書き言葉として、それが一個の文として、また各編が一篇の文章として、そして各編のみならず全体としても完成している。講義者はこれをただ読みくだせば講義として完了するであろう。だがここまで完璧な原稿を事前に用意した漱石は、いざ現実の講義においてどうモチベーションを維持したのだろう。同じく講義を業とする者として深甚なる興味を抱く。

 今年は英文学史の十八世紀だけを講義するつもりであるが、講義を始めるまえにちょっとお断りをしておかねばならぬことがある。元来一世紀の文学と題するゆような大問題を捉えて論ずるにはこの問題をいかに取扱うかという覚悟がなければできんのである。しかしこの覚悟ができるにはそれ相応の準備がなくてはならぬ。単に空想や空理で文学史を組織するわけにはゆかぬのはむろんのことであって、まず研究の手始めとして批評なら批評、比較なら比較、または叙述なら叙述、いずれにしても十分な材料を貯蓄してかからねばならぬ。〔後略〕
 (「第一編 序言」本書21頁)

(講談社学術文庫 1994年11月)