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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

Dai Zhen〔戴震〕, Wikipedia ほか

2018年09月30日 | 東洋史
 https://en.wikipedia.org/wiki/Dai_Zhen

  Second, he criticized the Neo-Confucian drive to eliminate human desire as an obstacle to rational investigation. Dai argued that human desire was a good and integral part of the human experience, and that eliminating human desire from philosophy had the bad effect of making it difficult to understand and control one's emotions as well as making it impossible to establish empathy with others.


 たとえば『孟子字義疏証』の該当個所を平板に要約すればこうなるだろうし、さらに英語ではこういう方向に引きつけて訳さないと英語として不自然にもなろう。
 ちなみにロシア語版(“Дай Чжэнь”)の説明のほうは、さらに、それはちょっとどうかと思われることが書いてある。ただしこちらは表現の手段たるロシア語の問題ではなく解説者の漢文読解能力の問題であると思う。

  «Принцип» 〔「理」のロシア語訳。規則、原則の意〕— то неизменное, что специфично для «индивидуальной природы» каждого человека и каждой вещи, высший предмет познания. В отличие от предшествовавших неоконфуцианцев Дай Чжэнь считал, что «принципы» в явном виде не присутствуют в человеческой психике — «сердце» (синь1), а выявляются с помощью глубинного анализа. Способности людей к познанию, по Дай Чжэню, различаются подобно огням с разной интенсивностью свечения; эти различия отчасти компенсируются обучением. Дай Чжэнь обосновывал приоритет эмпирико-аналитического подхода как в познании, так и в практике.  (下線は引用者)

 漢語版はさすがと思わさせる出来である。原文を丁寧に読めばそういうことを言っていると思い至るという意味である(下記下線部参照。ただそこに書かれている全部に賛同するわけではない)。

  戴震對道學的批判,延續了清初王夫之等人的套路,在文字、考辨的基礎上,提出了人乃血氣之軀,道德也無非“不過”、“不及”之論,是人類天性的合理調節,是自然需要的合理表達,由此改變了体用兩分,倫理為体,人慾為氣,由私欲害理推導出理慾對立的本體論,恢復儒學本來面目和倫理的原初意義。
  在否定了朱熹的形而上學本體論的過程中,戴震發揮了張載以來所形成「天道-性-人道」体用一體的説法,形成了「天道論」這一世界圖式。由此戴震得出結論:天道無非氣化流行之變,「氣」即「道」,体用唯一的説法:「形而上」之「道」,即「未成形質」以前之「氣」;「形而下」之器,即「已成形質」以後之物,形式與質料互為條件,陰陽消長相為基礎,理學所謂「理在事先」不過是私心自用,偏執形式而已。戴震這一對体用一體的繼承所發展出來的「天性論」充滿了人性的關懷和肯定,極大地解放了籠罩「去人欲、存天理」的理學桎梏之下的人心思想。同時,戴震與章學誠並稱清代學術史與思想史上兩大高峰,以漢學為宗,發揮了六經皆史的治學方法,開創了儒家學術思想由「尊德性」向「道問學」的歷史轉向。
 (下線は引用者)

日原利国編『中国思想辞典』「体用」項(山崎道夫執筆)

2017年07月01日 | 数学
 2017年07月01日「島田虔次「體用の歴史に寄せて」」より続き。

 体と用は「事物の本体とその作用,または原理と現象」と説明してある(。先ほどの「本質」よりも「原理」のほうが宜しかろう。ただし「体と用とは,天と人とも置き換えられる」(同項)ともあって、するとつまり、体」=「理」という理解が成り立つ。「理」という「原理」である。こうしてみれば「体用一源」(体と用のもとは一つで区別はない)という議論も、「理と気は分けられない」という議論と並行したものであるという納得がいく。さらには、理と気の(因果)関係に時間の要素が乏しいわけもまた。
 土田健次郎氏の『道学の形成』(創文社2002/12)では、朱子の言説において「性」=「体」だとする(「第5章 道学と佛教・道教」277頁)。朱子は人間一人一人の裡にある理を性と呼ぶからこれは当然だが、著者は「知」は「用」であるとし、この構図が「朱熹の基本」であると注意される。

(研文出版 1984年4月)