ヘルマン・ヘッセ著 高橋健二訳 『クヌルプ』 2018年05月30日 | 文学 出版社による紹介。 別の方の翻訳で読んだが、高橋訳で読み直してみる。いつのどの翻訳作品についても言えることだけれど、訳し手と、その選ぶ文体によって、おなじ原作原書でも印象がずいぶん異なってくるものだ。 (新潮社 1955年4月)
芳川泰久「収容所のプルースト (境界の文学) 書評|ジョゼフ・チャプスキ(共和国)」 2018年05月30日 | 文学 副題「いまこそ日本で読まれるべきプルースト論」 該書につき、出版社による紹介。 生きるため、人間としての存在と尊厳を保つためという切実で切迫した事情と理由があったにせよ、「人というのは不思議なもの」という畏敬の感情をぬぐいさることはできない。著者や周りの人間が守ろうとする「人間であること」とは何かへも、思いを馳せさせる。
プリーモ・レーヴィ著 竹山博英訳 『休戦』 2018年05月23日 | 文学 出版社による紹介。 竹山氏訳でレーヴィはいくつか読んでいたが、これは始めて。「訳者解説」の、レーヴィの死の理由についての考えられる“理由”が、もしそれが自殺であったとするならばだが、短いが端的と思える。 (岩波書店 2010年9月)
某御大訳のチェーホフをぱらぱらと見る。・・・ 2018年04月23日 | 文学 某御大訳のチェーホフをぱらぱらと見る。「かもめ」など。訳の世界が原文の雰囲気とさして変わらぬのは流石と思うが、「です/ます(わ)」「ね」「でな」などの登場人物ごとに選ばれ使い分けられる話し言葉の語尾で、こんなふうは原作にはないと違和感がわき起こる。
古田敬一/福井佳夫 『中国文章論 六朝麗指』 2018年04月23日 | 文学 出版社による紹介。 第五節「比興と六朝文」の「語釈」で“比興”の比は比喩、興は象徴にほぼ相当すると説明してある(【詩有六義】項、本書27頁)。ほぼ相当するというのはほぼ相当するだろうが、正確にはそれでいいのかという気もする。 また、第三十五節を、古田・福井両先生のお助けを借りつつ読んで、御両所には申し訳ないながら、孫德謙(1865-1935)という人は暗記の勉強がすぎて頭が鈍くなったのではないかと思った。 (汲古書院 1990年3月)
福井佳夫 『六朝の遊戯文学』 2018年04月19日 | 文学 出版社による紹介。 文学のむずかしさがありありとわかる。つまるところ、「私はこう思う、感じる」「こう読んだ」「こんな印象を受けた」になってしまう。論者の感性と結論に、それを客観的に裏打ちすべき方法論が追いついていないのである。 (汲古書院 2007年10月)
興膳宏 「『宋書』謝霊運伝論をめぐって」 2018年04月19日 | 文学 『東方学』59、1980年1月掲載、同誌44-61頁。 同伝のなかの“以文被質”という文の解釈を聴きたかったのだが、「文を以て質を被らしむ」と訓読されているのみだった。“気質”は「気質」とカッコに入れてある。それが何を意味しているのかよくわからない。
福井佳夫 『六朝文評価の研究』 2018年04月17日 | 文学 出版社による紹介。 本書349-350頁に、私にとって重要きわまりない先学の指摘がなされている。蕭統『文選序』の文章においては比喩が「論拠として作用し」、「論理の一環として使用されている」。第七章の三「論理としての比喩」。 (汲古書院 2017年1月)
小西甚一 『中世の文藝』 2018年04月15日 | 文学 出版社による紹介。 著者は一般に和漢混淆文と呼ばれる文体をさらに二分して、漢語が“雅”ならざる漢語のまま使われるものと、和文脈のなかに漢語を融合させた“雅”なる和漢融合文とに分ける。その例として宴曲(早歌)と『方丈記』が挙がる。 (講談社学術文庫版 1997年12月)
小西甚一 「海外における『源氏物語』」 2018年04月15日 | 文学 書誌情報はこちら。 テクストは『批評集成・源氏物語』4「近代の創見」(ゆまに書房1999/2)収録のものを読む。研究者として小西先生の両訳、とりわけウェイリー訳への評価とスタンスに、また翻訳者としてウェイリーのスタンスに、100%賛成である。