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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

柳宗元 「駁復讎議(復讐を駁する議)」

2013年11月27日 | 文学
 『唐宋八大家文』所収。(維基文庫にテキストあり)

 どうも論理が分かりにくい。韓愈に比べ柳宗元は文体がやや難しいと感じる。だがこの晦渋さは其処に由来するものではない。これは、究極的には「忠ならんと欲して孝なりえるか」という本来両立しがたい二つを、なんとか両立させようとする議論だから、論理が晦渋になるのは当り前なのである。
 ネットで同名で検索してみたところ、いくつかの関係文献や專論が浮かび上がった。
 そのうち年代的に古くかつ基本的なものとしては桑原隲藏「支那の孝道殊に法律上より觀たる支那の孝道」がある。これは題名の示すごとく、柳宗元の同文がテーマとしている「親への孝と復讐(が社会にもたらす秩序の不安と破壊ひいては国家・君主の法体系への服従の否定)の対立」という問題をそのまま真っ向から取り上げて論じたものである。なるほど論点の整理には役だったが、柳の文体の難しさには変わりはない。それに柳が結句どうしたいのかが、依然としてよく分からない。孝ならんと欲して忠ならずになっても良いと言っているのか。そしてそれを防ぐために、礼と刑とを概念として分離し、そのことにより、この場合刑の適用と執行を停止せよといっているのか。
 閑話休題。近年、「復讐を駁する議」を研究する向きにおいては、忠義と孝行の対立という伝統的な視点から離れて、韓愈「原道」の先蹤にならって儒学思想の転換、或いは宋代以降の新儒学との間に何らかの関連を見ようという傾向があることを知った。その一つに宮岸雄介「中唐の古文思想にあらわれた儒学の新傾向 : 韓愈と柳宗元の対話の一断面」がある。この問題については、私も柳宗元の文章を自分で読んでみてこの点に関しいくつか気がついたこともあるが、たいへん面白い視角だと思った。

 参考。
 桑原隲藏「支那の孝道殊に法律上より觀たる支那の孝道」(青空文庫)関連部分。

 唐の則天武后の時代に、徐元慶がその父の仇と稱する趙師韜を殺害して自首した。この事件の處置を評議した時、陳子昂は次の如き意見を主張して居る。
 (一)父の爲に復讎するは、孝子として當然の行爲で、既に禮經に是認する所である。この點よりいへば、徐元慶の行爲は、奬勵を加ふべきものである。
 (二)されど殺レ人必殊とは古今を通ぜる刑法の精神で、又治安の要諦である。この點よりいへば、徐元慶の行爲は、刑罰を加へねばならぬ。
 以上の二の理由を併せ考へ、徐元慶は死刑に處して國法を正し、然もその門閭や墓所に旌表を加へて、禮教を奬めるがよい。此の如くすれば、禮と刑との精神を、倶に傳へることが出來る。これが陳子昂の意見で、この意見が採用實行された(『新唐書』卷百九十五、孝友傳參看)。
 されどこの處分に就いては、後に柳宗元がその駁二復讎議一(『柳河東集』卷四)に反駁を加へて居る。柳宗元の意見では、禮と刑とは、一致せなければならぬ。旌表と誅戮とは、一致することが出來ぬ。禮として旌表すべき者を誅し、刑として誅戮すべきものを奬めては、國民をして適從する所に迷惑せしむといふのである。柳宗元の非難は正しい。則天時代の朝廷が、かかる不徹底な處分を採つた所以は、畢竟するに、復讎に就いて確たる定見がなく、常に進退兩難の状態に立つ支那官憲の窮餘の一策に外ならぬ。その窮策の裡にも、彼等の孝道に對する苦心は諒とすべしと思ふ。
『唐律』には復讎に關する處分を載せてない。復讎事件が發生する毎に、朝臣を會し、その意見に聞いて處分した。韓愈に「復讎状」(『韓昌黎集』卷卅七)一篇がある。こは憲宗時代に起つた、復讎事件に關する彼の意見書である。彼の意見の大要は、復讎を禁止しては徳教上面白くない。さればとて之を公認しては、治安上面白くない。國家の法律に復讎に關する條文を明記してないのは、意味深長と思ふ。事件の發生した場合に、群臣會議し、事理を盡くして、處置すべしといふに歸する。

鈴木比佐雄/若松丈太郎/グエン・クアン・ティウ編 『ベトナム独立・自由・鎮魂詩集175篇』

2013年11月18日 | 文学
  翻訳:冨田健次、清水政明、グエン・バー・チュン、ブルース・ワイグル、郡山直、   矢口以文、結城文、沢辺裕子、島田桂子。

 「序」をへて、本文部は、無名氏「南国山河」より始まる。
 
  南國山河南帝居 (南国の山河は南帝の居)
  截然分定在天書 (截然として分かち定むるは天書にあり)
  如何逆虜來侵犯 (如何にして逆虜は来たりて侵犯す)
  汝等行看取敗虚 (汝等行きて敗虚を看取せよ) →参考

 モンゴル・元侵攻時の抵抗詩を経て、中国明による第二北属期を終わらせた宣言「平呉大誥」、清代乾隆帝の侵略時の抵抗詩、そしてフランスまた米国とのたたかいを詠う詩が続く。
 日本および韓国の詩人によるベトナム戦争反戦詩も収録されている。日越国交樹立四十周年を紀念しての出版とのこと。→参考

(コールサック社 2013年8月)

韓愈 「殿中少監馬君墓誌」

2013年11月15日 | 文学
 (『唐宋八大家読本』所収。維基文庫にテキストあり)

 最後の一文の意味がよくわからない。文章の構成上、その少し前の部分から挙げる。

  嗚呼!吾未耋老,自始至今,未四十年,而哭其祖子孫三世,於人世何如也!人欲久不死,而觀居此世者,何也?

 問題としたいのは下線部である。
 通常は、「人久しく死せざるを欲して、而も此の世に居る者を観るは何ぞや」と訓読するようだ(例えば有朋堂文庫、岡田正之『唐宋八大家文』)。あるいは「観るに何ぞや」(中国古典選、清水茂『唐宋八家文』)。だがいずれにせよ、文意がよく分からない。「長生きをしたいと思いながら、この世に生きる人間を眺めるのは、何だろう」というのはいったいどういう意味なのだろう。
 まず考えられるのは、その前にある「於人世何如也」の句から考えて、ここの「何也」も、「何如也」で、つまり「如」の字が脱けているのではないかということである。これはすでに先人の指摘がある(漢籍国字解釈全書、松平康国『唐宋八大家文読本』による)。しかしそれでも意味は相変わらずはっきりしない。

 ここで引用部分をすべて訓読してみる。ただし必ずしも伝統的なそれには従わない。

 嗚呼、吾未だ耋老(年老いる)せず。始めより今に至るまで未だ四十年たらずして、其の祖と子と孫との三世を哭す。人世に於ける何如ぞや。人久しく死せざるを欲して、而も此の世に居る者を観るは何如ぞや。

 前の「人世に於ける何如ぞや」の意味は明白である。「なんという世の中か」。だが後者は「何」を「何如」に入れ替えても依然としてよく分からない。いや「どういうことだろう」というそれ自体の意味は明らかだ。つまりは、その主語となる「人久しく死せざるを欲して、而も此の世に居る者を観るは」が不分明であることがすべての原因なのである。
 先に名を挙げた清水茂氏は、ここの解釈として二つをあげておられる。
 1.この世の人々が死なないもののごとく考えて平常くらしていることが不思議である。
 2.人が死なないで、他人が次々と死に行くのを見ようとするのは、どういうつもりだろうか(知り合いの死ごとにその悲しみに堪えぬであろうに)。
 ちなみに岡田正之氏の解釈は1のほうに近い。
 清水氏は、それぞれ理由をつけてこのどちらの解釈も退けている。そしてご自身の解釈は示しておられない。つまり分からないとされたわけである(同書第1巻、143頁)。
 私は、「人欲久不死,而觀居此世者,何也?」の部分は、衍文ではないかと疑っている。必要ではないからだ。「於人世何如也!」で終わっても、何も問題はない。

韓愈 「柳州羅池廟碑」

2013年11月14日 | 文学
 (『維基文庫』にテキストあり)

 文中の「辞」で、「兮」が使われている。碑文だから散文とは異なり、韻も踏むし、駢文ほどではないにせよ美文であることに変わりはないのだから、おかしくはないといえばおかしくはないのだが。「・・・自今兮欽於世世(今より世々に欽まん)」。ちなみにこの文章は、その由来を述べる部分と、最後の「辞」(言うなれば碑文の本体部分)から成っている。
 有朋堂漢文文庫『唐宋八大家文』の注釈を担当した著者岡田正之氏は、最後の「秔稌充羨兮蛇蛟結蟠我民報事兮無怠其始自今兮欽於世世」を、「秔稌充羨兮蛇蛟結蟠。我民報事兮無怠。其始自今兮欽於世世(其れ今より始めて世々に欽まん)。」と句読を切っておられる。だが、それではその前の「秔稌充羨兮蛇蛟結蟠」が四字兮四字型であるのに四字兮二字になって、対句にならないとはいわないまでも、釣り合いと調子が取れなくなって行文のリズムが崩れる。
 ここは、たとえば、上に挙げた維基文庫におけるそれがそうなっているように、「我民報事兮無怠其始。自今兮欽於世世。」と切るべきではなかろうか。
 ただその場合、「自今兮欽於世世」の据わりが悪くなるのと(二字兮四字の文型は碑文中皆無)、あと「無怠其始」の意味が、少なくとも私には、よく判らなくなる。「其の始めを怠らざれ」では、それ以後は怠ってもいいのかということになってしまうだろう。だから続けて「自今兮欽於世世」とあるのだと言えばそれまでだが。
 だがもしそうならば、「自今兮欽於世世」の訓読(というより解釈)は、「今より世々に欽(つつし)まん」ではなく「今より世々に欽めよ」のほうがよくはないか。主語あるいは呼びかける相手を「我民」と取ってだ。

 全文、長くもないので以下に掲げておく。博雅の士の御教示を賜れれば幸甚である。

羅池廟者,故刺史柳侯廟也。柳侯為州,不鄙夷其民,動以禮法。三年,民各自矜奮曰:「茲土雖遠京師,吾等亦天氓,今天幸惠仁侯,若不化服,我則。」

於是老幼相教語,莫違侯令。凡有所為於其鄉閭及於其家,皆曰:「吾侯聞之,得無不可於意否?」莫不忖度而後從事。凡令之期,民勸趨之,無有後先,必以其時。於是民業有經,公無負租,流逋四歸,樂生興事。宅有新屋,步有新船,池園潔修,豬牛鴨雞,肥大蕃息。子嚴父詔,婦順夫指,嫁娶葬送,各有條法,出相弟長,入相慈孝。先時,民貧以男女相質,久不得贖,盡沒為隸。我侯之至,案國之故,以傭除本,悉奪歸之。大修孔子廟。城郭巷道,皆治使端正,樹以名木。柳民既皆喜。

常於其部將魏忠、謝寧、歐陽翼飲酒驛亭,謂曰:「吾棄於時,而寄於此,與若等好也。明年,吾將死,死而為神。後三年,為廟祀我。」及期而死。三年孟秋辛卯,侯降於州之後堂,歐陽翼等見而拜之。其夕,夢翼而告之曰:「館我於羅池。」其月景辰,廟成大祭,過客李儀醉酒,慢侮堂上,得疾,扶出廟門即死。明年春,魏忠、歐陽翼使謝寧來京師,請書其事於石。餘謂柳侯生能澤其民,死能驚動禍福之,以食其土,可謂靈也已。作《迎享送神詩》遺柳民,伸歌以祀焉,而並刻之。

柳侯,河東人,諱宗元,字子厚。賢而有文章。嚐位於朝,光顯矣,已而擯不用。其辭曰:

荔子丹兮蕉黃。雜肴蔬兮進侯堂。侯之船兮兩旗。度中流兮風泊之。待侯不來兮不知我悲。侯乘駒兮入廟。慰我民兮不嚬以笑。鵝之山兮柳之水。桂樹團團兮白石齒齒。侯朝出遊兮暮來歸。春與猿吟兮秋鶴與飛。北方之人兮為侯是非。千秋萬歲兮侯無我違。福我兮壽我。驅鬼兮山之左。下無苦濕兮高無幹。秔稌充羨兮蛇蛟結蟠。我民報事兮無怠其始。自今兮欽於世世。

韓愈 「送孟東野序(孟東野を送る序)」

2013年11月09日 | 文学
 (沈徳潜『唐宋八家文読本』巻四所収)

 文中、以下のようにある。

 樂也者,鬱於中而泄於外也,擇其善鳴者,而假之鳴。金、石、絲、竹、匏、土、革、木八者,物之善鳴者也。維天之於時也亦然,擇其善鳴者而假之鳴;是故以鳥鳴春,以雷鳴夏,以蟲鳴秋,以風鳴冬。

 天は四時万物から己の音を尤もよく出す物を選んで楽器の如く鳴らす。
 韓愈は人もまた然りと言う。

 人聲之精者為言;文辭之於言,又其精也,尤擇其善鳴者而假之鳴。 其在唐虞,咎陶、禹其善鳴者也,而假以鳴。夔弗能以文辭鳴,又自假於韶以鳴。夏之時,五子以其歌鳴。伊尹鳴殷,周公鳴周。凡載於詩書六藝,皆鳴之善者也。

 人の精神も、その人の体をして鳴らしめると。鳴るとは即ち、言葉によってである。人体を楽器に喩える発想を面白く思った。『アクターズ・スタジオ』のインタビューでアル・パチーノが語っていた演技の何たるかに、奇しくも符合していたからだ。「楽器を通して表現している感じだ。」自らの感情や精神をである。音声を含む己の肉体を、手段・道具にしてだ。
 「実生活で取り乱せば地獄を見るが、舞台の上では承知のうえだから平気だ。」
 と、彼は言った。承知の上とはストーリーが決まっているということである。定められた枠内で自らを存分に、また逆説的ながら自由に、表現する。これは俳優だけでなく翻訳者にも通じることではないかと、思いつつ聴いていた。

『日本現代文学全集』 40 「高村光太郎/宮澤賢治集」

2013年05月12日 | 文学
 高村光太郎は言いたいことはよく分かるが言い方がどうも型どおりで無骨である。宮澤賢治は何を言っているのか判らないが言い方が独自でそして天翔るように自由である。
 『智恵子抄』以前の高村光太郎の詩は、習作と呼ばれるべき存在なのではないか。一方の宮澤賢治の作品は最初から(少なくともここに収録されている分、『春と修羅』においては)、完成している。

(講談社 1963年2月)

老舎著 中山時子訳 『老舎小説全集』 2 「趙子曰・ドクター文」

2013年01月09日 | 文学
 多分私の探し方が悪いのか、大学図書館で原文が見あたらなかったので、中山女史の翻訳を読む(「趙子曰」)。これも面白い。1920年代の北京の大学生達の心情や生態を描いた小説だが、やみくもな欧米美化と崇拝を覗けば、あまり現代と変わらないような気もする(社会環境や状況は大いに変わっているが)。中に出てくる欧陽天風という学生、「真理の探究」はただの口先だけの嘘で、実際は世故に長けているだけの小狡い悪党である。小賢しいと賢いは違うということ。最初はどちらかといえば優柔不断で愚鈍にさえみえる趙子曰らが、いざとなると目の前の問題から逃げず徹底して突き詰めていこうとすることが明らかになるのは、彼らこそ本当の意味で賢者だったということではないか?

(学習研究社 1982年2月)