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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

「天網恢恢」―漢語大詞典

2017年02月26日 | 人文科学
 天网恢恢_词语「天网恢恢」解释什么意思- 汉语大词典

  1.谓天道如大网,笼罩一切。常用以比喻帝王的统治无远弗届。〔略〕
  2.比喻作恶必受天罚。


 1も面白いが、2も私的にたいそう面白い。悪とは何に照らしての悪で、天罰は何(誰)が下すのか。

波多野完治 『文章心理学入門 新版』

2017年02月24日 | 人文科学
 抽象的文体では動詞と形容詞がすくない。形容詞は、その場の事情を具体的にあらわすために、名詞につけ加えられるものであるから、これがないのは、いうまでもないが、抽象的文体では、動詞がすべて、抽象名詞と存在詞(あり)との結合に変えられてしまっているのである。 (「Ⅰ 文章心理学の原理」本書20頁)

 動詞はうごきがあるので、場景がどうしてもはっきりとうき出してくる。これを抽象名詞と存在しの結合によってあらわすと、抽象名詞は、表象的でないから、はっきり心像が出てこないうえに、存在詞(あり)は、いわばごく漠然とした「結辞」(コプラ)なので、何も運動を示さないから、叙述が非常に抽象的になる。 (「Ⅰ 文章心理学の原理」本書20-21頁)

 この前段と後段を纏めて要約すれば、「~は~する」という動詞文よりも、「~は~である」という結辞(繋辞)文のほうが、抽象的な印象を読者に与えるということである。その由来が前後段通じて解き明かされているのだが、この機制を理解せずに、たんに「繋辞文は抽象的」と結論だけをたばさむと、抽象名詞と繋辞ばかりを使うと高尚・知的になると誤解することになる。一方で、具体的対象の個別特殊な部分をすくい上げることができず、一般的な――それがすなわち抽象的ということだが――議論に陥る。具体的が低次で抽象的が高次というのは思い込みにすぎない。それが未証明であり、よしんば証明されたとしても別の証明と解がありうるという意味において。

(小学館 1988年12月)

伊藤丈 『仏教漢文入門』

2017年02月23日 | 人文科学
 これもまた比喩が直喩しかない。しかも「修辞法(直喩)」(201頁)と表記されていて、修辞は直喩しかないらしい。だが別の項に倒置がある。仏教漢文には「白髪三千丈」のような、誇張はないのだろうか(もっとも本当はこれは誇張かどうかは疑おうと思えば疑えるが)。
 それから現代漢語の文法概念と同様に、漢字とそれの結合した語彙を品詞に、また文を主語謂語以下の諸要素に分けてある。仏教漢文の場合はそれでよいのか。不案内でわからない。

(大蔵出版 1995年7月)

村上征勝 『計量文献学の世界 シェークスピアは誰ですか?』

2017年02月20日 | 人文科学
  出版社による紹介

 宮崎市定御大は晩年に「統計学もやっておけばよかった」と言われたと漏れ聞くが、こういうことかと思わされる世界がここにある。現実を定量的に分析する世界、現象を数量的に把握する世界である。望蜀の感想をひとついえば、井田進也氏の先行研究を引き継いで、福澤諭吉の晩年の著作とされる文章・論説類も検討対象にふくめていただきたかった

(文藝春秋 2004年10月)

魚返善雄 『論語新釈』

2017年01月29日 | 人文科学
 現代人が全面的に朱熹に追従するのは批判的精神または能力の欠乏を示すか、あるいは一種の保身術であろう。 (「あとがき」227頁)

 朱熹に限らずそれが権威と認められる誰かや何かであるなら、いつどこででもこの言は当て嵌るであろう。そしてその権威が一つきりであろうとはた複数あろうと、それはたいした問題ではない。
 このような喝破の言もある。

 進歩をとなえて活動する者がじつは意外に熱心な立身出世主義者であった例がめずらしくない。
 (同上 226頁)

 しかし、魚返氏の「あとがき」は、いま引用した此所などはどちらかといえば枝葉のおもしろさであって、本当のおもしろさは別にある。それは学問的なおもしろさである。同氏の『漢文入門』(社会思想社)も知的にスリリングな――権威に追従せず、批判的精神が満ちあふれ、囚われのない精神の――著作である。
『論語新釈』の本文は、条ごとに氏の現代日本語訳、原文、訓読文、そして現代漢語訳が、この順で並べられている。その間、条の内容理解に必要と氏が判断する事実や事項が、注として挿入される。注目すべきは事実事項の注はあるが(それとて一条に一つあるかないか)、語釈がまったくないことである。「いまを生きる現代人のための現代に通じる部分の『論語』を」がただ一点の目的であるとすれば、これは一つの、あるいは当然の、行き方であるといえる。

(学生社 1957年5月)

太田辰夫『中国語歴史文法』(朋友書店 1981年7月)から

2017年01月28日 | 人文科学
 太田先生が「你是那里討来的薬?」を「同動詞句〔引用者注・同動詞はこの場合是〕の非論理的用法」と形容しておられるのを見て吃驚。“你”は“薬”ではないから「これに《是》を用いるのは非論理的表現となり」、よって你は主語ではなく主題語である云々。同書356-357頁。

二重否定 (言語学) - Wikipedia

2017年01月27日 | 人文科学
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E9%87%8D%E5%90%A6%E5%AE%9A_(%E8%A8%80%E8%AA%9E%E5%AD%A6)

 このような言い方は2つの否定を意味する語句が対応しあって1つの否定表現を形作るもので、英語は本来はこのように否定文では否定形の語を一貫して使う否定呼応を用いる言語であった。すなわち、否定呼応を用いる言語では、二重に否定語を用いても単純にひとつの否定表現を作るだけであり、論理学的に見た場合は単なる否定である。しかし、否定呼応を用いない言語では、二重に否定語を用いることは論理学的に見るところの『否定』の否定であり、肯定である。
 (下線は引用者、以下同じ)

 しかし18世紀にきわめて人工的・作為的性質の強い規範文法が整備された際、否定呼応という言語現象に無理解な学者たちは、論理学規範を言語という特殊条件を考慮せずに適応し、『否定語を2回使うということは否定の否定を意味し、論理的に肯定である』と主張し、英語の否定呼応を抹殺した。とりわけ聖職者ロバート・ラウスが1762 年に出版した文法書 A Short Introduction to English Grammar with Critical Notes は否定呼応を否定の否定であるとみなし(今日の言語学的観点からすれば『誤解』し)、この表現を非文法的な言い方の最たるものとしている。これにより英語は否定呼応を用いる言語から緩叙法を用いる言語へと半ば強制的に変換させられた。

 ロシア語では否定呼応が残っている。ロシア人の恩師は、「それがロシア語の特徴」と仰っていた。御本人はそれほどの意味を籠めてはいられなかったのだろうけれど、いま思えばいろいろ含蓄に富む言葉だったと思う。

廣雅疏證 中國哲學書電子化計劃維基

2017年01月21日 | 人文科学
 http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=612641

 読中のメモ。『爾雅』に倣いなおかつそれを補うという目的で著された以上、体裁もそれに倣うのは当然で、ゆえに「古旨先創方作造朔萌芽本根葉置輩昌孟鼻業始也」と、日本語でいえば「(諸書に見える)~~~~は(すべて)始(の意味)である」というかたちを取るのは当然であるが、結局『爾雅』で抱いた疑問には、張揖も王念孫もいまのところ答えてくれてはいない。王引之の執筆部分はまだまったく読んでいない。