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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

ещё — Викисловарь

2017年04月11日 | 人文科学
 https://ru.wiktionary.org/wiki/%D0%B5%D1%89%D1%91

Значение

1. нар. опять, в добавление к чему-либо ◆ Он поел и хочет ещё. ◆ Они глупы, да ещё и слабы.
2. нар. то же, что уже́, настолько давно ◆ Я там был ещё до Нового года.
3. с отрицанием пока (что), до сих пор ◆ Они ещё не знают об этом.
4. нар. указывает на наличие достаточных возможностей, достаточного количества чего-либо ◆ Мы ещё повеселимся у него на свадьбе. ◆ Он ещё успевает на самолёт. ◆ Там ещё осталось два кило крупы.
5. нар. в большей степени (по сравнению с чем-либо) ◆ Он умён, но она ещё умнее. ◆ Он залез ещё дальше.
6. частица выражает усиление, подчёркивание ◆ Он ещё удивляется!


 ロシア語を学びたての頃、このещёという語が「まだ」と「すでに」の一見正反対の意味をもつことがなかなか納得できず、結果うまく聞けず読めず使えなかった。この項の6番目の説明にあるが、この語の根本は「強調」なので、時間軸の後ろから先方を見渡せば「すでに」、前から後へを顧みれば「まだ」、そして「今」の真上から鎚を打ち下ろせば「まさに」となる。そのほかの意味、たとえば形容詞・副詞の「(比較の際の)程度の強調」の意味も、基本はここから出づる。「存在の可能性・実在の確実さの強調」もまた。

鄭遠漢編著 『現代漢語修辞知識』

2017年03月22日 | 人文科学
 原題:郑远汉编著《现代汉语修辞知识》。

 その名の通り、現代漢語のレトリックに関するハンドブックである。主語謂語といった文法概念で分析しているので、品詞と分の要素の概念がない(少なくとも希臘語文法のそれを淵源とする西洋語のそれは)古代漢語には、基本通用しない。しても当てはめに終わる。

(中国 湖北人民出版社 1979年8月)

鄭子瑜 『中国修辞学史稿』

2017年03月22日 | 人文科学
 原題:郑子瑜《中国修辞学史稿》。

 各章の序文が「楔子」となっていて面白い。よって書法文体も、稗史小説のような物語風の叙述様式で、テーマごとではない。思惟までが伝統的な総合的なそれで、分析的の観点に乏しい。なにより使用する概念のきちんとした定義(内包)がない。漢語そのものの歴史的な修辞思想を、その具体的なありよう(つまり具体的な文献資料)に依拠して明らかにしてゆく内容だけに、この著にかぎっては、古い革袋に新しい酒が盛られていないのが残念でならない。

(上海教育出版社 1984年5月)

鐘勇/井上奈良彦 「日本語における上下メタファーの体系構成 及びその特徴に関する一考察」

2017年03月14日 | 人文科学
 『言語文化論究』30, 2013年3月掲載、同誌13-26頁

 実に興味深い。上下のメタファーは日本語におけるさまざまな“(イメージ・)スキーマ”の写像のひとつであり、言い換えれば上下のメタファーは上下のスキーマのメタファーなのである由。さらにこのスキーマが”(構造性)基盤”となって、意味に評価性を付与する。上下スキーマの場合、ある“抽象的概念”への評価が肯定的であるとそれは“上”のメタファーとなり、否定的であると“下”となる。その対象となる主な領域としては、「数量、時間、社会的等級、状態および評価など」(16頁)であり、これらの「目標領域」に「写像」される(同頁)。

王希傑著 修辞学研究会訳 『中国語修辞学』

2017年03月12日 | 人文科学
 出版社による紹介

 なかで使用される術語と概念に「釈語(释词)」というものがあって、「ある種の修辞効果を上げるために用いる語句解釈の方式で、語句本来の意義から偏差、逸脱し、それに寄せて自己の意見を大いに述べること」だそうである(第八章、337頁)。現代語の「釈詞」のこの用法を以て古文を観ると、『經傳釋詞』という書名などは、「ありがたい聖賢の教えの書かれた経典や古き良き時代の古典に記された事どもをダシに、そこに書かれた文章を自分に都合のいいように我田引水して解釈する」と読めてしまって苦笑する。だがもともと訓詁学というのは(清朝考証学でさえその癖を免れていない)そのようなものだと思うと、笑おうとして開きかけた口がふと閉じる。

 「析词」という用語もある。「析词」とは迂言法だろう。「析語(“析词”)とは語句を分析した後で、それに関係する、あるいは同等の言い方で代替することをいう。例えば、”眼睛裡流出来的那种液体”(目から流れてくるあの液体)で、“眼涙”の代替をする」(同章、339頁)。分析かつ/あるいは直接的でない言い換えのことであるらしい。(ただ続く以下の記述は留意すべきか。「析語は『提喩』(“借代”)の一種で、特殊な修辞技法である」(同上)。特殊かどうかはさて措くとして、これを提喩の一種と見なすのは興味深い。)
 これに関連して、韓愈と欧陽脩の古文とを比べてみると、後者は前者の文体を析詞した文体と評することができるだろう。粗っぽく言うと、韓が難解な一語やきわめて簡潔に数語で表現したことを、欧陽は平易な語に置き換えたうえでパラフレーズした観がある。では欧陽脩の作品は全編析語=提喩か?(妄想を逞しくして言う。)

(好文出版 2016年3月)

迂言法 - Wikipedia

2017年03月04日 | 人文科学
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%82%E8%A8%80%E6%B3%95

 一般に分析的言語(孤立語)では迂言法が一般的であり、それ以外の言語(総合的言語)では迂言的でない方法が多くある。

 漢語は孤立語だが、分析的ではない。古代漢語はとくに。
 現代漢語の例。「炒鱿鱼」(被雇用者を首にする)という表現がある。これは迂言法か? “イカを炒めるように布団を丸めてかたづける”という、表現に至るまでの事象の認識プロセスを考えれば直喩である。だが比喩であることを表現上は明示しないから、隠喩と捉えることもできる。布団を職場と近接するものであるという認識が先立っているのであれば換喩(象徴)になる。それなしなら、寓意とも考えられる。
 そもそも西洋語を題材兼対象にして生まれた修辞技法をそのまま非西洋語の同種と見られる現象にあてはめてよいのかと、私は考える。

言語の起源 - Wikipedia

2017年03月03日 | 人文科学
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%80%E8%AA%9E%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90

 世界中のクレオール言語が研究され、クレオール言語は文法の面で互いに著しい類似性を示し、一様にピジンから一世代で発展していることが分かった。この類似性は共通の言語に由来していないクレオールの間でも明白である。また、クレオールは独立に生じていても互いに類似している。統語論的類似性にはSVO語順であることも含まれる。異なる語順の言語から生じた場合でもクレオールはしばしばSVO語順へ発展する。クレオールは定冠詞と不定冠詞の同じ用法のパターンを有する傾向があり、また、親言語と違っていてもある一定の語句構造の移動規則を有する傾向がある。 
(下線は引用者)

 あっと驚く。

尼ヶ崎彬 『日本のレトリック 演技する言葉』 (その2)

2017年02月28日 | 人文科学
 2015年01月13日「尼ヶ崎彬 『日本のレトリック 演技する言葉』」より続き。

 寄物陳思で挙げられる“物”は、“思”と共通する内包や外延を何も持たない(あるいは詠い手には個人的にあるのかもしれないが一般には共有されていない)たんなる別の事象で、受け手はその歌によって初めて“思”と結びつけられるという機制らしい。

 なお以下は余談であるが、いま再読した尼ヶ崎彬氏の著には本歌取のメカニズムについての考察も出てくる。これを読むと、分野を問わず「大理論や先行研究の理論的枠組みをそのままに承けて研究対象や資料だけを変える」体の論考や著作は、これを現代における、しかも散文での本歌取として考えると、それそのものについて研究上の意義と重要性がより高まるのではないかと思えた。