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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

韓敏 『大地の民に学ぶ』 新世界読書放浪

2017年01月20日 | 人文科学
 http://neto.blog10.fc2.com/blog-entry-13821.html

 「ホーム人類学」に拘る著者が自身の出身地である瀋陽や東北を舞台とせず、あえて南方の地を対象とするのも日本の文化人類学が基本とした異文化研究に倣って、中国の地方の多文化性を確認するという作業の様な気もした。

 臨川書店刊、2015年11月出版の同書を私も遅まきながら読む。なるほど。ただあるいは、西欧での祖型にあくまで忠実に、「異文化研究」を基本とする日本の文化人類学を、「不可解」と言い切るほどに、「自文化研究」の志は十分以上にあったけれども、そのための学問上の方法論を、自分のそれ用に完全に調整することまではできなかったということかと思ったりもする。

『六韜』「文韜」“文師”の「義」の字についてのいくつかの意見

2017年01月09日 | 人文科学
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文王曰:「樹斂何若而天下歸之?」
太公曰:「天下非一人之天下,乃天下之天下也。同天下之利者,則得天下;擅天下之利者,則失天下。天有時,地有財,能與人共之者、仁也;仁之所在,天下歸之。免人之死、解人之難、救人之患、濟人之急者,德也;德之所在,天下歸之。與人同憂同樂、同好同惡者,義也;義之所在,天下赴之。凡人惡死而樂生,好德而歸利,能生利者、道也;道之所在,天下歸之。」


 「與人同憂同樂、同好同惡者,義也;義之所在,天下赴之。」の「義」とは何だろう。前半「與人同憂同樂、同好同惡者,義也」の、「與人同憂同樂、同好同惡」は、結果にすぎない。義はその原因である。だから「義は人と憂いを同じくし楽しみを同じくすることと好みを同じくし悪みを同じくすることである」とは解釈できない。
 この部分は、それとは逆に、今の日本語の感覚からいえば、「人と憂いを同じくし楽しみを同じくすることが義である」と解釈すべきである。「同じくすることは」では主語と述語が逆様になってしまう。
 ところで訓読では、「人と憂いを同じくし楽しみを同じくし好みを同じくし悪みを同じくする(者)は義なり」としかできない(「者=(もの)は」という訓読文の文法規則)。つまり訓読文は、少なくともこの点に関しては、漢文(古代漢語)を誤訳する(そして誤訳しかできない)ということになる。

『韓非子』「喩老」の一節を解釈してみる

2017年01月06日 | 人文科学
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 有形之類,大必起於小;行久之物,族必起於少。故曰:『天下之難事必作於易,天下之大事必作於細。』是以欲制物者於其細也,故曰:『圖難於其易也,為大於其細也。』千丈之隄以螻蟻之穴潰,百尺之室以突隙之煙焚。故曰:白圭之行隄也塞其穴,丈人之慎火也塗其隙。是以白圭無水難,丈人無火患。此皆慎易以避難,敬細以遠大者也。

 日本語の諺"蟻の一穴(天下の破れ)”は、ここを原典としているわけであるが、もとの"千丈之隄以螻蟻之穴潰”は、喩えであって、蟻のあけた一つの穴からかならず千丈の堤も決壊に至ると断じているわけではない。「有形之類,大必起於小;行久之物,族必起於少」、すなわちすべてのものは難しい問題はもとをただせば一つ一つは対処に容易な問題の積み重ねであり、大いなる事業はかならず細部から始まる、つまり着実に手をぬかずに物事は行われるべきである、またそうでなければ実現できず、たとい実現できても長くは維持できないという、韓非子の主張の説得力を益すために設けられた修辞部分である。ウソだと思うならその後に続く「故曰」以下を読んでみられよ。冒頭の論理による議題の提示とそれを支える喩えの部分が終わり、また論(具体的な事例の提示と、議論の締めくくりとして冒頭部と同じ論旨による語句のみを変えた抽象的な論理の繰り返し)が始まる。

石原昭平/津本信博/西沢正史編 『女流日記文学講座』 第3巻 「和泉式部日記・紫式部日記」

2016年12月27日 | 人文科学
 これら日記の叙述また著者の視点の客観性と主観性の境界が、作品を読み解き分析するうえでの重要概念となっている(たとえば中野幸一「女流日記文学における『紫式部日記』の位置」)。だが、こんにちの意味でいうところの「客観(性)」「主観(性)」そのままの存在は、当時の人間、個別具体的には表題の二作の作家、および、本論で言及される他作家において担保されていたのだろうか。

(勉誠社 2000年7月)

磯谷孝 『演習ロシア語動詞の体』

2016年12月27日 | 人文科学
 買ってから40年経って、これは体をマスターしていないと読めない本であることがわかった。体をマスターするためではなく、マスターしている人間が確認のために読む者である。おびただしい練習問題はやるものではなく、答えを丸暗記すべきものである。そのほうが上達は早いだろう。なぜそうなるのかはそのあとで考えるべきものである。あるいはそのあとでないと、考えてもたぶんわからない。

(吾妻書房 1977年1月)

王希傑著 修辞学研究会訳 『中国語修辞学』

2016年12月19日 | 人文科学
 出版社による紹介

 面白い。まず文言文と白話文の区別をしないところが面白い。新渡戸稲造の『武士道』を読んでいるかのようである。
 次に、地口の類い(「品詞転換と返源及び蔵語としゃれ」)や、漢字を分解するほかの文字遊び(「拆字と拆語及び釈語と析語」)を、中国語における正規の修辞技法の一つとして数えているところが、面白い。
 さらに、ああいえばこういう式の減らず口や、その場しのぎの言い逃れ(「頓跌と曲説」)も、また無知ゆえのあるいは論点ずらしをするためのわざとな誤用と知ったかぶりのマラプロピズムやデタラメ(「擬誤と存誤」「象嵌と偏取」)も、立派な修辞技法だとして数えているところが、とても面白い。
 だが一番おもしろいのは、弁証法を学ぶことが言語学ひいては修辞学を学ぶうえで最も大切と総括しているところだ(「結語 修辞学と弁証法」)。

(好文出版 2016年3月)

石濱裕美子 『ダライ・ラマと転生 チベットの「生まれ変わり」の謎を解く』

2016年12月19日 | 人文科学
 チベット仏教界では、「生まれ変わり」も、「意識の構造」についても論理的・体験的に決着がついている。『転生の根拠を示してしてください』とダライ・ラマに問えば、インドの論理学者ダルマ・キールティ(7世紀)の論理に基づいて、輪廻の実在を論理的に証明してくれるであろう。 (「第1章 中国に滅ぼされた観音菩薩の国」  本書24頁)

 ダルマ・キールティの論理(学)は無謬なのであるか。 よしんばそうであるとしても(私にはそうは思えないが)、人間の「論理」とは彼の(あるいは広く取ってインド仏教論理学の)論理だけなのか? 誰がいつどこでいかにしてそれを証明したのか。もしこれが証明できていなければ、それは、著者がその4頁まえでチベット仏教の特質として論じた、「『偉い人がそういうから』『経典にそうかいてあるから』などと思考停止して仏の教えを信じるのではなく、仏の教えとされるものであっても、論理によって徹底的に吟味してその結果、真理であるもののみを奉じ」るという、「チベット仏教の論理的な性格」は、主張としてなりたたないのではないか。

(扶桑社 2016年9月)

『日本語学』 2016年9月号

2016年12月02日 | 人文科学
 出版社による紹介

 金文京論文「中国古典文学研究と漢籍データベース検索」と石井公成論文「仏典漢訳の諸相」とを読む。
 ①金論文。PC検索の利用は弊よりも利のほうがはるかに大きいとのご意見。ただし、「検索の前に注意深い読書と正確な読解力が必要であることは言うまでもない」(8頁)。シャーペンを買って貰った昭和40年代の小学生みたく新しい道具を手にすれば己の頭までよくなったと勘違いする向きとは、やはり一線を画している。
 ②石井論文。竺法護訳『正法華経』で「月」が原文にないニュアンスと連想に基づく比喩として訳されていること(誤訳)に注目している。「竺法護の母国では月を畏怖する習慣があったのかもしれない」(49頁)。直喩、暗喩のパターンは文化によって異なるという指摘。

(明治書院 2016年9月)

白川静 『初期万葉論』

2016年11月18日 | 人文科学
 「見る」ことによって、保護霊のあるその地との接触は、すでに行われているのである。〔人麻呂の羈旅歌のうちここで挙げた〕三首いずれも、ただの叙景の歌ではなく、叙景的意識をもつものではない。「見る」ことの呪歌的性格は、「見れど飽かぬ」という表現によっていっそう強められる。 (「第一章 比較文学の方法」、17頁)

 すなわちある対象を視界に取り上げてそれと意識する=「見る」こと即「言祝ぐ」ことであり、客観的に対象を認識することではない。そしてそれを詩に詠うことは客観的な描写を意図したことでもない。

 祝頌詩においては、『瞻〔=見〕る』という行為的な語を着けなくても、存在するものの秩序的な状態、その存在態をいうことが、すなわち魂振りや祝頌的意味をになうものとされた。(同、22頁)

(中公文庫版 2002年9月)

『礼記』鄭玄注と『論語』宮崎市定訳と

2016年11月03日 | 人文科学
 『礼記』を鄭玄注で読んでいるが、つらい。「○は△である」という語釈に基本的に根拠がない。「○○は××という意味だ」という句(表現ないし文)の解釈(というより敷衍)も同様。因みに具体的な名物に関する「○○○は△×△×といったものである」という説明も、それが本当かどうか判らない。
 宮崎市定『論語の新研究』(「第二部 考証篇」)も相当つらかった。『論語』には孔子の言葉を前後の文脈なしに取り上げた、いわば断簡零墨ともいうべき性質の部分もだいぶあり、そういったくだりは、そこで使われている言葉の正確な意味が確定できない。その語あるいは句あるいは文を、言語として理解するために十分な情報がないのであるから「わからない」とするしかないのに、どういうわけか根拠も示さず断定的に解釈を下しておられるところがだいぶあって、疲れた。
 たとえば端的に「衛霊公第十五」の「子曰。道不同。不相為謀。」だが、これを、「子曰く、職業が異なった同士の間では、商賣の相談をしあわない」(339頁)と翻訳される。しかし、どうしてそう解釈すべきなのか、さっぱりわからない。
 宮崎御大はまだしもなほうだが、それでも語学屋からすれば“反則”が多い。実証主義の考え方のない古代の人である鄭玄は言うまでもない。テキストはまずはテキストそれだけを読み、そこから得られる情報だけを分析し解読するのが筋である。この段階で外から勝手な情報をもってくるな。それはこの後の話だ。