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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

レイモンド・W. ギブズ Jr.著 小野滋/出原健一/八木健太郎訳 『比喩と認知』

2018年09月21日 | 人文科学
 副題:「心とことばの認知科学」
 出版社による紹介

 昼間に「隠喩は内包の同一性を梃子に作られる云々」(私の理解による要約)という意見をネットで見たので、こちらはどう言っているか確かめた。そんなことは書いていない。たぶんそうではないかとは予測していた。この意見が正しいなら内包の概念のない文化や言語に隠喩は存在しないことになるからだ。
 それより換喩(メトニミー)についての記述が気になった(第7章)。筆者はメトニミーを、「あるもののよく知られていたり捉えやすい側面が、そのもの全体を表したり、代替していると捉える」(381頁)とするのだが、これはつまり、おなじものでも、その“よく知られていたり捉えやすい側面”は、言語や文化によって、また同一の言語や文化内においてさえ、地域ごと、社会階層ごとに、異なってくるだろうということである。

(研究社 2008年6月)

消耗したのでひさしぶりに柳沢きみお『大市民』シリーズを・・・

2018年09月18日 | コミック
 昨晩は消耗したのでひさしぶりに柳沢きみお『大市民』シリーズを最初から読んでしばし寛いだ。バブル崩壊直後から始まる作品エピソードのなかには、さすがに今日から見ればずれているものがないでもないが、全体を貫くテーマと美意識自体は、いまもそのままで通用すると思う。というか私がそれを好んでいる。
 主人公の山形は、いつも酒を楽しく飲んで酔っ払っている(シリーズの進行とともに次第にその量は増してゆく)。これは酒がほぼまったく駄目になった今の私にはちょっとうらやましくもあるところだ。
 ひと言でいえば著者の身辺雑記、あるいは私小説みたいなものか。読み始めたときはこちらは30そこそこ、主人公は開始時45才で、「かっこいい中年」キャラクターとして憧れつつ読んでいたのが、いつのまにかこちらがその年をとうに過ぎてしまった。山形も年を取って、後半では60を越えた。作者と同じ年だからいま連載されていたら今年70才になるはずである。
 私は『最終章』まで持っている。だがシリーズとしてまだ終わっていないらしい。いま調べてみたら今年電子書籍で最新刊が出ている。

増井経夫大人訳の『焚書』を披く。

2018年09月18日 | 東洋史
 増井経夫大人訳『焚書 明代異端の書』を披く。大人は得がたき適任者と思えどもなおその訳の原文の意に透徹せざる感あるを憾む。またその多岐にして全体の纏まりを顧慮せぬ構成も与りてか、大人の訳文に彌々子規随筆の俤あり。只漱石の入念穿鑿の筆を併せ用うればなおよかりけんと惜しむ。

中野好夫『蘆花徳富健次郎』を読む。

2018年09月18日 | 思考の断片
 中野好夫『蘆花徳富健次郎』を読む。蘆花の一生と行蔵については私にも自分なりに粗々ながら予め知るところがあり、その上でこの作品を繙くとは、私のその既知の知識の再確認もしくはさらなる詳細を知るということになるわけだが、了えて、「この作品を読む意味はそれだけか」という気がした。
 ここにあるのは、筆者の主観で濾過され(蘆花の地口ではない)その価値判断によって裏打ちされた事実を、恰も客観的なもののように、ときにそれが生の事実であるかのように供される違和感である。ただこの点については、私個人の文章感覚や、評伝というジャンルにたいするとらえ方にもよるだろう。さらには、現在における評伝というもののあり方が、中野大人の時代とはもしかしたら変わってきていることもあるかもしれない。

小松久男/荒川正晴/岡洋樹編 『中央ユーラシア史研究入門』

2018年09月18日 | 地域研究
 出版社による紹介

 市図書館の順番が回ってきてやっと読めた。次の予約も入っている。外は持ち運びやすく内は読み解りやすい。

(山川出版社 2018年4月) 

のびたうどんをなんとか食べられるようにしようといろいろにお化粧・・・

2018年09月18日 | 文学
 のびたうどんをなんとか食べられるようにしようといろいろにお化粧、味付けやら具だくさんやら、後から外から手を加えて、概してごてごて・こてこての焼きうどんにしてみたような翻訳のオンパレード(アンソロジー)を拝見した。これは“概して”ということで、例外も、もちろんあった。

’Abstraction’, Wikipedia から

2018年09月18日 | 抜き書き
 https://en.wikipedia.org/wiki/Abstraction#Physicality

  Bacon used and promoted induction as an abstraction tool, and it countered the ancient deductive-thinking approach that had dominated the intellectual world since the times of Greek philosophers〔後略〕. 
('History')

Review: In ‘Secondhand Time,’ Voices From a Lost Russia, By Dwight Garner

2018年09月17日 | 文学
 https://nyti.ms/1s7VSAr

  Я прочёл работу в оригинале. И сейчас чту статью. Хорошо сказано:

  You can open this document anywhere; it’s a kind of enormous radio. It offers a flood of voices: doctors and writers, deli workers and former Kremlin apparatchiks, soldiers and waitresses. Ms. Alexievich gives these people space. There are few interpolations from the author. When she does insert a comment, it’s in brackets and often unbearably moving, like “She no longer wipes her tears” or “She’s practically screaming” or “And both of us cry.”


  С другой стороны, слова там не так литературные, стиль сравнительно не прикрасен, хотя естествен. 聞き書きの難しいところで、プロの文筆業者としてのもしくは文学者としての聞き取り者の主観と美意識による補足と修正が入りすぎると、『苦界浄土』のようになる。



ある英語で書かれた論理学の本に、「言語は違っても人間の論理は変わらない。・・・

2018年09月17日 | 思考の断片
 ある英語で書かれた論理学の本に、「言語は違っても人間の論理は変わらない。例えば日本人の論理学者の研究は白人のアメリカ人学者のそれとほぼ同じである」というくだりがある。この書は英語で書かれており、材料は英語である。説かれていることは、英語の論理に関して正しいのだろう。

「エミリーに薔薇を A Rose for Emily」と「アルジャーノンに花束を Flowers for Algernon」

2018年09月17日 | 思考の断片
 「エミリーに薔薇を」の場合、訳者が来日した原作者に原題の真意を尋ねて、「そうでもしないとエミリーがかわいそうだから」という“理由”の回答を得てこの邦訳名にしたと訳者の後書きで書いてあったと記憶するが、「アルジャーノンに花束を」の場合も原題ともに同じ理由だろうか。
 内容・構成の類似を指摘するエッセイを見かけた。下記。

"Comparing Short Stories of "The Flowers" and "A Rose for Emily"" Essay Example | Hstreasures
https://hstreasures.com/comparing-short-stories-of-the-flowers-and-a-rose-for-emily-47098/