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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

ある東欧文学の邦訳、ときにハリセンの入りそうな講談・・・

2018年09月17日 | 思考の断片
 ある東欧文学の邦訳、ときにハリセンの入りそうな講談あるいは新派新劇の口調を交えて(とくに科白部分)、全体に明治から大正の文章日本語(とくに漱石また芥川)に近似しているのは、それが19世紀に書かれたことと、またそれがその国の近代語の規範の一となったという歴史を踏まえての選択だろうか。自分がこのたびの仕事で試みている技法と偶然あるいは必然的に重なる部分があり、非常に興味深く、教えられる。またそこに在る結果のなぜそうなっているのかの原因を帰納すること、またそこにはないが論理的に当然そうなるべき結果を演繹することで、間接的にさまざまな角度からヒントを受けた。

Wilfred Hodges, "Logic: An Introduction to Elementary Logic"

2018年09月15日 | 抜き書き
〔Is consistency of beliefs a virtue? Is it something we should spend time tryng to achieve?〕To some extent this is a question in a vacuum. Nobody is deliberately incosistent in his beliefs. It is simply impossible to believe, fully and without reservation, twi things which you know are inconstent with each other. ('Cobsistency', p. 15)

Logic is about consistency. ('Consistency', p. 13)

〔A〕 set of beliefs is called consistent if these beliefs could all be true together in some possible situation. ('Consistency', p. 13)

(London: Penguin Books, 1977)

ウィキペディア「二重否定の除去」

2018年09月13日 | 人文科学
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E9%87%8D%E5%90%A6%E5%AE%9A%E3%81%AE%E9%99%A4%E5%8E%BB

 二重否定の除去(にじゅうひていのじょきょ、英: Double negative elimination)は、論理学、特に命題論理における推論規則の1つである。いわゆる二重否定と等価なものを追加したり(二重否定の導入)、二重の否定作用素を削除したり(二重否定の除去)といった操作を論理式に施す。

二重否定の除去は古典論理では定理だが、直観論理ではそうではない。直観論理では「この場合、雨が降っていない、のではない(It's not the case that it's not raining)」という文は「雨が降っている」よりも弱いとされる。後者は雨が降っていることを証明する必要があるが、前者は単に雨が降っているとしても矛盾しないことを証明すればよい(自然言語における緩叙法形式でもこのような区別が見られる)。二重否定の導入は直観論理でも定理であり、また ¬ ¬ ¬ A ⊢ ¬ A {\displaystyle \neg \neg \neg A\vdash \neg A} {\displaystyle \neg \neg \neg A\vdash \neg A} も直観主義でも成立する。

ウィキペディア 「二重否定」(言語学)

2018年09月13日 | 人文科学
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E9%87%8D%E5%90%A6%E5%AE%9A_(%E8%A8%80%E8%AA%9E%E5%AD%A6)

 一般に否定呼応を用いる言語で、緩叙法は用いられないか、あっても用例は少ない。逆に緩叙法を用いる言語では否定呼応は用いられないか、非文法的とされる。これは緩叙法を用いる言語はひとつの否定表現をひとつの否定語と対応させるため、否定語を重ねることは否定を否定(-×-は+という論理)して肯定を意味することになるためであり、逆に否定呼応を用いる言語では、否定語を複数用いることは否定の否定(-×-)ではなく、否定の強調または否定の成立条件(-+-)であるとされるからである。両者をひとつの言語の中で認めると、論理的な混乱を招くことになる。
 (「概要」下線は引用者)

 ロシア語では否定呼応が存在する。形のうえでは二重否定にみえてもそれは意味は否定の強調である。しかし二重否定も存在する。同項では上記引用部につづいて、英語でも同様の並立状態が歴史的また地域的・社会的方言に存在する事実が述べられる。

 緩叙法をルールとした場合否定呼応は非論理的であり、逆に否定呼応をルールとした場合緩叙法という思考そのものが成り立たないが、否定呼応の廃止は民衆レベルには浸透せず、結果として緩叙法をルールとする「標準英語」と、黒人英語のように否定呼応をルールとし、3つや4つの否定語を対応させることさえある多くの民衆英語(例、「I couldn't get none nowhere.」で、私はどこで誰にも会わなかったとなる)の間での言語規範の不一致による混乱が起こった。学校で標準英語を学んでいる児童が、家庭での民衆英語の規範との混同から二重否定を否定呼応として用いてしまうことなどがその一例である。
 (「英語」)

 日本語についても言及がある。

 現代標準日本語では、二重否定は単純に否定の否定(-×-は+)として見られている。「~しないわけにはいかない」「それを悲しまないものはなかった」のように、肯定を強調する二重否定(緩叙法)は盛んに用いられており、否定呼応をみとめる言語と好対照を成している。  (「日本語」下線は引用者)

 つまり現代日本語以前においては日本語はそうではなかったということになる。
 また、続けてこうもしるされる。
 また、「満更でもない(全く嫌というわけではない)」のように、慣用句として扱われる表現もある。この場合は肯定を強調しているのではなく、否定の緩和、つまり部分的な肯定を表すが、厳密には緩叙法に含めないこともある。


 


ウィキペディア「緩叙法」

2018年09月13日 | 人文科学
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%A9%E5%8F%99%E6%B3%95
 
 論理的には二重否定は肯定に等しく(二重否定の除去)、緩叙法も基本的にはこの論理に従っている。標準的英語もこの論理に従うが、その他の言語(英語の方言や古語も含む)では必ずしもそうではない。これについては二重否定を参照。 (「その他関連事項」下線は引用者)  

 この「論理」とは古典論理すなわち西洋の形式論理のことである。

"Litotes", Wikipedia

2018年09月13日 | 人文科学
 https://en.wikipedia.org/wiki/Litotes

The use of litotes is common in English, Russian, German, Dutch, Hebrew, Aramaic, Greek, Ukrainian, Polish, Mandarin, French, Czech and Slovak. It is a feature of Old English poetry and of the Icelandic sagas and is a means of much stoical restraint.

The word litotes is of Greek origin, meaning "the property of being light (as opposed to heavy)", and is derived from the word litos meaning "plain, small or meager".

George Orwell complained about overuse of the 'not un...' construction in his essay "Politics and the English Language".
 (下線は引用者)

 ここに漢語が入って挙げられているのは興味深い。たんに煩を厭っただけかもしれないが、日本語が入っていないのも同様である。

 まあ、litotes(緩叙法)の定義が非常に技術的だから、その普遍的な適用性は高くなる。

In rhetoric, litotes (/ˈlaɪtətiːz/, US: /ˈlɪtətiːz/ or /laɪˈtoʊtiːz/) is a figure of speech that uses understatement to emphasize a point by stating a negative to further affirm a positive, often incorporating double negatives for effect. For example, "He's not bad looking" could express that someone is gorgeous—or could convey that he's neither particularly ugly nor attractive. The degree of emphasis depends on context.


 contextの影響はlitotesそのものの内容や構造には関係しない。その効果度に限られる。

島田虔次『朱子学と陽明学』再読

2018年09月12日 | 地域研究
 形式論理思考が基本もしくは規範の現代日本人(日本語話者)の頭で見れば、朱子も二程も王陽明も程度の差こそあれみな没分暁漢なのだが、それを「いやそうではない」と現代日本人・日本語の頭のままで理解し弁護すらしようとするから無理が出ると、大まかに観た。その線でテクストを矛盾なく読解しようとすること自体がすでに弁護の範疇に入っているとも。
 日原利国『中国思想辞典』で金谷治執筆「知」を引くと、「智」ともども「理性の働き」と書いてある。西欧・西洋起源の概念であり語彙でありそのための幕末明治以後の新造翻訳漢語である「理性」を、そのまま伝統中国の事物の定義と説明に使うこともまた、知的省エネでなければ弁護の一種と言えはしないか。

わが“矛盾論”

2018年09月12日 | 人文科学
 昨日、ツイッターで「愚問を発するのは愚人」と書いた。今日、「ツイッターに溢れる薄汚い発言を見てツイッターにいるのは薄汚いやつらばかりだとあらためて思った」という文章を目にして、「薄汚いことを言うから薄汚い奴という理屈は必ずしも正しくないのでは」と思った私は矛盾していることに気が付いた。

朱子へのひと言

2018年09月12日 | 東洋史
 本(経典)は虚心に読めと弟子たちに言っておいて各自虚心に読んだその解釈が自分の定めた読みに一致しなければならないというのはどういうことだ、朱熹先生。私欲を去れば仁とは何のことだと王守仁が怒るのも無理はない。 『中国文明選 3 朱子集』で、三浦国雄氏は「朱子の目ざすもの」は「モラーリッシュな人格、当世風に言えば主体的自己の確立」にあったと言われるのだが、虚心(私意=個人としての情動と意思を棄てる)に、私欲を去る(単一の倫理・道徳的原則に同化する=自分一個の主体的な思考を放棄する)、即ち自我を滅却することで確立される主体的自己とは何の言いぞや。
 はるかな後世から振り返る、私の頭に真っ先に浮かぶところのこの点に関する朱子への感想は、「笑わせるな」というものだ。

ゆく夏に

2018年09月12日 | 思考の断片
 今年の夏は、美味しい白茶に当たることができたことが大きな幸福の一つである。白茶は、茶杯に直にいれて湯を注ぎ、葉が下に沈むまで気長に待って飲むのが自分にはいちばん美味しく思えることを再確認した夏でもあった。
 さらにまた、日本の緑茶のなかにも、急須や茶漉し付き茶杯ではなくこの中国白茶と同じ淹れ方をしたほうが美味しい(私には)ものがあることを発見した。湯を注いだあと底に沈む茶葉でないと駄目だが。