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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■エンゼルマークの森永太一郎 / 岩井基雄

2020年04月06日 | Weblog

2020/2/24放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。
 第四月曜日は歴史の中を歩んだクリスチャンの生涯から学んでいますが、今日はロゴマークに天使が描かれている森永製菓の創業者、森永 太一郎について学んでみましょう。

 太一郎は慶応元年、佐賀県伊万里市で生まれました。家業は陶器問屋を経営し、隆盛をきわめていましたが、父の死後、倒産の憂き目に遭います。母の再婚後、太一郎は親類の家を転々とする孤独な少年時代を過ごしました。叔父が横浜で経営する陶器店で奉公しますが、その店もつぶれ、時代や家族の悲しみを深く味わうのです。少しでも借金を返したいと、太一郎は陶器を持ってアメリカに渡り、販売を試みます。しかし当時のサンフランシスコは貧しい労働者の街であり、高価な焼き物は売れません。オークションですべてを売り払い日本に送金すると、手元には何にも残らなかったのです。彼はキリスト教会の経営する無料宿舎に泊まり、アメリカ人家庭を手伝い生活をします。
 ある時、アメリカのお菓子を食べたとき、その甘さに太一郎は驚き、日本の子供たちにこれを食べさせたいと願い、お菓子の製造技術を身につける決意をします。幼少期から通った貧しさや寂しさのすべてが日本の子供たちへの愛と使命に繋がったのです。

 一度の帰国をはさみ、11年に及ぶ学びで西洋菓子製造技術を習得しますが、その学びは人種差別の悲しみを味わい続ける時でもありました。下働きとして住み込んでいた時、スカンジナビア人とアイルランド人のクリスチャンの老夫婦に親切にされたことから太一郎は聖書に関心を持ちます。そして、差別や悲しみを通る彼らが持つまことの喜びや希望に感銘を受けた太一郎はキリスト者となったのです。

 明治32年、帰国した太一郎は、東京の赤坂にわずか二坪の森永西洋菓子製造所を開業しました。当時、天使の食べ物と言われていたマシュマロを最初に販売したこともあり、自分に希望を与え続けた天使をそのロゴマークとしたのです。

 聖書のことば
 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
    悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。
   新約聖書 マタイの福音書 5章3節、4節

 

  (PBA制作「世の光」 2020.2.24放送でのお話より ) 
 
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このサイトは URL名として 
 http://yonohikari.biblica.info  
が使えます。。携帯からもこのURLでどうぞ。 

*** 

東海福音放送協力会へのお問い合せは、 
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ 

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■汚れと聖別 / 羽鳥頼和

2020年04月04日 | Weblog

2020/2/22放送


世の光の時間です。おはようございます。羽鳥頼和です。

 聖書には、汚(けが)れたもののことが教えています。良く知られているのが豚です。それでユダヤ人はブタを家畜として飼うことも食べることもしません。

 汚(けが)れとは何なのでしょうか。

 まず国語辞典で調べてみました。汚れとは、一般的なこととして、きたなくなること、よごれること、不潔ということであり、道徳的には悪い習慣に染まること。俗にまみれることであり、そして宗教的なこととして、神の前に出ることをはばかること、とありました。

 それでは聖書に出てくる「汚れ」とはどのようなものでしょうか。聖書では主に宗教的なこととして「汚れ」ということばが使われています。

 旧約聖書のレビ記を読むと、神がまずきよいお方、聖なるお方であることから汚れという事が生じることがわかります。何がきよく聖なるもので、何が汚れているのかは神が定められることだったのです。

 宗教儀式を司る祭司の規定について語られているレビ記22章では、神は「イスラエルの子らの聖なる者は慎重に扱え。わたしの聖なる名を汚してはならない。それは彼らがわたしのために聖別した者である」と言われています。

 祭司は聖所の勤めに携わるためにきよめ分かたれていました。しかし汚れることがありました。神はツァラートという病気になったときや性器からの漏出があるとき、死体に触れてしまったときに、その人は汚れる、と言われました。その祭司は儀式に携わって、ささげものや聖なるものを汚さないように、それに触れてはならない、と命じられたのです。

 汚れた者は神のために働くことはできなかったのです。しかし神は汚れた者をすぐに排除してしまうようなお方ではありません。神は「わたしは彼らを聖別する主である」と言っておられます。神は汚れた者をきよめられるお方です。

 神は私たちをもきよめてくださいます。神はイエス・キリストの十字架によって人をきよめ、神を礼拝する者としてくださるのです。

 明日は日曜日です。神を礼拝するためにお近くのキリスト教会にいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2020.2.22放送でのお話より )
 
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このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。。携帯からもこのURLでどうぞ。

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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■固執しないで生きる / 関根弘興

2020年04月03日 | Weblog

2020/2/21放送
 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
 イエス様がエルサレムにある神殿の中の外庭に座っている時でした。その近くには献金箱がありました。そこに貧しいやもめがやってきて、当時の貨幣の最小単位であるべきレプタ銅貨二つを投げ入れたのです。彼女の姿の中には、すべてを神様に委ねて生きるという姿がありました。そして固執しないで生きる姿がそこにはあったのです。

 委ねるというのは、これは手を離すと言うことでもあるんですねえ。私たちは、ともすると、これも自分のもの、あれも自分のもの、すべてを自分が握りしめていないと気がすまないことがあります。自分の考えに固執し、こだわりすぎて、却って不自由になってしまっている、そんなことがありますよね。

 昔、絵本でこんな話を読んだことがありました。猿を捕まえる面白い方法です。壷の中においしい食べ物を入れておくんです。すると猿は、壷に手を入れて食べ物を掴みます。掴んだままだと、壷から手が引き抜けなくなってしまうんですね。でも、手を離すと食べ物を得ることができません。食べ物を掴んだままだと手が抜けません。さあどうしようかと思案しているうちに猿は捕まってしまうというわけですね。

 どうでしょう、私たちも余りにも多くのものを握りしめていると結局不自由になってしまっているっていう現実がありませんかねえ。

 イエス様ご自身は、すべてを神様に委ねて歩んでおられました。本当はイエス様は神と等しいお方であるにもかかわらず、その立場に固執しようとはなさいませんでした。自分の利益を求めず、自分の功績をひけらかすこともなく、人々に救いをもたらすために十字架でご自分のいのちさえ差し出されたのです。イエス様は与え尽くす人生を歩まれました。

 しかしイエス様の周りには、自分のプライドや立場や地位や肩書きに固執する人々、自分の利益に固執して打算で生きているような人たちが沢山いました。身近な弟子たちでさえプライドが強く、自分たちの中で誰が一番偉いのかなどと競い合っているような者たちでした。

 そういう中でイエス様は、自分の人生を自分で握りしめるのをやめて神様に委ね捧げようしている者はどこにいるのだ、と周りを見渡されていたのかもしれませんね。そしてこのレプタ銅貨二枚を捧げた一人の女性の姿の中にその委ねる姿を見たのです。

     (PBA制作「世の光」2020.2.21放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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■主イエスの祝福を受けて / 大井 満

2020年04月02日 | Weblog

2020/2/20放送

  世の光の時間です。今月、木曜日のメッセージを担当しています東京にある板橋教会の牧師、大井 満です。

 私が牧師をしている教会では、主に大人の方たちが集う礼拝にも毎週、数人、多い時には7、8人の小学生と幼児たちが出席します。彼らは説教が始まる前に、自主的に礼拝堂を出てしまいますが、礼拝の最後に私が礼拝堂の出口に来るとちゃんと握手をしにやってきます。とても微笑ましく嬉しい時間です。

 さて、イエス様は子供のことをどう考えておられたのでしょうか。イエス様に手を置いて祈っていただくために子どもたちを連れて来た人がいました。弟子たちは子どもを連れて来た人たちを叱ってしまいます。子どもの来る所ではない、とでも考えたのでしょうか。あるいは、忙しいイエス様に子どもの相手をしている暇はない、と思ったのかもしれません。 けれども、イエス様はこうおっしゃいました。
子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを邪魔してはいけません。天の御国はこのような者たちのものなのです。

    マタイの福音書19章14節です。
     (参照 マルコの福音書10章14節、ルカの福音書18章16節 )

 子ども讃美歌に、「子どもを招く友はどなた 子どもの好きなイエス様よ」という歌詞のついた曲がありました(こどもさんびか48番、参照ふくいん子どもさんびか45番)。子どもの頃は、あまりこの讃美歌は好きではなかったのですがね、年齢を重ねていくうちに、この歌詞の持つ意味の深さに気付くようになって来ました。

 救い主イエス様は弟子たちが考えたように忙しい生活をしておられたでしょう。でも親たちは、イエスに手を置いて祈っていただくために子どもたちを連れて来たのです。ここに子どもたちを祝福して欲しいと願った親たちがいました。子どもたちの成長にはイエス様の祝福が必要だと感じ取った親たちです。イエス様も、この目の前にいる子どもたちを祝福したい、と思われたに違いありません。そして誰よりも子どもを愛してくださるイエス様の招きは文字どおりの子どもだけでなく、子どものように素朴な信頼をイエス様に寄せる人への招きでもあるのです。

 私たちを招くイエス様は、私たち一人一人に手を置いて祝福しようとしてくださっています。あなたもイエス様の祝福を受けて人生の旅を歩いてみませんか?

    ( PBA制作「世の光」2020.2.20放送でのお話しより )

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
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 このサイトは URL名として   http://yonohikari.biblica.info  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

 


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■喜び叫びながら刈り取る / 福井 誠

2020年04月01日 | Weblog

2020/2/19放送

  世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。

 継続は力なり。聖書を一日一日と読み進むなら、不思議にも自然に養われていくものがあるものですね。今日も聖書を開いてまいりましょう。詩篇126篇5節から「喜び叫びながら刈り取る」と題してメッセージをお伝えいたします。

 「涙とともに種を蒔く者は 喜び叫びながら刈り取る。

 この詩篇は明らかにイスラエルの歴史上の出来事としてはバビロン捕囚からの帰還を背景としていますね。かつてイスラエルはバビロン帝国に侵略され、多くの住民が捕虜としてバビロンに連れ去られました。いわゆるバビロン捕囚ですね。その約70年後のこと、イスラエル人は祖国に戻ることが許されるのです。彼らはバビロンから帰って来てエルサレムに到着すると、あまりの嬉しさで喜び一杯となりました。この歌が作られた背景です。彼らはその時の心境を言い表して、何か夢を見ているようであった、と言っていますねえ。実に戦争に負けて、捕虜として70年も異国の地で暮らし、祖国に戻ることが許された。その出来事はまさに神様の格別な憐れみと導きなくして起こり得なかった、というわけです。

 ところがその夢は急に冷めてしまいます。というのも、彼らを待ち受けていたのは荒れ果てた町の再建、そして食料の確保という現実でした。彼らはもはや捕囚という不名誉な過去からは解放されましたが、長い間放置され荒廃しきった時に鋤を入れ耕し開墾する辛い生活に直面したのです。しかもまともにも農耕器具と呼べるものもないばかりか、そもそも大都会バビロンで農業とは全く無縁の生活をしていた彼らは、種蒔きから学ばなくてはならなかったのです。

 そしてさらに労苦の中にあった彼らを打ちのめすように不作という不幸が襲いました。自然も彼らの味方はしてくれませんでした。けれども彼らは、「 涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。」(5節、6節 新改訳第三版)と歌いながらこの困難を乗り越えていくのです。

 神に期待し信じる者の強さがそこにありますね。人生、「喜び叫びながら刈り取ろう。」と信仰を持って前に向かって進みたいものですね。

 では良き一週を祈ります。

 (PBA制作「世の光」2020.2.19放送でのお話より )

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  さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。 
  
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