♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■イエスの昇天 / 板倉邦雄

2018年06月19日 | Weblog
2018/5/15放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
ルカの福音書の連続メッセージは今日で終わりになります。
 最後は「イエスの昇天」です。

 さて、復活されたイエス様は弟子たちをベタニヤ村の近くまで連れて行きました。オリーブ山の山頂ではなかったでしょうか。イエス様は両手を挙げられ、弟子たちのために祝福の祈りを捧げられました。祝福しておられるうちに彼らを離れて天に挙げられ上って行かれたのです。弟子たちは山頂でイエス様を礼拝し、非常な喜びに溢れてエルサレムに帰りました。そしていつも神殿にいて神様を誉めたたえていたのです。(ルカ24章50~53節参照)

 このイエスの昇天を通して私たちは三つのことを覚えたいのです。
 まず第一は、イエス様の生涯は生まれてから昇天に至るまで私たち様を祝福することでした。子どもたちを祝福し、その家族を祝福しました。それは私たちが祝福を他の人々に与えるためではなかったでしょうか。祝福を与えられた人だけが他の人を祝福することができるからです。

 第二に、天の父なる神様と少し交わった人はやがて天の父の元へ帰っていくということです。「祝福しておられるうちに彼らを離れてイエスは天にあげられ上っていった」(ルカ24章51節参照)と作者のルカは書いています。私たちもこの地上で天の父なる神様に祈り、人々の祝福のために祈り続けて参りますと、祝福の風に乗って天の父の元へ帰っていくのでしょう。

 第三に、私たちは地上にいる限り、イエス様を神として礼拝し、喜びに溢れて神様を誉めたたえていくものとなりたいものですね。苦難の多い人生をなぜ生きるのか。私たちキリスト信徒たちにとって人生の最高の目的が聖書を通して掲示されているからです。それは、私たち人間にとって生きる最高の目的は、神の栄光を表し、神を永遠に喜ぶことだからです。

 長い間、ルカの福音書を熱心に聞いてくださったラジオの前の皆様に心から感謝します。次回からは同じルカが書いた使徒の働きです。
 
  (PBA制作「世の光」2018.5.15放送でのお話より )

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このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■神への誠実さの広がり / 岩井基雄

2018年06月18日 | Weblog
2018/5/14放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。
 
第二週の月曜日は旧約聖書に登場するヨセフの人生について学んでいます。エジプトの大臣となったヨセフは兄たちの心の変化を確かめようと、兄シメオンを縛り捕え、末の弟ベニヤミンを連れてくるようにに命じました。更に、兄たちが穀物の代金として持参した銀を戻して穀物の袋に入れ、彼らがイスラエルから戻って来るの待ったのです。

 イスラエルに戻った兄たちの話に父ヤコブは驚きますが、飢饉がなおひどくなる中、ヤコブは末の子ベニヤミンを手放し、兄たちと一緒にエジプトに送ることを決断したのです。握りしめていたものを神様に委ねる決断をヤコブもしたのですねえ。

 またヤコブは先に戻された銀と共に二倍の銀も持参するよう息子たちに命じました。行く途中もいろいろな心配や懸念が兄たちの心にはあったことでしょう。しかしヨセフはエジプトに戻った兄たちをごちそうで歓待します。戸惑い警戒する兄たちはヨセフの家の管理者に前回の銀が袋に入っていた事情を説明します。その時この管理者はこう答えたのです。「安心しなさい。恐れることはありません。あなたがたの神、あなたがたの父の神が、あなたがたのために袋の中に宝を入れてくださったのです。あなたがたの銀は、私が受け取りました。」 旧約聖書 創世記43章23節 (新改訳2017)

 ヨセフからの説明や指示がこの管理者にあったのでしょうか。彼は、「あなたがたの父の神が、・・・袋に宝を入れてくださった」と語るのです。主人ヨセフの思いや信仰を受け、複雑な状況の中で兄たちに誠意を示すこの管理者はエジプト人でしたが、まるで神の民のようです。ヨセフの、神様への信頼が自分の家のしもべたちにも広がっていたと考えられるでしょうか。管理者は捕らえていたシメオンを兄弟たちの所に連れて行きました。
 この管理者の誠実な姿勢から、神は神に信頼して歩む人の家全体を祝福され、神と人への誠実さを豊かに与えてくださることが分りますね。私たちも自分の神様への信頼と信仰を他の家族にも、友にも分ち合うものとさせたいただきたいと願います。

 聖書のことば
 「私と私の家は主に仕える。
      旧約聖書ヨシュア記24章15節

       PBA制作「世の光」2018.5.14放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■聖絶 / 羽鳥頼和

2018年06月16日 | Weblog
2018/5/12放送

 世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。
 
今日は旧約聖書ヨシュア記の10章に出て来る「聖絶」ということについてお話しします。聖絶という字は、聖書の聖、断絶の絶、と書きます。10章にはヨシュアに率いられたイスラエルがカナンの地の南部地域をどのように占領下か、その戦いが語られています。そこには、神の命令によってイスラエルが彼らを聖絶した、と記されています。実際に聖書は聖絶したことについてこのように語っています。
 「こうして、ヨシュアはその全土、すなわち山地、ネゲブ、低地、傾斜地、そのすべての王たちを打ち、ひとりも生き残る者がないようにし、息のあるものはみな聖絶した。イスラエルの神、主が命じられたとおりであった。
          (ヨシュア記 10章40節 新改訳第三版)

 ここから分るのは聖絶とはみな殺しにすることだということです。しかし聖絶はむごい方法で殺すいわゆる虐殺とは違います。聖絶とは原語では「閉じる」という意味があります。閉じるというのは、あるものを一般的な用途に用いることを禁じて、神のために用いるあるいは神に捧げることを意味しています。また人に対する場合は限定的に用いられ、他の人々を不信仰にしてしまうものを排除することを意味していました。

 聖絶は主権者である神が命じられたときにしか行なってはならない事でした。イスラエルの戦いでいつも必ず聖絶が行われた訳ではありません。そして現在、神はこのようなことを命じられることはないと思います。聖絶は旧約聖書の時代に神が特別に命じられたことだからです。そして新約聖書では人を滅ぼすのではなく、人を救うことが重要なこととして語られているからです。すべての人を救うイエス・キリストの救いがキリストの十字架と復活によって明らかにされたからです。

 聖書が私たちに勧めていることは、人を殺す戦いではなく罪との戦いです。罪を行うことを止めて、正しい生き方をするようになるのです。そして私たちが神を愛し、人を愛して、本当の平和を作ることを聖書は勧めています。

 明日は日曜日です。キリスト教会にぜひいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2018.5.12放送でのお話より )
 
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■義に飢え渇く者は幸いです / 関根弘興

2018年06月15日 | Weblog
2018/5/11放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
 新約聖書の福音書の中に、イエス・キリストがガリラヤ湖を見渡す小高い丘の上で人々にお語りになった山上の説教と呼ばれているものがあります。その中でイエス様は、本当に幸いな人とはどのような人かということを教えてくださいました。今日はその四番目のことばを紹介しましょう。
 「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。
」(マタイの福音書5章6節 新改訳2017)
 
 「飢え渇く」とは、これは食べるものが無く餓死寸前で食べ物を探し求める姿であったり、また砂漠の中で喉の渇きのために必死に水を求める姿です。食料や水を今得ることができなければ生きていけない!というほどに求めている状態ですねえ。それと同じように必死で義を求めている人は幸いだ、とイエス様は言われたんです。

 それでは義とは一体何でしょう。義というのはこれは正しいという意味ですよねえ。でも私たちが正しさを求めていくとき、ときには的外れだったり、一方的であったり、あてにならないこともあります。何が正しいことなのか。その基準はどこにあるのかということを突き詰めていくと、神様ご自身の中にある義、正しさを求めていくということに繋がっていくんです。

 この世界は不条理や不正がたくさんあります。何が正しいのか分からなくなってしまうこともあります。だから私たちが神様の義を、正しさを、飢え渇いて水を求めるように求めていくことは本当の幸いに繋がるんだよ、とイエス様は言われたんです。

 また、義ということばは関係を表すことばでもあるんですね。これは神様を「天のお父さん」と呼び求めることりできる何の隔てもない関係が義なる関係なんです。イエス様は、義に飢え渇く人たちは満ち足りると言われましたねえ。もし私たちが自分の何か行いによって自分の正しさを、義を証明しようとするなら、決して満ち足りることはありません。自分の中にはこれも足りない、あれも足りないという風になるでしょう。いつも何かが足りない不安を抱いて生きることになるでしょう。でも義に飢え渇き、神様の義を求めてイエス様を信頼し、神様とまっすぐで親しい関係を求めていくとき、あなたは満ち足りる、と約束されているんです。

 「義に飢え渇く者は幸いです。
 なぜなら、「満ち足りるからです。

  (PBA制作「世の光」2018.5.11放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■十戒 -自由への励まし 58 / 大嶋重徳

2018年06月14日 | Weblog
2018/5/10放送

世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。
 聖書には十戒と呼ばれる神と人との間に結ばれた約束があります。
 十戒第五戒には、「あなたの父と母を敬え。」(出エジプト記20章12節 新改訳2017)とあります。第五戒は、親に対して敬われやすい父になること母になることを求めています。
 新約聖書では「父たちよ、子どもを怒らせてはいけません」ということばがあります。それは父親たちを語ることばや態度が余りにも暴力的で子どもの自尊心を傷つけるような親がいたことを表しています。今の時代もそのような親がいることを私たち知っています。過干渉すぎる親から息苦しさを覚え、自分の人生を肯定する事ができない子どもたちがいます。また、育児放棄であるかのように子どもたちをきちんと叱れない親もまたいます。そのように叱られて来なかった子どもたちもまた、自分は愛されてこなかったと自分を肯定することが難しくなります。何より、親となったあなたの人生にも、敬いやすい父と母がいなかったという事があるのではないかと思います。

 それは非常に辛いことだったと思います。しかしそうであったとしても、自分の子どもを同じ状況に置いてよい理由にはなりません。敬えない親子関係の鎖は自分たちの代で断ち切らなければならないからです。自分の親を受け入れ、自分の親を尊んで生きることができる人生は、自分の人生を受け入れ、自分の人生を尊んで生きやすくしていくことができるのです。もし自分の人生では見ることができなかった光景であったとしても、自分の子どもたちには親を敬うことができる光景を見せてあげたいのです。

 私も今二人の子どもの父親です。欠けだらけの私の人生の弱さが自分の子育ての至る所で現れてしまいます。親になるのは何と難しいことか、と日々痛感しています。娘がまだ小さな赤ちゃんだ頃でした。夜中に泣き続ける娘の声に「うるさい!」と怒鳴ってしまったことがありました。娘が驚いてこっちを見ているかを見て、ああ自分は変わらないといけない、と思わされました。父親になることを学ばないといけない。そうでないとこの子の人生に自分は暗い影を落としてしまう、と思ったのです。

 感謝なことは、私たちに十戒を与えてくださった神は父なる神と言われる神です。この神様から私たちが父となる、親となることを、学んでいけるということはどれほど豊かな恵みでしょうか。この父なる神との交わりによって敬われやすい親にさせていただきたいと思います。

   ( PBA制作「世の光」2018.5.3放送でのお話しより )

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■永遠の贖いを成し遂げる / 福井 誠

2018年06月13日 | Weblog
2018/5/9放送


世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「永遠の贖いを成し遂げる」です。 ヘブル人への手紙9章12節から読んでみましょう。

 「また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。」(新改訳2017)

 先週もお話したことですが、日本人は神様を信じることは抵抗はないけれども、神様と自分の間にキリストが挟まるとこれをどう理解したらよいか分からないことがあります。そこで先週は、神様がキリストという人となって私たちのそばにこられた神であることを話しました。私たちはキリストを見ることで神をより良く知ることができるのです。

 今日はキリストについて、もう一つのことをお話しします。と言いますのは、このヘブル人への手紙は当時のユダヤの文化を踏まえて語られていますね。ユダヤ人は人間が神に近づき、その祝福を受けるためには、人間がきよめられること、罪赦されることが大事だと考え、それは動物をいけにえとして捧げることによって達成されると考えました。

 さしずめ日本人でしたら、神の前に出るには最低、水による清め・みそぎが必要だと考えるところでしょうが、ユダヤ人は水ではだめ、血だ、動物のいのちの犠牲によって私たしたちは罪赦されて神の前に恐れることなく出ることができるのだと考えた訳です。

 そこでヘブルの著者は、そのように動物の犠牲が私たちの罪の赦しを成し遂げ私たちをきよめて神の前に出ることを可能にするというのなら、まして、キリストの十字架の死による犠牲はどれほど私たちの罪の赦しを完全なものにし、きよめ、神の前に出ることを容易にするだろうかと語りかけるのです。

 実にキリストは神であられるのに神であるあり方を捨てて人の底辺の人生をつぶさに味わっただけではなく、最後には自分を捧げて完全な罪の赦しときよめを成し遂げてくださいました。この子なるキリストと共に安心して私たちはさばき主である父なる神の前に立つことができるのです。神を信じるときに、このキリストのわざが切っても切れないものであること、キリストの十字架も一緒に受け入れていく必要があることを知っていただきたいと思います。

(PBA制作「世の光」2018.5.9放送でのお話より )

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■私たちの心を開いて / 板倉邦雄

2018年06月12日 | Weblog
2018/5/8放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
私たちの心は開いたり閉じたりするようですね。心は三つの領域から成り立っていると言われます。理性と感性そして意思です。この三つの領域を開いてくださるのは復活のイエス様です。

 さて、復活のイエス様は弟子たちに最後のことばを語りました。
 「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時、あなたがたに話して聞かせたことばを思い出してください。モーセの律法と預言者と詩篇すなわち旧約聖書にわたしについて書いてあることはことごとく必ず実現するということでした。」(ルカの福音書24章44節参照)

 そこで復活のイエス様は聖書全体を悟らせるために彼らの心を開いてこう言われたのです。
 「こう書かれてあります。キリストは十字架にかけられて苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、復活します。そしてキリストの名を信じることによって罪の赦しを 得させる悔い改めの福音がエルサレムの都から始まって世界中のあらゆる人々に宣べ伝えられます。あなたがたはこのことの証人として立てられているのです。さあ、わたしは天の父が約束してくださった聖霊をあなたがたに送ります。あなたがたは上からの聖霊の力をいただくまではエルサレムの都にとどまっていなさい。」(ルカの福音書24章45~49節参照)

 聖書全体がイエス・キリストを証ししている書物だと言うことが分り私たちの心が開かれますと、聖書全体を理解することができるようになるということですね。また聖書全体の骨組みが語られたりしますと、私たちの心がキリストに向かって開かれるという作用があります。聖書全体の骨組みとはキリストが私たちの罪の身代わりとなって十字架で苦しみ死んでくださったこと、そして死んで葬られ三日目によみがえってくださったことです。そして私たちが十字架と復活のキリストを信じ、神への悔い改めをするとき、罪の赦しが約束されていることです。これがキリストの福音と呼ばれるものなのです。

 私はこのキリストの福音を18歳の高校生の時、アメリカのキリストの証人・宣教師の宣教と証しの話を聞いてキリスト信徒になりました。そして私もキリストの証人になろうと決断して伝道者となったのです。

  (PBA制作「世の光」2018.5.8放送でのお話より )

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■砂漠の地を水の湧き上がる所に / 岩井基雄

2018年06月11日 | Weblog
2018/5/7放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。
 第一月曜日は詩篇から学んでいますが、今日は詩篇107篇の後半から「砂漠の地を水の湧き上がる所に」と題してご一緒に考えてみましょう。

 先月は、人生の深い闇や死の陰の中から神様に叫びを捧げるとき、神である主が私たちのことばにならない祈りにも答えてくださることを学びました。聖書が語る神様はあなたの心からの祈りや叫びを聞き、恵みと慰めを与えたいと願っていらっしゃるのです。そのことが今日の箇所にもあります。今日の詩篇をお読みします。

 「主は荒野を水のある沢に 砂漠の地を水の湧き上がる所に変え そこに飢えた者を住まわせる。
  彼らは人が住む町を堅く立て 畑に種を蒔き ぶどう畑を作り 豊かな実りを得る。

 旧約聖書 詩篇107篇35節から37節

 私たちの人生には時に砂漠のような渇きや荒野のような苦難がありますねえ。その苦しみの中からの叫びと祈りに神様は答えてくださり、荒野を水のある沢に、砂漠を水の湧き上がる所に変えてくださると、この詩篇は歌っているです。

 この詩篇の背景には、神の民イスラエルが自らの愚かさと罪のゆえに招いた屈辱的なバビロン捕囚がありました。自分たちの罪のゆえとはいえ、神の民として選ばれたイスラエルが国を奪われ他の国の捕虜として曳いていかれるのは受け入れがたいことでした。イスラエルはその荒野のような苦悩の中で神様に向かって叫び求め、そして憐れみ豊かな神様は彼らの祈りに応え、その苦難から救い出し、荒野を水のある沢に、砂漠の地を水の湧き上がる所に変えてくださったのです。神にそむき、罪を露呈した神の民を神様は見捨てず、憐れみ、取り扱い、祝福と恵みへと導かれたのです。

 この詩篇107篇の中で、「主に感謝せよ。その恵みのゆえに。人の子らへのくすしいみわざのゆえに」という祈りが何度も繰り返されています。詩篇の作者だけではなく、現代に生きる私たちもまた、神の御子キリストにある救いと憐れみを受け取り、なお豊かな感謝を神様に捧げていくことができるのです。今あなたがどのような苦悩や死の陰を歩むようなことがあっても、神様に信頼し、祈りを捧げて歩んでみませんか?

       PBA制作「世の光」2018.5.7放送でのお話しより)

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■荒野の旅から定住生活へ / 羽鳥頼和

2018年06月09日 | Weblog
2018/5/5放送

 世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。
 
今日は旧約聖書ヨシュア記5章からお話しします。指導者ヨシュアの率いるイスラエルはヨルダンを渡ってヨルダン川の西側に入りました。イスラエルの民が自分たちの住む所に近づいてきたことを知ったエモリ人、カナン人について、聖書はこう語っています。

 「イスラエル人のために彼らの心がしなえ、彼らの内にもはや勇気がなくなってしまった。」 (ヨシュア記 2章11節参照 )

 戦う前から彼らは諦めていました。そして聖書は、ヨシュアたちイスラエルの民が行なったことを語っています。彼らは神の命じられた通りに割礼を行いました。割礼には、神との契約を結ぶ、という意味がありました。神と民の契約とは、神は民に祝福を与えるということを、民は神に従い仕えるということを、それぞれに約束することでした。

 聖書は続けてヨシュアたちが神の救いのみわざを記念する過ぎ越しのいけにえを捧げたことを語っています。いけにえを捧げる事も神との契約を確認することでした。

 こうして彼らは神に従う決意を新たにしたのです。

 聖書は続いて、彼らがその地の産物を食べるようになったことを語っています。その日からこれまで荒野の40年の旅の間、与えられた食べ物マナは与えられなくなりました。こうして荒野の旅が終わり、約束の地での定住生活が神によって始まったのです。

 聖書は更に、エリコの町の近くにいたヨシュアに御使いが現れたことを語っています。その御使いは、神の軍勢の将軍でした。神によって戦いの準備が整ったのです。この時カナン人たちは戦う気力を失っていましたが、イスラエルの民は自分たちと神との契約を確認して神に従う決意をしていました。このことからイスラエルは戦争をするときも、そして何をするにも、神に従って行うことを教えられたのではないでしょうか。何をするときにも大切なのは神に従う信仰です。

 明日は日曜日です。キリスト教会では神に礼拝を捧げます。あなたもぜひお近くのキリスト教会へいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2018.5.5放送でのお話より )
 
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■柔和な者は幸いです 2 / 関根弘興

2018年06月08日 | Weblog
2018/5/4放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
 新約聖書の福音書の中に、イエス・キリストがガリラヤ湖を見渡す小高い丘の上で人々にお語りになった山上の説教と呼ばれているものがあります。その中でイエス様は、本当に幸いな人とはどのような人かということを教えてくださいました。前回、幸いの三番目のことばを紹介しましたね。
 それは、
 「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。」(マタイの福音書5章5節 新改訳2017)
 ということばでした。
 
 この柔和とは、神様に信頼し、神様から教えられ、あらゆる面で神様の愛と恵みの支配を喜んで受け入れる、そんな謙遜の姿だということを前回学びました。

 それでは柔和な者がどうして幸いなのでしょう。それは「地を受け継ぐからです。」とイエス様が言われたからです。

 「地を受け継ぐ」とはどのような意味でしょうか。これは柔和な人は地上のどこかの土地を自分の名義にするという意味ではありません。地上の誰よりもまさって柔和であったと言われるあの旧約聖書に登場するモーセも、ほんのわずかな土地さえ相続することはありませんでした。彼は約束の地に入る前に天に召されたんですねえ。それではイエス・キリストはまことの柔和なお方ですね。イエス様ご自身もこの地上のどこかの土地の名義人になることはありませんでした。世界中の法務局に行って調べてみてもイエス・キリスト名義の土地などはありません。

 地を受け継ぐとは一体どういうことなのでしょう。それはこの地上で自分の居場所が備えられていくということなんです。私は神様によってこの場所に遣わされ、ここで生かされている。私がここにいることには意味があるのだ。私はここに居ていいのだ、と告白できるものとされていくということなんです。

 ある人は、私なんて生きている価値が無い。私の居場所が無い。そういう風に感じている人はたくさんいるんですね。でも神様を信頼し、神様の愛と恵みの中に生かされていく、そんな謙遜さを持って生きていくとき、神様が一人ひとりに自分らしく生きる場所を人生に意味と目的とを持って生きる道を備えてくださる、と約束されているんです。

 そしてこの地上の生涯はいつかは終わりますね。私たちが今いる場所は仮の住まいです。しかしこの地上での生涯が閉じた後には、永遠の天の御国を受け継ぐ者とされているのです。だから、柔和な者は幸いなのですね。
               
  (PBA制作「世の光」2018.5.4放送でのお話しより)

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