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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■聞く事は人生の基本

2004年11月05日 | Weblog
 世の光の時間です。お元気ですか? 安海靖郎(あつみやすお)です。

 今日は、聞くことの大切さってことについてお話をいたします。

 円満な人格とか、人間関係が良く築かれていくためには、聞くことが一番の土台だと言うのです。こういう分野の専門家、カウンセリング・コミュニケーションの専門家で、デービッド・アウグスバーガーという人が「親身に聞く」という本を書いていますが、その中でこのように言っています。

 聞く事、そして聞いてもらう事は、人間にとって呼吸と同じです。生まれてから死ぬまで変わる事なく続きます。生まれたばかりの子どもの受ける最初の刺激は、母親から伝わってくる心臓の鼓動です。赤ちゃんは大きな物音を恐れる。それと、下に落ちるのが恐ろしい。そこで母親の胸の柔らかな響きを聞き、暖かく包む両腕に支えられている時に安心感を与えられます。人生にはいろいろな段階がありますが、どんな時でも、人の心と心をつなぐ基本的な手段は聞く事です。発作に襲われて、見る事も話す事も匂いを嗅ぐ事なども一切の感覚が失われた後でも、聞く能力だけは最後まで残ります。何歳の人にとっても心の底に最も深い感情を呼び起こすのは聞く事なのです。

 確かに聞く事によって人は生きる力や慰めや励まし、与えられますねえ。また、聞く事で傷を受けてしまうなんていう場合もある訳ですけれども、良いことば、励ましのことば、元気づけることば、必要ですね。これをたくさん聞いて、いっぱい心に貯えていけたらいいです。でも人間のことばには限界があります。

 今から3000年も前ですが、旧約聖書の詩篇119篇という所に、神様のことばを聞いていく事、心に貯えていく事の大切さについて、こんなふうに謳われています。

 どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。私は心を尽くしてあなたを尋ね求めています。どうか私が、あなたの仰せから迷い出ないようにしてください。あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。

 神のことばと言われる聖書のことば、それは私たちをいつも慰め、励まし、また生きる力を、また喜びを与えることばです。こんな神のことばをしっかりと心に聞いて貯えて、またその中に生きることができたら何と幸いではないでしょうか。

 (PBA制作「世の光」2004.11.05放送でのお話しより)

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■隣の意地悪バアサン

2004年11月04日 | Weblog
 お元気でいらっしゃいますか? 世の光の榊原 寛(ひろし)です。

新聞の人生案内の欄に、「隣人は 意地悪バアサン」と題しましてですね、50代の主婦の方が相談を寄せていらっしゃいました。紹介してみます。

 50代の主婦。隣に住む80代の1人暮らしのおばあさんと折りあいが悪く悩んでいます。
 おばあさんは健康で口達者。意地悪バアサンという呼び名がピッタリの人で、この人の顔を見ただけで私の胸はドキドキして憎しみの気持ちがわいてきます。憎しみのあまり体調が悪くなるほどです。
 以前、土地境のことで激しく口論して以来、あいさつはもちろん、お互いに一言も口をきかない状態です。それはそれですっきりしていていいのですが、人が来ると我が家の悪口を言っているのが耳に入ります。
 一部始終見張られているような感じです。うわべだけでも普通につきあえれば、と思うものの、どうしても好きにはなれません。心の中はクタクタです。

 えー、この悩みに対して、心療内科医 の海原純子先生が、こんなアドバイスをしていらっしゃいました。

 おとなりのおばあさんはあなたの悪口を言っているとのことなので、あなたのことがあなた同様、心にひっかかっているのだと思います。どうでもいいと思ったら無関心になり悪口も言わなくなるものですよ。おばあさんも一見元気に見えるけれど、内心はあなたを見かけると胸がドキドキしているのだと思います。 80代の1人暮らしはいくら健康に見えても不安のはず。あなたの心の中の意地悪バアサンのイメージを「1人暮らしの不安から、強がってわめいている人」というイメージにかえてみて下さい。 誰にでも嫌いな人はいるものです。無理に好きになることはありません。ただ、あなたの心の中にある怒りを手放し、嫌いな人を許そうと努力すると、気持ちがすっきりするはずです。あなたの体調が悪いのは、おばあさんのせいではなく、おばあさんに対する怒りのためだと思います。
 こんなような答えがありました。新約聖書のヨハネ第一の手紙4章11節にはですね、「神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」とあるんです。嫌いな人や嫌な人に対して心の中にある怒りを手放し、嫌いな人を赦そうと努力する力、これこそですね私たちが神に愛され、しかもキリストのいのちがかけられるほどに愛されているってことを経験する所に与えられるものだと思っています。神が私たちをご覧になる時、私たちは嫌な奴どころか、汚れた者、罪ある者なんです。当然、神の怒りと滅びに会うべき者なんです。それが赦されているのです。愛されているのです。その神様の愛を経験する時、嫌いな人を憎み続け、恨み続ける事はできません。私たちは一層神に赦され愛されるためにも、赦していこう、受け入れていこう、そんな生き方があなたによって始まっていきます。

 (PBA制作「世の光」2004.11.04放送でのお話しより)

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■今日の約束のことば「なぜこわがるのか」

2004年11月03日 | Weblog
 世の光の時間です。お元気でしょうか。羽鳥 明です。

 さあ今日の世の光は、まず皆様からのお便りの紹介です。兵庫県明石市にお住まいの伊藤さん36歳からいただきました。

 「毎日毎日とても忙しくバタバタしています。いつもいつも神様がそばにいてくださるという事、忘れずに日々を送りたいと祈っております。」

 伊藤さん、子育て中の忙しいお母さんでしょうか。それとも忙しく働くサラリーマンの方でしょうか。忙しい中、毎朝早朝番組をお聞き下さってありがとうございます。 今日は文化の日、一日ゆっくりできたらいいですねえ。

 さ、今日の約束のことばです。マタイの福音書8章26節のことばです。
イエスは言われた。『なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。』それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。

 弟子たちはガリラヤの湖に舟を漕ぎ出しました。イエス様も一緒です。私も経験しましたが、ガリラヤ湖というのは時々急に突風が吹くんですねえ。大荒れに荒れ、舟が沈みそうになりました。イエス様は舟のともの方で眠っておられました。弟子たちは恐れてイエス様を揺り動かし、助けを求めたのです。その時、立ち上がってイエスが風と波を叱られるとガリラヤの湖は大なぎになりました。

 私たちの人生にも突風が吹き荒れますねえ。人生、沈みそうになる、そういう困難や場合がしょっちゅうです。その時、慌てますねえ。困りますねえ。恐れで一杯になります。しかし私たちと共におられるイエス様は、自然も人間社会すべてをも支配していらっしゃる、しかも愛の救い主なるお方です。何を恐れましょうか。イエス様は立って助けてくださる。これが最後となれば、私たちの天国の安全な港にまでしっかりと連れて行ってくださる。私たち、信じて拠り頼む者には大丈夫なのですねえ。何たる約束でしょうか。

 今日の約束のことば。
 「『なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。』それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。」マタイの福音書8章26節のことばです。

 ではまた聞いてください。

 (PBA制作「世の光」2004.11.03放送でのお話しより)








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■失望があっても

2004年11月02日 | Weblog
 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか。関根弘興です。今日もさわやかに一日を過ごしていきたいですね。

 聖書の中で、信仰の父と賞賛された人物がいます。それは旧約聖書に登場する、アブラハムという人なんです。まあ賞賛されているからといって、彼が完全な非の打ち所のない人であったかと言うと、決してそうではありませんでした。彼も挫折しましたし、落胆もしました。

 ある時、神様はアブラハムに、「わたしが示す地へと旅立ちなさい。」と言われました。アブラハムは一大決心をして、遂に旅立ちました。(きっと神様が示す地なのだからすばらしいことがこの先、待っているに違いない。すばらしい潤いのある地に神様は導いてくださるぞ。果物が豊富に採れ、穀物はあり余る程。家畜のための牧草はたっぷり。・・・) まあそんな夢をいだきながら、彼は旅を続けたと思います。

 しかしどうでしょう。アブラハムのその思いを無惨に壊してしまう出来事が起こったのです。彼が神様に示されたその地に辿りつくと、その場所はなんと、ひどい飢饉だったのです。(ひどいじゃないですかあ。神様に従ったのにこれはいったい何ですか!) 豊かな潤いを期待していたのに、彼はあまりにその地の飢饉がひどかったので、その場所から去って行ってしまいました。彼の神様に対する信頼も下り坂を転げるように急降下して行ったんですねえ。

 私たちは日本の中で、信仰という事を考えると、御利益宗教のイメージがとても強いですよね。信じたらいいことがある。もしなければ、やーめたって具合です。ですから、イエス・キリストを信じても、自分の考えていないような事が起こったり、いわゆる不幸が起こるとすぐに、なーんだあ、イエス・キリストを信じたって何にもいいことないぞ。やーめよ。すぐにそう結論づけてしまう事があるんです。自分にメリットがないなら、信じてる意味なんかあるんですかあ?と考えてしまいます。

 でも、ちょっと待ってください。自分の思い通りになるために神様はいるとするなら、もはや神様は私たちの召し使いですよね。そして、いつのまにか私たちがまるで神様のようになっているんですよ。残念ながら聖書は、信仰を持っていればバラ色の人生を保証しようとは、どこにも書いてありません。しかし、こう記されているんです。「彼に信頼する者は失望に終わることがない。」と。ですから誰の人生にも、思うようにいかない現実や、失望と思われる状況というのは襲うんです。でも、イエス・キリストに信頼していく人生は、決して失望に終わらないと約束しているんですね。アブラハムも、後にこの事を経験するのです。

 (PBA制作「世の光」2004.11.02放送でのお話しより)

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■下手はなさらない神

2004年11月01日 | Weblog
世の光の時間です。お元気でしょうか。村上宣道です。

 御都合主義という言葉がありますね。人は殆ど自分に都合がいいように考え、自分の都合のよいようになる事を望んで、相手も自分の都合に合わせてくれることを期待するものではないかなあと思うんですけれども、でも、こうした自分中心の御都合主義では人間関係はなかなかうまく行かないだろうと思いますよね。

 で、時々、私たちの神信心、宗教というものにもですね、神を自分の都合のいいように利用するって言いましょうか、自分の思い通りの事をしてくれたらその神は信じるに値する神っていうような、つまり御利益中心の信仰、自分中心の信仰といったものもあったりするみたいですよね。

 聖書の中にこういう言葉がありまして、「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。----主の御告げ。----天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」旧約聖書のイザヤ書の 55章という所に書いてあるんですよね。これはまあ当然ですよね。でも、子どもが危険な刃物を持って遊ぼうとしたり、危険な場所に近寄ったりする時、親がそれを止めたりすると、子どもは親の気持ちが分りませんので、泣き出したり、ふて腐ったりって事があったりする訳で、私たちにもこれに似た所があるんじゃないか。自分の都合のいいようにいかなかったりすると神を恨んでしまったりするような事があったりするんじゃないかなあと思ったりするんですね。

 で、聖書の中の有名な言葉の中に、「神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」って、ローマ人への手紙8章に書いてありますね。で、この「すべての事を益にしてくださる」っていうのは、私たちの都合のいいように何でも 事をうまく運んでくださるという事では必ずしもないですね。それは、神様の目から御覧になって私たちにとって一番益になるようにしてくださるという事な訳ですよね。ですから、私たちの信仰というのは、自分の都合をがむしゃらに通してもらうというのではなくって、私たちを罪から救い、永遠のいのちを持つ事ができるためなら、御自分の大切な御子さえも惜しまず犠牲にしてくださる程、私たちを愛してくださっている神が、私たちにへたな事をなさるはずがないという事、いつも最善をしてくださるという、その信頼して生きる事なんですよね。いわば、神の御都合に従って生きる事で、それが一番幸いな間違いない生き方なんだという事、それをこう私たちは覚えながら歩んでいく事が大切だと思うんですね。今日も、最善をしてくださる神様を信頼しながら生きていきたいと、そう思います。

 (PBA制作「世の光」2004.11.01放送でのお話しより)

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