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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■好きです、好きです

2004年11月18日 | Weblog
 お元気でいらっしゃいますか? 世の光の榊原 寛(ひろし)です。

 今日は読売新聞の子どもの歌のコーナーに寄せられた学校という題の詩を紹介しましょう。茨城県
阿見町本郷小学校3年生、浅野ともゆき君です。

 学校が好き。
 学校の給食が好き。笑顔が好き。
 友だちが好き。みんなが好き。先生が好き。
 学校がやっぱり一番好き。

 この、ともゆき君の詩にですね、川崎ひろしさんは、世の中をパッと明るくする詩です、とコメントを寄せていらっしゃいました。私もこの詩を読んで、思わずニコッとしてしまいました。そして考えました。私たちはともゆき君と違って、嫌い嫌いと言って生活しているんじゃないかなあと、そんな風に思ったんですねえ。
 物事もそうですが、人間関係もそぅ。嫌いです嫌いです。嫌です嫌ですと、こう言っていたら、いい仕事もできませんし、いい友だちもできませんよね。すべての人間関係は壊れてしまいます。しかし、好きです好きですと、前向きに取り組めば、きっと向こうから楽しさや幸せがやってくるに違いありません。
 初めの内はですね、好きです、やっぱり嫌いですなんて、行ったり来たりするかもししれませんね。初めの内は、ぎこちないかもしれません。でも、どうでしょうか。芝居の台詞を言うつもりでですね、頑張ってみたら。するとごく自然体で相手や物事に、好きです好きです、と向かうことができるんじゃないかなって思うんです。

 旧約聖書のイザヤ書43章の4節というところには、神様の私たちへのお心が示されています。「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

 私たちはどこから見られても、どう考えられても、嫌いです嫌いです、と言われるような存在の一人のように思えてなりません。しかし神様は、ここでですね、好きです好きです、と私たちのことをおっしゃっておられるんですね。しかも、「あなたは高価で尊い」と言うんです。確かにあなたは能力を持っていて、役に立つ人物のお一人に違いないでしょう。しかし神から見て私たちはどう映っているんでしょうか。わがままがあり、自分勝手があり、互いに憎しみや妬みを持ち、時には嘘もつき、騙しもする、嫌われる存在ではないかなあって思います。そんな私を神様は百も承知でですねえ、好きです好きですとおっしゃって、私たちを愛してくださっているんですよねえ。

 ですから、この神様の愛を、キリストによって経験します時にですねえ、私たちも好きです好きですと神様を愛し、キリストを愛し、また人に向かっても、好きです好きですって人を愛することが始まるんじゃないだろうかと思うんです。いかがでしょうか。はじめは台詞だとおもって、あなたの身近な人に、あなたは私の目に高価で尊い!、なんて言ってみたらどうでしょう。あなたは私になくてはならない人なのよ!、と言ってみたらどうでしょう。

(PBA制作「世の光」2004.11.18放送でのお話しより)

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■まったき平安

2004年11月17日 | Weblog
 世の光の時間です。お元気でしょうか。羽鳥 明です。
 さあ今日の世の光は、まず皆様からのお便りの紹介です。
 台風荒れすさぶ宮崎県日向市からお見舞いのおはがきをいただきました。

 「そちらは大丈夫ですか? お元気でいてください。」
    そして一首。
 「祈る時、さまざまな幸せ彩るシヤボン玉」

 宮崎県日向市にお住まいの梅田さん、50歳くらいの方でしょうか、からいただきました。そちらは本当に大変な中なのに、わざわざお見舞いのはがきです。ありがとうございました。

 さあ、今日の約束のことばです。旧約聖書 イザヤ書26章3節
志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。

 「シヤボン玉飛んだ。屋根まで飛んで、壊れて消えた。」と、童謡では歌っていますが、どこまでも寂し気な歌ですね。しかし、今日御紹介した、宮崎の日向の梅田さんの句のように、どんなに小さく力ないように見えても、神を信じ、神を堅く信頼し従って祈っておる志には堅固さが見えるのです。神を信頼して信じて祈る祈りには、外面からは屋根まで飛んで壊れて消えたと言いたくなるような哀れさがあるかもしれません。しかし堅く神を信じ信頼して祈る祈りには堅固なきっぱりとした天まで届く力がある、祈りのシャボン玉ではありませんか。幸せ色が輝くのですね。神様は私たちに全き平安、揺るがない、変わらない神の与える平安を私たちに約束してくださるのです。私も何人も志堅く神を信じ抜き、祈り抜き、神様を期待して生きた魂の姿を見て来ました。どんな時、どんなひどい事があっても、揺るがない平安、完全な平安を私たちに全能なる神様は堅く約束してくださるのです。

 今日の約束のことば 「志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。」 旧約聖書 イザヤ書26章3節のことばです。

 それではまた聞いてください。

  (PBA制作「世の光」2004.11.17放送でのお話しより)

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■思い煩いがもたらすもの

2004年11月16日 | Weblog
 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか。関根弘興(ひろおき)です。今日もさわやかに一日を過ごしていきたいですね。

 私たちの人生に、心配や不安、思い煩いというものがなくなるということは無いかもしれませんねえ。まあ特に私たちは思い煩う事のスペシャリストですねえ。有名な、旧約聖書のアブラハムという人物も例外ではありませんでした。

 アブラハムは自分の奥さんが美しいので思い煩ったんですねえ。彼がエジプトに行った時、彼はこう考えました。( 困ったぞ。妻がほどほどであれば思い煩わないのに、どうやってこれからエシジプトに住もうか。こんな美人の奥さんがいたら、きっと王様に横取りされて、俺は殺されるかもしれない。) まあ、そのように悩んだというのですよ。

 思い煩いの材料はどこにでも転がっていますよね。美人だと言っては思い煩い、美人じゃないと言っては思い煩う。背が低いと言っては思い煩い、背が高いと言っては思い煩う。お金があると言って思い煩い、お金が無いと言って思い煩う。今は幸せ、でもこれがいつまで続くかと思うと心配でと言って思い煩い、これから先の事を思うと思い煩う。子どもの成長を見て思い煩い、自分の年を見て思い煩う。人は何でも思い煩いの材料にする天才ですねえ。

 そして思い煩いは心配を生みます。そして心配は恐れを次から次へと生み出していくんです。考えれば考えるほど否定的になり、もうダメだあと消極的になっていきます。その結果、何とですね、自己中心的な行動を人はとっていくんですねえ。

 先ほどのアブラハムの場合は、妻の事よりも自分の事が優先になりました。自分のいのちの事しか考えられなくなりました。そして自分の妻を妹と偽って、奥さんは結局、王宮に召し抱えられてしまいました。もちろんアブラハムは妻を妹と言えば二人とも生き延びられると考えたのかもしれません。

 自己中心的な行動は必ずそのあと、言い訳に終止します。まあ、へりくつを言う訳ですよ。思い煩いが心配を生み、心配が恐れを生む。そしてその恐れは自己中心の心を育て、結局、言い訳、へりくつばかりの人にしてしまうんですねえ。あなたは言い訳が多くありませんか?

 新約聖書のピリピ人への手紙4章6節に、「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。 」と書かれています。

 思い煩いを委ねていきませんか?

    (PBA制作「世の光」2004.11.16放送でのお話しより)

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■永遠に変わらない神

2004年11月15日 | Weblog
 世の光の時間です。お元気でしょうか。村上宣道です。

 えー、私は大平洋戦争のあの最中はですね、小学生だったんですけれども、私のクラスの先生はもう一生懸命ですね、「天皇陛下は神であらせられる。おそれ多くも」って天皇陛下って名前を出す時には直立不動をしてですね、そして「おそれ多くも」ってことばを必ず使って、「我々日本国民はこの天皇陛下に忠義をもって仕え、そして命を殉ずる事もむしろ光栄である。」というようなことをですね。一生懸命言ってる人でした。

 で、戦争が終わったのが8月15日、ちょうど夏休みの最中だった訳ですけれども、夏休みが終わって新しい学期に学校へ行くとですね、その同じ先生が、「いやあ天皇は神だと言っていたけれども、どうもあれは違うらしい。やっぱり我々と同じただの人間だ。」というふうなこととかですね、そしてアメリカや英国のことを鬼畜米英っていうふうな言い方をしてましたけれども、「いやあどうもあれはキリスト教の国で悪くはないらしい。」とかですね。なんか、それこそ夏休み前と夏休み後とではまるっきりこうがらっと違う訳ですね。で、神であったものが人間になってしまうとかですね。

 考えてみるとそのいわゆる日本の宗教の中には人間であったものが神になったり神であったものが人間になったりというのがあったりする訳ですけれどもね。このヘブル人への手紙13章という所に、「イエス・キリストはきのうもきょうもいつまでも同じです。」ということばがあるんですけれども、まことの神はいつも同じでなければおかしい訳ですよね。「きのうもきょうも」とありますけども、過去においても、私たちがこの地上に存在する以前から、私たちが今生きているその過去においても、神は私たちにとって神でありましたし、真実な方でありましたし、今日もいつも共にいて私たちを救い、助け続けてくださるお方でありますし、たといこの地上のいのちを終えたとしても神はいつまでも私たちの神であり続けてくださるという事が聖書の約束ですねえ。

 聖書を読みますならば、イエス・キリストを信じる者は神の国に神と共に永遠に住むという、そういう意味では、きのうも今日もいつまでもお方として私たちと共におり続けてくださるお方、それが聖書の言うまことの神様だっていう事をぜひ知っていただきたいと、そう思うんです。

(PBA制作「世の光」2004.11.15放送でのお話しより)

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■あなたがたの命はキリストと共に神の内に

2004年11月13日 | Weblog
 世の光の時間です。お元気でしょうか。羽鳥 明です。
 さ、今日の世の光は、皆様からお寄せいただく「心に残る聖書の言葉」の御紹介です。

 青森県弘前市にお住まいの町田さんは、新約聖書コロサイ人への手紙3章3節「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。 」そのことばをお寄せいただきました。

 20歳台後半のある日、実家の母から職場に一本の電話がありました。それは、いとこの死を知らせるものでした。2歳年上の彼はとても優秀で、私も親戚の者たちもみんな彼の将来に期待を寄せている、そんな存在でした。谷川岳で遭難したとの事でした。その突然の死の知らせに、私は悲しみというよりもがっかりし、全身の力が抜けてしまいました。実は私はその半年前くらいから神の独り子イエス・キリストが十字架にかけられ、死なれたという事をはっきり知らされていたのです。しかしどうしても復活という事がわかりませんでした。それで毎日、神様、私にキリストが復活された事を教えてくださいと祈り求めていたのです。いとこの死の知らせは私を抜け殻のようにし、喜怒哀楽の感情も心の働きのすべてが止まったようになったのです。しかしその時、神様の力が働かれたのだと思います。三日後、聖書を読んでいると、ちょうど三日めにキリストがよみがえられたようにこのみことばが私の目に入り、心に留まったのです。そして分かったのです。ああそうだ。私は今まで死んでいたのだ。キリストがよみがえられて今生きておられるのだ。それは私の主、私の力、私のいのちと分りました。このことはそれ以後の私の信仰生活に大きな力となりました。希望がないように思える時にも死を貫いてよみがえられ、今も生きておられる方に望みを置くようになりました。

 町田さんの心に残る聖書のことば。
あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。
新約聖書コロサイ人への手紙3章3節


 ではまた聞いてください。

(PBA制作「世の光」2004.11.13放送でのお話しより)

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■御霊の実「愛」

2004年11月12日 | Weblog
 世の光の時間です。お元気ですか? 安海靖郎(あつみやすお)です。

 プツンとか、キレルということばが随分使われるようになりました。まあ、それだけ、子どもを含めた人の心が弱くなってるってことでしょうか。どうしたら人の心はもっと強くなれるのでしょうか。それは、忍耐力、諦めないっていう強さというものでしょうか。私たち誰もが自分のことで忙しく、夫婦でも、先生と生徒の間でも、何か関係が薄くなって弱くなってしまって、親も子どもに対してしょうがないと諦めたり、先生も、今の子どもはしょうがないと思ってしまうと、育つべき心の強さ、粘着力が養われなくなってしまうのではないでしょうか。

 今から100年以上も前に、アメリカで、母親を失い、大酒飲みの父親から捨てられ、唯一の兄弟である弟を病気で失い、独りぼっちとなって荒れた少女がいました。ひねくれてしまって、周りの誰からも、手を焼いてもう彼女はどうにもならないと思われていました。この子はいったいこれからどうなるのだろう。ところが驚くことに、この少女こそは後に目が見えず、耳が聞こえず自分の要求すら言えなかったヘレン・ケラーを立派に育てた有名なサリバン先生でした。心が荒れていた少女サリバンを、諦める事なく愛して救いの手を差し伸べ続けたバーバラ神父、盲学校の教師だったのです。諦めない愛に何と大きな可能性が秘められているのでしょうか。

 この諦めない愛で育てられて変わったサリバンさんは、大暴れする少女ヘレン・ケラーに向かって、同じ諦めない愛で接し続けることができ、やがてあの偉大なヘレン・ケラーを育てあげていったという訳です。

 人間の愛には限界があります。でも、そこで諦めらめてしまったら終わりです。むしろ自分の力の限界、愛の限界を感じた時にこそ、無限の愛なる神様に求めていく。神は愛です。求める者に聖霊なる神様が、その心の内に、愛を泉のように湧きあがらせてくださると、聖書は言っています。私たち人間の力尽きてしまったり、愛が果ててしまいそうな時にこそ、まことの神に求めて、聖霊なる神様に心から愛が湧いてくるように祈り求めていけたら幸いですねえ。

(PBA制作「世の光」2004.11.12放送でのお話しより)

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■身の程知らぬ願い

2004年11月11日 | Weblog
 お元気でいらっしゃいますか? 世の光の榊原 寛(ひろし)です。

読売新聞の読売文芸の川柳の欄にですねえ、埼玉県川越市にお住まいの関とくじさん という方がこんな句を寄せていらっしゃいました。「身の程を知らぬ願いに神あきれ」この川柳の評にですねえ、「困った時の神頼みでは神様もおいそれとは叶えてくれまい。ましてや望外の願いと気づかぬあつかましさには苦笑。」とありまして、まあ私も苦笑した次第です。

 ところで、この願いというのは祈りに通じるものですよね。キリストが、こう祈りなさいと教えられた祈りがあるんですよ。それが教会でよく唱えられている「主の祈り」なんです。

 その内容は七つあるんですけれども、その最初の三つはですね、「御名が崇められますように。」神様の名ですね。つまり神様がほめたたえられるようにということ。二つめは、「御国が来ますように。」という祈り。三つめ、これはですね、「御心が天で行われるように地上でも行われますように。」なんです。ま、地上は神の御心というより、人間の意のまま、人間の自己主張が大手を振って闊歩(かっぽ)していますよね。ですから、この地上に神の御心を行ってくださいと祈りなさいと、キリストは言われたんですね。

 主の祈りの前半は全部、神に対して人間がどうあるべきかという内容なんですよね。神頼みの祈りと随分違うように感じます。神の御名が崇められるとかですね、御国が来るようにとかですね、御心が地でも行われるようにとか。まあそんな問題より切羽詰まっていることがあるんだよって言いたいんですけどねえ、ですけど、もし神に関する事を私たち人間が第一と考えたらどうでしょうか。その祈りを聞かれた神は、さの人のために一番いい答えを用意して実現してくださると思いませんか?

 私たちは、実はね、神に対しては罪人に過ぎない訳です。その罪人が、神に対して、ああしてください、こうしてくださいなどとですね、神に指図するような事があっていいんだろうかなあって思うんです。

 ですから、神の御名が崇められること、御心が地でも行われるようにと祈っていればですね、むしろ絶対に間違いがないんじゃないかって、そう思うんですよ。困った時だからこそ、「神様の御名が崇められるように。御国が来ますように。御心が地でも行われますように。」と祈るんです。もちろん、困った時の神頼み的な祈り、しちゃいけないって言っている訳じゃないですよ。そういう祈りも一生懸命祈るべきですけれども、でも、この三つ、「神の御名」「御国が来る」「御心が地でも行われる」こんな祈りを励んで行きたいなあと思いますよ。

(PBA制作「世の光」2004.11.11放送でのお話しより)




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■山に備えあり

2004年11月10日 | Weblog
 世の光の時間です。お元気でしょうか。羽鳥 明です。
 さあ今日の世の光は、まず皆様からのお便りの紹介です。兵庫県西宮市の柴田さん、83歳からいただきました。

 毎朝聞いている聖書の話し、心が洗われる心地です。左膝が痛むので杖をついています。西宮市役所から戴いた黄色の杖です。この杖を見た方は私をよけてくださるのです。ありがたいことです。

 83歳、私は一週間前に84歳になりました。同い年ですね。おっしゃる事、よく分りました。お互いに神様を信じて頑張ってまいりましょう。

 さあ、今日の約束のことばです。旧約聖書 創世記22章14節。

 そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている。

 「主の山には備えがある。」アブラハムは信仰の人でした。主が約束された男の子イサクをやっとこ生まれた時に大喜びでした。ところが神様は、そのモリヤ山の上で犠牲として捧げなさいと言われました。 ( 神様、やっとお授けいただいたこの子どもです。どうして殺して捧げなければならないのですか。) アブラハムは苦しみ悩みました。アブラハムの悲しみ、ようく分りますねえ。しかし信仰の人アブラハムは、最後に決心しました。( 神様は愛のお方、何でも知っていらっしゃる、何でもできるお方。ともかく神様のおっしゃる通りにしよう。神様は悪くはなさらない。)

 たきぎをロバに積み、イサクを連れてモリヤ山に行きました。「お父さん。燃やすたきぎはありますが、犠牲に捧げる動物がおりませんね。」 ともかく山の上に着いたアブラハムは、息子イサクを縛って、たきぎの上に、殺そうと置いたのです。

 「それまで!」神様の御声です。神様は山の上の薮の中に、代わりの犠牲として、動物を備えていてくださったのです。「山に備えあり」これも神様の約束のことばです。どんな時にも神を信じ、神に従える人になりたいものですねえ。

 今日の約束のことば
山の上には備えがある。」創世記22章14節のことばです。

またお聞きください。
 
     (PBA制作「世の光」2004.11.10放送でのお話しより)


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■真実を貫かれる神

2004年11月08日 | Weblog
世の光の時間です。お元気でしょうか。村上宣道です。

 あなたの大好きな言葉って何でしょうか。私の大好きな言葉の一つはですね、真実ということばなんですね。自分が何もできなくても、せめて真実でありたいなあって気持ちがいつもある。しかし、自分を顧みると真実さが乏しいなあっていうことを思いながらその真実を求めて行きたいとという気持ちがまあいつもあるのと、自分がこの生涯を終えて神様の前に立つ時にですね、あれもできなかった、これもできなかった、でもお前は真実に生きてきたねえ、ってもし言われたら、これが最高のお誉めのことばかなあと、というふうな事ですね。その真実を一つの目標にしているつもりなんですね。でもほんとに自分自身を考えてみるとなんて裏表の多い、また何と言いましょうかねえ、心変わりがする不真実な者だなあというふうに思うことが多くてですねえ、けれども聖書の中にこういうことばがあるんですけれども、パウロという人がテモテの手紙に書いてあることばですが、「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」ってことばがあるんですねえ。

 あのう、神様にもできない事があるって、それはご自身を否むことができないって。つまり、ご自分の真実を裏切る事ができない、神にもできないって言うんですね。ですから、神がご自分のご真実を貫かれなくなったらもう神でなくなってしまうというぐらい、神様っていうお方は真実なお方なのだと言うことですねえ。それは、たとえ私たちが不真実で心変わりして、ああもうだめだなあというような状態にあったとしても、神様の側では心変わりがしない。愛すると言ったら、とことん愛するのだという事。あの旧約聖書のエレミヤ書の31章という所にですね、「わたしは限り無き愛をもってあなたを愛している。それゆえわたしは絶えずあなたに真実を尽くしてきた。」ってこのことばは私大好きなんですねえ。で、イスラエルは神様にさんざん背いてきたんですけれども、でも、神の真実は変わらない。「絶えずあなたに真実を尽くしてきた。」私たちは真実でありたいと思うのですけども、しかしながら、自分でそれを裏切ってしまうような事がありますが、それでも神は変わらず真実を貫いてくださる。この神様を知っているって事はすばらしいなと思います。

   (PBA制作「世の光」2004.11.8放送でのお話しより)


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■恵みのゆえに

2004年11月06日 | Weblog
世の光の時間です。お元気でしょうか。羽鳥 明です。
さ、今日の世の光は、皆様からお寄せいただく「心に残る聖書の言葉」の紹介です。

 千葉県千葉市にお住まいの佐藤さん御夫妻からいただきました。新約聖書エペソ人への手紙の2章8節です。
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」

 私たちは1962年、羽鳥純二先生からバプテスマを受けました。1966年、同教会で結婚式を挙げました。幸いな教会生活を過ごしておりましたが、1969年1月、会社の命により富山市に転勤いたしました。1971年、待望の胎の実が与えられ、心から主に感謝しました。つわりが重くて、切迫流産の危険もあり、この間、赤十字病院の入退院を繰り返しておりました。せっかく与えられた命も風前の灯の感があり、私たちは主の恵みをただひたすら祈りました。主にある教会の兄弟姉妹たちも祈ってくださいました。1972年7月11日、主の恵みにより女の子が与えられました。私たちは大きな喜びに満たされ、これこそ主の恵み以外に何もないと思い、このエペソ書の2章の8節のことばから、恵と命名しました。恵は主の恵みのもとに成長し、1988年4月3日に栃木県鬼怒川に於いてバプテスマを受けることができました。みことばの通りに、尊い御救いにあずかることができ、心から主に感謝しました。今はこの恵も二女の母となり、茅ヶ崎同盟キリスト教会の会員として教会生活を送っております。
 佐藤さん御夫妻の恵みに満ちた御生活、淡々と述べてくださった、(お手紙を)感謝いたします。

佐藤さん御夫妻の心に残る聖書のことば
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」エペソ人への手紙2章8節のことばです。また聞いてください。

 (PBA制作「世の光」2004.11.06放送でのお話しより)

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